6 天秤と梣
「本来魔法学校というものは、確かな学力と健全な精神をもった優れた魔術師の育成を使命としているが、このローグハインでは、もうひとつ目指していることがあってな」
そう言って、ザネハイト先生は壁に掛かっていた『知恵・精神・魔術』という校訓の隣に貼りだされた古びた羊皮紙を眺める。
「初代学長の教えだ。『魔法使いたれ』」
「魔法使い……?」
それはほとんど死語になっている言葉だった。
今から千年以上昔、魔術師は魔法使いと呼ばれていた。
だが、『魔法』という言葉の使用は今では限定的だ。魔法学校、魔法界といった言葉はあくまで形骸的に残ったもので、魔術という言葉とほとんどちがいはない。
ただ、ユーリスのような古き魔術を操る資質をもつ魔術師が古代魔法の承継者と呼ばれるのには、古い時代の名残がある。
千年も、千五百年も、あるいはもっと昔。魔術は今より強大だった。人は星の運行をまなざし、境界を踏み越え、神とすらも交歓した。そうした時代の魔術は今や正しく継承されていない。星を撃ち落とし、死者を蘇らせ、最古の文字を自在に操り、時を遡って歴史を歪める。そのような魔術はもはや古代魔法の承継者にしか再現を試みることをゆるされない、喪われた力だ。
「古代魔法の承継者になれということですか? 古代魔法の力は先天性で、なろうと思ってなれるものじゃ……」
七々子の反駁に、ザネハイト先生は首を振った。
「そうは言うておらん。むしろ逆やもしれぬな」
「逆?」
怪訝そうなユーリスの声にザネハイト先生は頷く。
「魔法使いとはかつて、今日喪われた強大な魔術の使役者を言ったのではない。魔の具現たる魔術を飼いならす夜の番人、理を手放さぬ者、おのれを明け渡さぬ者、みずからの心に火を灯す者を言ったのだ」
ザネハイト先生の言葉は抽象的で、七々子にはよく分からない。でも、心に引っかかる言葉もあった。
おのれを明け渡さぬ者、と七々子は口のなかで復唱する。
であるならば七々子はきっと、交流祭で魔法使いでは決してなかった。百鬼の強大さに直面して、自分を明け渡そうとした。
あのとき、日鞠はななちゃんがななちゃんであることを捨てないで、と口にした。日鞠が魔術師法概論の神髄など知るはずもなかったが、もしかするとあれはこういうことを言っていたのかもしれない。
「私は、この学び舎を巣立ってゆく魔術師たちにいつも言うておる。心に天秤をかかげよと」
ザネハイト先生は、テーブルの上の銀の天秤に手を伸ばした。
「分銅は、規範と信念と倫理」
優美な手が、紅玉と翠玉と琥珀を天秤の左の皿に載せる。天秤が左に振れる。
「そしてその向かいに、おのれ自身を載せるのだ」
右の皿になにかの宝石の原石らしきごつごつとした石の欠片を載せると、やがて振れていた天秤が水平になって静止する。
ザネハイト先生はおそらく今この瞬間、なにかとても含蓄のある教えを授けてくれているようだ。だが正直なところ、ザネハイト先生が言いたいことの半分も理解できていない気がする。
そこにこつりと、踵を鳴らす音が響いた。
「だからあなたの言葉は難解に過ぎると申しているのですよ、イーラ」
いまいち理解の追いつかない顔をしている梣隊の面々を見かねてか、リリ先生が後ろから口を挟んでくる。
「迷いの只中に居る者にそれは酷というものでしょう」
「——分かりやすく明快に均された言葉は時に本質を欠く。それにみずから物を考えるということをしなくなるであろう。後学の者への侮りが透けて見えて、私は好かぬ」
ザネハイト先生は少し不服そうにぷいと顔を背ける。齢百近い厳格な学長らしからぬ仕草だったが、リリ先生と並んでいるザネハイト先生には不思議と少女めいたその仕草がしっくりとくるような気もした。
「大いに同意したいところですが、光明をしめすというのも年長者や教育者の役目だと私は考えます」
教育方針で揉める先生たちというのも、なかなかお目にかかれない。
ザネハイト先生は眉根を寄せたが、リリ先生にその場を譲ることにしたようだ。リリ先生がユルグ式の優雅なお辞儀をして、ザネハイト先生に感謝を示す。
「ユーリス、あなたは人を傷つけるのが怖いと思ったことはありますか?」
リリ先生の問いに、ユーリスは躊躇いがちに頷いた。
「それは……もちろんあります。僕は、幸か不幸か人よりも強い力を持っていて、幼い頃はよく加減を知らずに兄を傷つけたので」
「ではあなたはもう、ザネハイト先生の仰る天秤をもっている。魔法使いであるというのは、決して難しいことではないのです。誰かを傷つけてしまったとき、次はそうすまいとみずからを顧みること。はたまた、学校で誰かが嫌がらせを受けているとき、見てみぬふりをせずに連帯して声を上げようとみずからを奮い立たすこと。法や倫理や信念に照らして、おのれはどうであったか。どうあることを選びとり、思念の結晶たる魔術を行使するか。そのような心がけを持ちえる魔術師のことを言うのです」
そこまで聞いて、七々子はあ、とちいさく声を上げる。
「魔術師の責任、ですか」
「ええ、その言葉が近いかもしれません。力をもつ者は常におのれを省みよ、ということだと私は理解しています。それができぬ魔術師は、どれほど強大な力を持とうとも一段下に見られました」
リリ先生は、こんなところでどうでしょう、とザネハイト先生を見上げると、ふたたび壁に背を預けた。
ザネハイト先生は鷹揚に頷いて応える。
「その釣り合いをとろうと足掻く魔術師をこそ、私は偉大な魔術師——魔法使いたるに相応しいと思うておる」
ザネハイト先生は束の間眩しげに目を細めて、リリ先生を見やる。
リリ先生はきっと、ザネハイト先生が認める魔法使いのひとりなのだろう。
「図らずもそなたたちは梣隊。秩序と調和を志向し、どのような苦境にあっても思慮分別を手放さぬ魔術師が集う隊だ」
ザネハイト先生は七々子の掌の目に見えない魔法契約の証が見えるのか、それを眺めて微かに笑む。
「おのれを知り、おのれがおのれであり続けることは他愛ないようでいかにも難儀であるが、きっとそなたらの志を背骨のように支えてくれるであろう」
七々子は俯いた。
魔法使い。そうあれたら、どんなにいいかと思う。
ザネハイト先生の言葉に水を差すようだが、それはたぶん、ザネハイト先生やリリ先生やユーリスのような強い魔術師だけが目指せる領域だ。
魔術師の世界には、努力だけではいかんともしがたい生まれもっての才がある。七々子が今から心を入れ替えて寝食忘れて魔術の鍛錬に勤しめば、大魔術師になれる目が皆無というわけではないだろう。けれど、どう足掻いたところで百鬼やユーリスを降す魔術師になれやしない。
それだけ、古代魔法の承継者の力は桁違いなのだ。
むやみに自分を卑下するつもりはない。魔法界で実践魔術だけが価値をもつわけでもないことも分かっている。
でも、七々子が守りたいものを守るには、力が必要だった。そして七々子には、その力がなかった。
圧倒的な強さの前に自分を失わないことができるのは、強者だけだ。弱ければ、自分なんてものは簡単に消えてなくなる。ヴァートン校で、七々子が百鬼の慈悲に縋ろうとしたように。
日鞠は、七々子が七々子であることを捨てないでと言ってくれた。けれど、七々子にはそもそも、自分なんてものはなかったような気さえする。
無力な自分と向き合うのが怖くて、天原魔法学校から逃げた。母に言われたから、ローグハインに編入した。ユーリスを追いつめた。光理が殺されるのを、日鞠が奪われるのをただ見ていた。
流されて、逃げて、無力さを痛感するばかりの半生だった。
おのれを明け渡さぬことが魔法使いの証というのなら、七々子は決してそのような存在になれる気がしなかった。
「でも、」
七々子とユーリスの声が重なる。
目が合うと、ユーリスはお先にどうぞとでも言うように目配せをした。
七々子は言葉もなく首を横に振る。
ユーリスは、墨の塔で珍しく弱音を吐いた。
あのときからずっと、いや、たぶんヴァートン校で百鬼と対峙してからずっと、ユーリスは百鬼にどうやって対抗するかを、どうやって百鬼から勝利を捥ぎ取るかを考えている。
彼のことだからおそらく建設的に、どのタイミングでどんな魔術を使うかまで綿密にシミュレーションしているはずだ。
そんなユーリスの前で、私のような弱い魔術師は魔法使いになんかなれないと思いますだなんて拗ねたようなことを言うのは、みっともなくて恥ずべきことのように思えた。
ユーリスはなおも七々子を見つめたが、結局は折れて口をひらいた。
「こちらが魔法使いとして正しく——つまり、僕の場合は古代魔法を使わずに戦ったとしてもです。相手が魔法使いでなかったらどうするんですか。理を手放した、百鬼のような奴だったら」
ユーリスは焦れたように言いつのる。
やはり彼は、最後の手段は百鬼と同じ古代魔法で対抗することだと考えているのかもしれない。
「災厄に災厄で返したところで、災厄にしかならぬ。……そなたのことを災厄と申したいのではないぞ、ユーリス」
目を伏せたユーリスの眸を辛抱強く覗き込んで、ザネハイト先生が言った。
「私から言えるとすれば、そうさな。さような蛮行は、魔術師社会が決して赦さぬであろう」
「……魔術師社会ですか」
ユーリスはがっかりしたように声を落とした。
その魔術師社会が百鬼に太刀打ちできないでいるから、今世界はこんな酷い有様になっているのだ。ユーリスの落胆も無理はない。
「現在施行されている魔術師法には、魔法使いの精神が脈々と受け継がれておる。魔法使いという言葉こそ残されておらぬがな。それはつまり、どういうことか。七々子?」
「ええと、魔術師法を遵守して生きる現代の魔術師は皆、少なからず魔法使いとして振る舞わなければならない――?」
七々子の答えに頷いて、ザネハイト先生はふたたびユーリスに視線を戻した。
「そなたが魔法使いとして戦おうとするならば、その灯火を消すまいとかならず魔法使いたちが集うであろう。それが法に縛られた一見脆くも見える社会というものの強靭さであると、私は信じておる」
ザネハイト先生の言葉をその場しのぎの詭弁だと思っているわけではない。
けれど、どうしても疑念が顔に出てしまいそうで顔を上げられなかった。
それはユーリスも同じようで、ふたり並んで銀の天秤がつくりだした翳にじっと目を凝らす。
無礼な態度にもかかわらず、ザネハイト先生は根気強く続けた。
「最後にひとつ、約束を交わすとしよう」
「——約束?」
七々子はそっと目線を上げる。
現代では当たり前の魔術師法も、かつてはひとりの人と人との約束から始まった。魔術師法概論の授業の締めくくりとしては、おあつらえ向きの言葉だった。
「魔法使いたろうとするかぎり、私はかならずそなたらの力となろう」
そう言って、ザネハイト先生は小指を差しだす。指切り。帀目発祥のまじないだ。
不安はまだ拭いがたく心の奥底にこびりついていたが、真摯なまなざしに押し負けて、指を絡める。
学長室から退出する刹那、七々子は銀の天秤を振りかえる。百鬼を前にしてみずからを奮い立たす術はまだ、見つかりそうになかった。




