5 魔術師法概論
学長室は、立ち入り禁止の祭儀の間がある最西端の一歩手前、石の彫刻が建ち並ぶ海域にある。歴代学長の彫刻には、それぞれの学長の魔術が封じられていて、ローグハインの守りの要になっていた。これもローグハインが堅牢な要塞と言われる所以のひとつである。
学長室は外から見る分にはドーム状の構造にはなっておらず、ただ渦巻文様のほどこされた扉が聳えているだけだ。
「ゴートウィロウの月夜の涙」
ニケがリリ先生から教えられたという合言葉を唱えると、扉が音を立ててひらいた。
現れたのは吹き抜けの広間だった。本棚の配された壁に沿うようにゆるく螺旋を描く階段があって、二階に個室があるのが見える。一階の奥には続き間の応接室があって、今の時期は使っていない暖炉で幽霊がうたた寝をしていた。
木材部分に真鍮の線と象嵌細工がほどこされた真紅のシェーズ・ロングにはリリ先生がらしくもなく寝転んで、テーブルに大量に積み上げた本を読み耽っていた。
リリ先生は七々子たちに気づくと服の皺を魔術で綺麗に直してから、向かいの席を勧めた。
「ユーリス、良かった。快復されたのですね」
リリ先生は尻尾をぴんと立てて、目を細めてユーリスを見上げる。それから、七々子たち三人を順繰りに見つめて頭を垂れた。
「面目次第もございません。あなた方を守ると申し上げておきながら、酷い目に遭わせてしまいました。それにあなたがたの力に助けられました。感謝申し上げます」
「そんな。先生がいなければどうなっていたか……」
ユーリスの言葉に同調するように、七々子は頷く。リリ先生は頭を振った。
「あなた方は我々のことまで気遣わなくてよろしい。さて本題です。あなた方には、イーラ——おほん、ザネハイト学長先生と面会していただきます。構えることはありません。ちょっとした魔術師法概論の補講だとお思いなさい」
補講というひと言にニケがげぇっと厭そうな声を上げる。
「本来は中等課程の最終学年で学ぶ内容です。ニケ、あなたも呼んだ理由は分かりますね?」
じろりと見据えられ、ニケは「わかんなぁい」と明後日の方を向く。
大方、その該当授業をさぼったのだろう。逃げ出そうとするニケの首根っこを掴んで、ユーリスが溜め息をつく。
「さて行きますよ」
リリ先生のその言葉を合図に、七々子たちは階段を上ってザネハイト先生の部屋の扉をノックした。
ザネハイト先生は常のいかにも古風な魔女然とした黒のローブ姿で七々子たちを出迎えた。
部屋には巨大な天球儀や植物標本、止まり木に留まった大鴉、古代ユルグ文字のストーンやらタイラン文字の木札など雑多な魔導具や境界生物が所狭しと並んでいて、けれどもそれはどういうわけかある種の秩序と調和をもってザネハイト先生を取り囲んでいた。
ザネハイト先生は書き物をしていた机から目を上げると、丸眼鏡を少しずらして七々子たちを見つめた。
「掛けるがよい」
ザネハイト先生は執務机の前に置かれたふかふかのソファに七々子たちを座らせると、向かいの肘掛け椅子に腰掛けた。リリ先生も七々子たちの背後の壁に背を凭れる。
七々子たちとザネハイト先生の間には球根めいた膨らみの挽物装飾の脚をもつ重厚な樫材のテーブルがあって、その上には銀の天秤が鎮座していた。精緻な装飾のほどこされたもので、傍には無造作に宝石のたぐいが転がっている。
ザネハイト先生は学長だが、木曜三限の魔術師法概論の授業を受け持っている。授業を聞くこと自体は初めてではなかった。
「呼び出してすまぬな。補講と言っても、なんということはない。少し話をするだけだ。そなたらがローグハインの門戸を叩いたわけを聞いてもよいか?」
言葉尻こそ柔らかかったが、すべてを見透かすような金のまなこにどきりと心臓が跳ねる。
これまでずっと、七々子はローグハインの教師たちをも欺いてきた。神聖な学び舎に機構の手先でありながら生徒の振りをして入り込み、そこで学ぶ一生徒を――ユーリスを脅かした。本来ならば、赦されない行いだ。いよいよ、それを清算するときがきたのかもしれない。
「偉大な魔術師になるためです。ここにはそのための学びがある」
迷いなく答えたのはユーリスだ。
「ふむ。では偉大な魔術師とはなにか?」
「窮地にあって同胞を——いえ、全ての人を守れるような、魔術師の範となる魔術師です」
ユーリスは即答したが、ザネハイト先生に見つめられるとその眼差しはどこか自信がなさそうに揺れる。
「なるほど。そなたはどうだ、七々子」
「私は……」
ローグハインに編入する前に、こういうときに備えてでっちあげの理由は用意していた。召喚魔術の大家であるヴァネット先生に師事するため。それを口にするか迷う。七々子と瞳子のたくらみは公然の秘密と化していたが、それを面と向かって認めれば校則違反で退校処分になるかもしれない。
一瞬のせめぎ合いのすえ、七々子は洗いざらい白状することにした。
「母に言われたからです。オズマリオンをその、監視するようにって」
「知っておる。意地の悪い質問をしてすまぬな」
ザネハイト先生は幾分か眼差しをやわらげて七々子を見下ろした。
「そなたは帀目では魔法学校を中退して、家庭教師に魔術を学んでいたようだな。理由を聞いてもよいか?」
「それは……」
そのことを聞かれたのは、一度や二度ではなかった。そのたびに七々子は、特権意識を持っている魔術師が気に喰わないからと答えてきた。その理由も嘘ではない。
けれど、それは本当の理由を誤魔化しただけだったのだと今では思う。本当の理由と向き合うのが怖くて、七々子は他人だけでなく自分をもずっと騙し続けてきたのだ。
観念して、七々子はザネハイト先生を仰ぐ。
「あの学校にいるのに耐えられなくなったからだと思います。天原には、私も百鬼も、百鬼が四年前に手に掛けた幼馴染も通っていました。私はあの人と近い関係にあって、そんな自分を驕ってすらいたのに、事件が起こったときになにもできなかった。あの場所にいると、それを思いだすんです」
七々子は恥じ入るように目を伏せる。
つまるところ七々子は、百鬼や過去と向き合うことを恐れて、天原魔法学校から逃げ出したのだ。
「なにもできぬか。今もそう思うか?」
そうは思わない、と言えたらよかった。
自分に魔術の才能がまるでないとは思わない。七々子が椿木の血を引く魔術師であることを羨む人間が沢山いることも知っている。
だが、どうしたって考えてしまう。
七々子の力では、百鬼には敵わない。その絶対的な事実は、七々子の身体からあらゆる気力を奪って一歩も動けなくする。
「私は決してそうは思わぬが、七々子。こればかりはみずから答えを見つけるほかに道はなかろう。幸いこの学び舎は物を考える時間はたっぷりとある。ゆるりと思考の海に潜るがよい」
七々子は目を瞬いた。
その言葉の意味は、七々子をこの学校の一生徒として認めるということに他ならない。
七々子は、魔術師法の番人たる機構の手先だ。その七々子が、いち学校の校則とはいえ、ルールを冒した。理も通らなければ、倫理的にも赦されないことをした自覚はある。
そっと顔を上げる。ザネハイト先生は、静かに七々子を見つめ返す。
「ザネハイト先生。私のしたことは……」
「そなたが真にユーリスを脅かしたときには、別の措置を講じておったやもしれぬ。しかしそうはならなんだ。それにそなたらの間ですでに話はついておろう?」
ザネハイト先生は悪戯っぽく口の端を上げると、ユーリスを見やった。
ユーリスは七々子と目を合わせる。その眼差しに込められたたしかな信頼が、七々子に七々子がここに在ることを認めさせる。
「そうとなれば、そなたを罰することはできぬ。罰することができぬということは、そなたを梣隊に縛る鹿角の魔法契約も解かれぬということ。解かれぬ魔法契約を破る術は、学長の私も持たぬ」
ザネハイト先生に深く頭を垂れれば、彼女はニケに水を向けた。
「そなたは? ニケ」
「ええ~、おれ?」
ニケはザネハイト先生の前でも情けない声を上げる。ユーリスに咎めるように服の袖を引っ張られ、ニケは渋々口をひらいた。
「そりゃ、結構いいとこの学校から入学許可が出たら行く以外の答えがなかったっていうかぁ。三食出るし、寝床もあるし、そこそこ快適に生活できるっていうし?」
「さようか」
「さようさよう。おれにはこの子たちみたいな、ご立派な志とか求められても困りますってぇ。おれにはなんにもないんで、な~んも期待しないでください」
ニケは弱りきった様子で言ったが、ザネハイト先生の視線を受け止めてもまるで動じずに飄々としている。ザネハイト先生はゆっくりと時間をかけてニケを眺めやったが、やがて七々子たち三人に視線を戻した。




