2 理想と現実
「ええでも——私は、非魔術師も魔術師も両方大事にしたい。そう思ったの」
エルリーはちいさく溜め息をつく。
「俺だって魔術師の血を引いてるんだ。魔術師が憎くてそう言ってるんじゃない。だけど、せめて俺たちだけは弱い立場にいる非魔術師の側に立つ。ナナコもそういう気持ちでいてくれるって思ってたんだけどな」
「私だって、その気持ちが揺らいだわけじゃない。ただ、オズマリオンやフレンがそうせざるをえなかったことに思いを巡らせたいと言っているの」
——僕らにこの先永劫、踏みにじられていろって?
ユーリスがあのとき囁いた言葉がリフレインする。
魔術が使えないからといって、いつでも非魔術師が弱い立場にいて、被害を被っているわけではない。
かつて、百鬼は圧倒的な力で力なき人々を蹂躙した。だから七々子は非魔術師の側に立つことを決意した。
魔術師の存在そのものを嫌悪したからではない。強い者が弱い者を踏みにじって当たり前の世界が、心底嫌だと思ったからだ。
サルヴァンやユーリスがヴァートン生に尊厳を踏みにじられるのを良しとすることは、程度の差はあれど百鬼とやっていることは同じだ。
「そうやってこっちが思慮深く振る舞って、彼らが同じものを返してくれるならいいさ。でもあいつ、あれだけ強力な魔術師のくせに、第六時の塔に襲われたとき非魔術師を守りもしなかったって聞いたぞ」
七々子は弾かれたように顔を上げた。
聞き捨てならない言葉だった。
「彼は、守ろうとしたわ。でも、百鬼が手段を選ばないやり口で襲ってきたから成すすべがなかったのよ」
「あいつは、ナキリと同じ古代魔法が使える。非魔術師を守ってくれるつもりなら、なんでそれで対抗しなかった?」
エルリーは苛立ったように髪に手をやる。
「古代魔法の解放は魔術師法違反よ!」
七々子は立ち上がって力任せにテーブルに手をついた。
思いのほか大きな音が響く。
七々子は恥じ入るように目を伏せて、椅子に座り直した。
「それにあんなに人が沢山いる場所で古代魔法同士の戦いになっていたら、もっと怪我人が出ていたかもしれない」
「分かってる。分かってるけど、じゃあ、誰がナキリを止められる? 力には力で対抗するしかない。それが現実じゃないのか」
エルリーの苦しげに歪められたまなざしに、七々子は口ごもる。
柊のサロンに初めて行った日、エルリーは力をもつのが怖い、ルールを守ることが大事だと言っていた。その彼が、こういう発言をするにいたるには相当な葛藤があったはずだ。
そしてそれは七々子が考えていたことでもあった。
いくら力で踏みつける百鬼のやり方を認められないと主張したところで、その主張を通すにはやはり力が必要なのだ。
「ナナコの友だちだって拉致されたんだろ。あいつにはそれを止める力があったのに、止めなかった。それがあいつの答えだよ。あいつはやっぱり第六時の塔につくつもりなんだ」
「ちがう! それは、彼に分別があったからよ。なんでもかんでもオズマリオンに負わせようとしないで」
噛み殺した金属音のような悲鳴が細く大気をふるわす。
エルリーに向けて放った言葉全部、自分に返ってきている気がした。
なんでもかんでもユーリスに背負わせて、追いつめているのは七々子も同じだ。いったいどの口が、エルリーのことを責められるのだろう。
「随分あいつの肩を持つな、ナナコ。あいつと一緒にいるうちに絆された? きみも女の子だもんな」
七々子は絶句した。その意味は、七々子がユーリスにうつつを抜かして、考えを彼の色に染められたということだ。
他の人間に言われたのだったら、これほどショックを受けなかったかもしれない。でもそれを言ったのが、これまで志を同じくしてきたエルリーだったことに大きな衝撃を受けた。
「エルリーくん!」
テナが大きな声で、非難めいた声を上げる。
「それはちがう。ぜったいにちがう。ナナコちゃんは、自分の頭で考えて、自分の言葉で喋ってるよ。女の子の言葉を全部、男の子からの借りものみたいに扱わないで。エルリーくんは、ちょっと頭を冷やしたほうがいい」
テナの静かな怒りに、エルリーは罰が悪そうに押し黙って大きな身体を縮めた。
テナは今度は七々子の隣に座ると、そっと七々子の手を握る。
「ナナコちゃん。私もユーリスくんに関しては、エルリーくんと同じ見解なの。ヴァルフィアの石板の封印が解放されちゃって、お父さんとお母さんが……し、死んじゃったらどうしようって。最近毎日そのことを考える」
「テナ、オズマリオンはそんなことしないわ。私にも約束してくれた」
「ナナコちゃんも言ってたよね。ユーリスくんは八方美人だし、裏表があるって。規制派のわたしたちに、口ではなんとでも言えると思う」
「それは――!」
七々子は口ごもった。
ユーリスと険悪だった頃に自分が撒き散らした愚痴や悪口が、今になってこんな形で返ってきている。
「それに、わたしはユーリスくんと七年同じ学校にいたんだよ。やっぱりあの人は、非魔術師に冷淡なところがある。それが怖いよ」
たしかに七々子はこのなかでユーリスと過ごした月日はいちばん短い。
けれど、この短い間にユーリスは随分と考えを変えた。それにそもそも、ユーリスは人を傷つけるということにひどく臆病だ。解放派だの、オズマリオン家の御曹司だのというレッテルを取り払ってきちんとユーリス自身と向き合えば、彼がどういう人間であるかなんてすぐに分かるはずなのだ。
テナもエルリーも、みんななにも分かっていない。分かろうとしていない。
唇を噛んだ七々子に、大きな影が落ちる。
「さっきはごめん。でもナナコ、俺は、奴らに分別はないと思う」
七々子を怖がらせないようにか、エルリーが床に膝をついて続ける。
「最近学校じゃ、規制派は酷い目に遭ってる。テナのカエル事件がかわいいものに思えるくらいのな。こないだなんか、水棲馬馬術で馬具に細工がされてて、水棲馬の制御が利かなくて危うく喰われかけたやつだっているんだ。奴らに分別があると思うか?」
「そ、れは——きっとお互い色々……そう、誤解があったんだわ。ちゃんと話し合えば……」
「……ナナコ。殺されかけたのが誤解で済む話だとは、俺には到底思えない」
エルリーは今にも怒鳴り散らしそうなのをなんとか押しとどめるように、深く息を吸って吐く。
「……ナ、ナナコちゃんはどっちの味方なの?」
おそるおそるといった様子でテナが七々子とエルリーの間に割って入る。
「私は……どっちとかじゃなくて、仲間内で争いたくないだけ。こんなふうにいがみ合っていることこそ、第六時の塔の思う壺だわ。海上はあんなだけど、私たちは同じ学校の人間だもの。まだ、歩み寄る余地があるはずだわ」
七々子はきょろきょろと辺りを見回した。ハヴィがいないかと思ったのだ。
彼女なら、七々子の意見にも耳を傾けてくれる気がした。
彼女も規制派だが解放派の生徒とも親しく、こんな騒ぎになる前はみんなの人気者だった。そういえば骨火の間に戻ってから姿を見ていない。
「ハヴィちゃん探しているんだったら、医務室だよ。放課後、階段で足を滑らせたの。私には教えてくれたけど、だ、誰かに後ろから押されたって」
七々子は息を呑んだ。まさかハヴィが誰かに悪意を向けられるなんて。
日鞠のことで意気消沈としている七々子を元気づけるためにか、パジャマでお菓子パーティをしようと誘ってくれたのはほんの数時間前のことだ。
誰に対しても公平でムードメイカーの彼女は、解放派の生徒とも上手くやっていると思っていた。いや、実際上手くやっていた。彼女は校内に暗雲が立ち込めてからも解放派の生徒たちとも仲よくしようと率先して努めていた人物だ。
だが、それを面白く思わない人物もいたということだろう。
思っていたよりもずっと、学校のなかは酷いことになっているのかもしれない。
「ナナコに見てほしいものがある」
エルリーは深刻な顔をして立ち上がった。
その迫力に呑まれるようにして七々子も何人かと連れ立ってその後を追う。
男子寮の前でエルリーは水棲馬を降りた。
本来、男子寮に女子生徒は入ってはいけない決まりだ。数カ月間ユーリスをつけ回していた七々子も、男子寮には入ったことがない。だが、それを言えるような空気でもなかった。
手渡された男子の制服に大人しくトイレで着替える。長い髪を帽子のなかに押し込んで、男子寮に足を踏み入れた。
内装の雰囲気はちがったが、構造はほとんど女子寮と同じようだ。
エルリーは五段だけ登るとすぐ行きどまりになる魔法の階段に乗ると、壁に描かれた森を見渡し、梣、白樺、金雀枝を順に魔法の杖で叩いた。樹木と部屋番号が対応していて、階段が勝手に動きだしてその部屋まで運んでくれるようになっているのだ。
辿りついたのは個室だった。
監督生や奨学生、それに八年生以上になると、相部屋ではなく個室をもてるようになると聞いたことがある。個室にもかかわらず部屋には数人の規制派の生徒が詰め寄せていた。
部屋の主はバンノンだった。青ざめた生気のない顔でベッドに横たわっている。
焦点の合わない眼をして天蓋を見上げていて、七々子が来たことにも気づいていない。同級生らしき男子生徒が唇を噛みしめて彼の手を握りしめていた。
したたかで食えない優等生と、茶目っ気あるプレイボーイのふたつの顔をもつ彼らしさはもはやどこにもなかった。
バンノンも姉妹校文化交流祭で学校の仲間やヴァートン、瑞原の生徒を守るために死力を尽くして戦った中心的な生徒のひとりだが、ここまでやつれるほどの損傷を負ったとは聞いていない。
声を出すのも憚られ、七々子はエルリーをそっと見上げた。
エルリーは床にくしゃくしゃに丸まって転がった新聞を拾って、七々子に手渡す。
広げてみると、非魔術師の大手新聞だった。日付は三日前。
魔術師の暴徒が深夜、首都ジャイアのとある非魔術師系の企業を火炎の魔術を使って襲ったらしい。企業の入ったビルは無人で怪我人は出なかったものの、火は隣の飲食店の店舗を兼ねた一軒家にも燃え広がり、飲食店のオーナーであるネイカー氏を含むネイカー一家が長男を除いて焼死したと記されている。
この一家とはつまりバンノンの家族で、生き残りの長男がバンノンだということだろう。
飲み込んだ息が鉛のように重い。
なにが、みんなはなにも分かっていない、だろう。よくもそんなことを考えられたものだ。なにも分かっていなかったのは七々子のほうだ。
ユーリスと歩み寄ることができたから、こうした蟠りも丁寧に紐解いていけばかならず解けるはずだと思っていた。
みんなと一致団結して、第六時の塔と渡り合うためにひとつの運命共同体になっていけるはずだと。
けれどローグハインだって海上とつながっている。
七々子が機構理事である瞳子の産んだ混血の魔女で、ユーリスが連盟理事であるエイシスの息子で、世間を賑わす古代魔法の承継者であることは、この世間から隔絶されたように見える海底の魔法学校でも健在だ。
海上と地続きであるということは、海上の問題はローグハインの問題でもある。
そんなに都合よく、しがらみも争いもない理想郷は築かれない。
七々子はたまたま機会に恵まれ、ユーリスの心に手を伸ばすことができた。けれどそれはたぶん、得がたい幸運に恵まれたがために起こった奇跡みたいなことなのだ。
たまたま七々子の母親が機構理事で、ユーリスの父親が連盟理事で、監視任務に抜擢され、ローグハインの入学要件を満たし、隊分けで同じ隊になり、ニケという仲間に恵まれ、ユーリスが情が深くみずからの過ちを省みることのできる人物だったから、七々子は彼の事情に思いを寄せることができた。
でもひとつでも釦を掛け違えていたら、七々子はユーリスを牢につなぐことに諸手を挙げて賛成していたかもしれない。
非魔術師系の企業を襲い、結果的にバンノンの家族を奪った魔術師たちにも、ユーリスやサルヴァンのようになにか事情があったのかもしれない。
けれどバンノンがそのことに思いを寄せられないことを、なにも分かっていないからなどとは口が裂けても言えるはずがなかった。
もし、新や日鞠がバンノンの家族と同じ目に遭ったとしたら。誤解だの話し合うだのといった聞こえのいい言葉は、七々子にとっても無意味な言葉になり下がっただろう。
分かり合おうとする努力が無駄だとは思わない。
だけど、そうやってゆっくりと相手に歩み寄ろうとするよりもずっと早く、世界は最悪な方向に向かって突き進んでいる。それがこの世界の動かしがたい現実なのだ。
「ナナコ、きみは優秀な魔術師で、機構とのつながりも強い。どうかおれたちの側についてくれ。そして仲間を一緒に守ってくれ。俺たちみんな、それを望んでいる」
エルリーはほとんど懇願するように七々子の手を取った。その逞しい大きな手指は、七々子だけにしか分からないほど細く、震えている。
七々子はその場に立ち尽くす。その手を振り払うことは、とてもできそうになかった。




