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盾の魔女と魔導の杖  作者: 雨谷結子
第七章 分かたれた世界
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3 手紙

 七々子が骨火の間に戻ったのは、消灯時間も間際になった二十一時過ぎのことだった。

 骨火の間はがらんとして人気がなく、給仕の小妖精たちの姿も見当たらない。規制派の友人たちとの話し合いに雪崩れ込んでから結局夕食も食い逸れてしまって、今日はほとんどなにも食べていなかった。

 しかし七々子の目当ては遅い夕食ではなかった。

 広間の端から端まで視線を走らせる。何度見渡しても探している人影は見当たらない。ここに来ればまだ残っているかもしれないと思ったけれど、やはり遅すぎたようだ。

 冷たい床にお尻をついて、膝を抱えて丸まる。

 少し前までは、ひとりでいるのが当たり前だった。

 だというのに、今はこのだだっ広い空間にひとりでいるのが無性に心細く感じられた。

 たしかなものがなにもなくて、海の底で息もできずに溺れ死んでいくような心地がする。

 魔法に満ちたローグハインの海で、そんなことなどあるはずもないのに。


 手持ち無沙汰にローブのポケットに手を入れると、かさりと乾いた感触が指先を掠めた。

 そっと取り出して、椿の花の描かれた封筒をなぞる。交流祭の日に、日鞠が手渡してくれた手紙だ。結局まだ、中身は読めていない。

 読む資格がない、と思う。いちばん大事な友だちひとり守れなかった魔術師には。

 こんな感傷は無意味だ。早く寝て体力を取り戻すなり、魔術の勉強をした方がずっと有意義だと女子寮に帰ろうと決めたときだった。

 扉の近くにひょろ長い影がひょっこりと現れた。


「やっほー、ナナコちゃん。やっぱりここにいた」


 珊瑚色の頭を揺らしてニケが微笑む。

 思わず眦が融けかけて、慌ててきゅっと唇を噛みしめる。自分ではあまり人に甘えたりしないタイプだと思っていたけれど、最近ニケの前だとそれがいとも簡単に崩れそうになってしまう。


「ちょいちょい。サボり魔の不良のセンパイの前で肩肘張んないでいんじゃない? ほら、お兄さんになにがあったか教えてみ?」


 ニケは片目を瞑って小首を傾げる。

 瘦せ我慢がもったのはそこまでだった。こらえきれずに七々子は口をひらく。


「ニケの言うとおりだった。私が馬鹿だったわ」


 話せば分かってくれる。ひとつになれる。そう思っていた。

 だけど、それは傲慢な考えだったと思い知った。

 エルリーやテナたち規制派の仲間のことは大事だ。

 エルリーはあの後七々子を気遣って女子寮まで送り届けて、今日のあれこれについて改めて謝ってくれたし、テナは疲れているだろうに今日も七々子の傷を癒す魔法薬を作ってくれて、寮の部屋でずっと七々子の傍を離れなかった。ハヴィはお見舞いに行くと、自分が見舞われる立場にもかかわらず七々子に冗談を言って笑わせようとしてくれた。

 だけど、彼らとなにもかも分かり合うことはできない。

 分かり合うことができると思うのは、自分の考えで相手を支配しようとする人間の発想だ。彼らと七々子はそれまで生きてきた記憶も考えもちがう、別の人間なのだから。


「馬鹿ってことはないでしょ。そりゃあ、みんながみんな仲良くなれたらめでたしめでたしじゃん? おれも見てみたいもん、そんな世界。それを目指すのはなにも悪くないんでなーい?」


 ニケの言葉は柔らかく七々子を掬い上げる。

 たまらなくなって、七々子はニケに駆け寄った。そのままその胸に飛び込みそうになったのをなんとか自制して、彼のスラックスからはみ出たシャツの裾を摘まむ。

 ニケは弱りきった様子で両手を上下左右に動かしていたが、ぎこちなく七々子の背を引き寄せた。ぐずる子どもをあやすようにトン、トン、と子守唄のようなリズムで叩いてくれる。ティッシュを取りだして、チーンと鼻までかんだのに、ニケは面倒がらずに七々子に付き合ってくれた。


「ほら、その手に握りしめてるの貸して。くしゃくしゃになっちゃうよ」


 そう言って、ニケは手のひらを差しだす。

 そういえば日鞠の手紙を握ったままだった。七々子はあっ、と声をあげて封筒の端にできた皺を伸ばすと、慌ててニケに手渡した。

 ニケの視線が、開けられていない封に縫いとめられる。


「読まないの?」

「……読めないわ」

「おれだったら読んでほしいけどな。出した手紙を読んでもらえないのって寂しいもんだよ」


 妙に実感の籠もった言葉に、七々子は仰向く。

 そういえばニケはしょっちゅう人に手紙を出していた。


「ラブレターの話?」

「ちょっとちょっとぉ、ナナコちゃん。おれを万年振られ男みたいな扱いにすんのやめてってばぁ。ラブレターはちゃんと読んでもらえていますぅ。これで案外熱烈な返事もらってんだから」


 唇を尖らせて、ニケはぶうぶう文句を言う。


「べつに他意があったわけじゃないわ。でも、ニケって本当に筆まめなのね。他にも文通している人がいるの?」

「他にもっていうか、昔ね。幼気な少年だった頃、何度かお手紙出したのよ。ローグハインに入学して間もない頃だったかなあ。……ママンにね」

「お母さま?」

「ん。でも、たぶん一度も読んでもらえなかったっていうか、届いてもなかったのかも」

「かもって……確かめなかったの?」

「んー、そのときにはおれ、人んちの養子みたいなもんになっててさ」


 養子。ニケの家庭事情を聞くのはこれが初めてだった。

 子どもが養子に出されるには様々な事情があるだろう。あまり踏み込んだことを聞くのも憚られて、七々子はちいさく頷くにとどめた。


「今じゃもうママは死んじゃったらしいから、確かめようもないってわけ」


 あっけらかんとした声で言って、ニケは肩を竦める。

 七々子は目を伏せた。


「それは……立ち入ったことを聞いてごめんなさい」

「や、そんな深刻な顔されると逆に困るってぇ。顔もほとんど覚えてないくらいの小さい頃の記憶しかない人なんだからさ」


 ニケはなんてことのない様子で苦笑する。

 それが本当なのだとしても、そんな相手に手紙を出したということはニケには母親に対して愛着があったということだろう。読んでもらえなかったのが寂しいと口にしたくらいなのだから。


「……もしかしたら、ニケの新しい生活に水を差したくなくて、返事を書かなかっただけかもしれないわ」

「はは、どうかな。読んでもらえてたらきっと、金の無心がきただろうから」

「金の無心って……なに言ってるの、もう」


 七々子がたしなめれば、ニケは押し黙る。

 不思議に思ってニケを見上げると、目尻にくしゃりと皺が寄った。「だって、おれって学校名だけ見れば、将来エリートの大富豪になってもおかしくないじゃん?」とおどけた声が降ってくる。


「んで? ほんとにいーの? 今ならおれ、読み終わるまで傍にいられるよ。八つ当たりも泣き言も聞いたげるオプションつき」


 通販番組よろしく、ニケはそんな謳い文句を口にする。


「日鞠のことだから、手紙の内容は私を気遣ってくれるものに決まっているもの。日鞠は今も、どんな目に遭わされているか分からない。それなのに、私だけ楽になるなんて赦されないわ」

「……ナナコちゃんが苦しんでいたほうが、ヒマリちゃんも喜ぶ?」

「日鞠はそんな子じゃ――!」


 間髪入れずにそう反駁すれば、ニケの琥珀のまなざしがゆるりとやわらいで七々子を受けとめる。


「うん、そうでしょ。きついこと言うけど、だからナナコちゃんのそれって自己満足でしかないよね。だったらヒマリちゃんのために読んでみるのもいいんじゃない? おれのためにも、ね?」

「……ニケの?」

「んー、まあ。あれだけ思いつめた顔でしょっちゅうその手紙を見てたら、気にもなるって」


 七々子は自分が恥ずかしくなった。

 この分では、ニケにも相当心配を掛けていたらしい。自分を律しているつもりが、かえってテナやハヴィやニケをやきもきさせていたのだから世話はない。

 ニケは七々子を椅子に座らせて、手紙を手渡してくる。両手で受けとって固まっていると、ニケは三つ分ほど席を空けたところに腰を下ろして頬杖をついた。

 読むも読まないも七々子の好きにしろ、ということらしい。

 ニケの言うとおり、七々子の自己満足で日鞠の心遣いを無下にするのは忍びない。日鞠の手紙の内容を受けとめて、その上で自分の今後の身の振り方について考える方がよほど健康的というものだろう。

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