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盾の魔女と魔導の杖  作者: 雨谷結子
第六章 魔法使い
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1 雨の森

「……ちゃん。ナナコちゃん、授業終わったよ。行こう?」


 ぼやけていた思考に、控えめな声が割って入る。

 はっとして顔を上げると、赤毛のおさげが目の前で揺れていた。

 テナの八の字眉は、すっかり弱りきった様子でますます垂れている。


「……ごめんなさい。ぼんやりしていたわ。テナ、悪いから先に行っていて」

「悪くないよ。ま、待ってるから」


 テナにしては珍しく、七々子の提案にも食い下がる。


「ありがとう。でもこのあと、行くところがあるの。ほら、ハヴィも待ってる」

「でも……」


 気遣わしげな視線が彷徨うのを、気づかないふりをしてやり過ごす。

 テナの後ろからひょっこり顔を出したハヴィは、「ナナコ、今日は夜にパジャマでお菓子パーティするから楽しみにしててよね」と意気込んでいる。種類はちがうが、どちらも七々子を心配して掛けてくれた言葉だということは分かる。分かるけれど、それらに見合うなにかを返すことはできそうになかった。


 火曜四限のこの時間は魔術考古学で、上の空で授業を受け終えたところだった。

 ここのところはいつもそうだ。心が乾いた音を立てている。なにもかも霞がかって、あらゆる音も色もにおいもぼんやりと目の前を通り過ぎていく気がした。

 テナが何度も七々子を振りかえりながらハヴィと連れ立ってドームを出て行くのを見送ってから、机の上に広げた教科書とノートをのろのろとまとめる。

 それらを鞄に突っ込んでいると、ポケットから覗いた封筒が目に入った。

 ヴァートン校で日鞠から貰った手紙だ。封はまだ切っていない。


 悪夢の姉妹校文化交流祭から早一週間が経過していた。

 日鞠は連れ去られたまま戻らず、百鬼やヴァルフィアの石板の手がかりも見つかっていない。ヴァートン校での戦いでは第六時の塔の何人かが拘束されたが、いずれも末端の構成員で目ぼしい情報には行きついていなかった。

 錯綜する情報のなかには、百鬼は残忍で気まぐれな男ゆえに、生贄として攫った少女をすでに殺してしまったのではないかと見る向きもあった。

 しかし七々子の見立てでは、日鞠は生きている。

 もし日鞠を殺すつもりなら、七々子の目の前で殺していた。百鬼はそういう男だ。そうでなかったからには、もっと決定的な瞬間——ヴァルフィアの石板解放を待って殺そうとするはずだ。

 しかし、第六時の塔がどうやってユーリスを奪うつもりなのかが分からない。

 交流祭は絶好の機会だった。それを見逃したとなるとローグハインから彼の身柄を強奪するしかないのだが、ザネハイト先生が結界魔術の祭祀儀礼を行ったらしく、学校の守りはますます堅牢なものとなっていた。

 今のローグハインに、外敵の侵入する余地は全くないと言っても過言ではない。それとも学期が終わってユーリスが海上に上がるまで待つつもりなのだろうか。


 七々子はみずからの掌を見つめた。魔力の巡りを感じる。

 百鬼に串刺しにされた夜魚は、ようやく元の力を取り戻しつつあった。

 もし第六時の塔がユーリスを狙ってふたたび現れるつもりならば、夜魚がいなければ話にならない。

 そのユーリスはというと、まだドームで友人たちと談笑していた。彼がこうして授業に出席している姿を見たのはしばらくぶりだ。

 百鬼の襲撃でユーリスは大怪我を負った。リリ先生の医療魔術をもってしても一時に全快することはなく医務室に入院していたが、今朝には退院して授業に顔を出していた。

 入院中、七々子は依然として彼の監視者という立場のまま、見舞いの花や菓子が溢れかえったベッドを連日遠巻きに見る日々だった。

 姉妹校文化交流祭に一緒に参加した生徒がベッドを訪れると、ユーリスは律儀に一人ひとりに古代魔法を解放しかけて味方を傷つけたことを謝っていた。


 百鬼がユーリスに“種を植え”て以来、七々子は彼と直接言葉を交わしていない。そもそもヴァートン生を巡って争ってから、彼が七々子や非魔術師のことをどう考えているのか、本当のところを聞けずじまいだった。


 ——きみは結局、こいつらの犬か。


 ユーリスの諦めにも似た言葉が、胸に蘇る。

 彼はあの日、百鬼の古代魔法から非魔術師を含む学生たちを守ろうとした。

 けれど、それはあくまでも魔術師であるローグハイン生も一緒にいたからで、本当のところは百鬼に同調する気持ちもなかったわけではないのかもしれない。ヴァートン生にサルヴァンを傷つけられたときのユーリスの怒りは凄まじいものだったし、百鬼に兄のキーリスのことで揺さぶりを掛けられた彼は酷く動揺していた。

 百鬼の余裕は、ユーリスが第六時の塔に寝返ることを予期していたからではないか。そういう内容の予言が詠まれていたのではないか。そんな悪い想像ばかりが浮かぶ。

 ローグハインの守りは堅牢だ。しかしユーリス自身が守りを破ることを望むのならば、その限りではない。

 機構のなかには、ユーリスを拘束する案も出ているらしい。

 ローグハイン――ザネハイト先生にユーリスの自由を奪う意志はない。だからもしそういう事態になれば、内部にいる七々子が機構の先鋒としてユーリスの身柄を押さえるための工作を行うことになるかもしれない。そういう報せも瞳子から舞いこんでいた。

 そうなればいよいよ、七々子はユーリスにとってあのビステの研究者や魔術師狩りに嬉々として身を投じた連中のような存在に成り果てるのだろう。

 重たく鈍く痛む頭を上げて、ユーリスを見やる。

 彼はサルヴァンに手を振って椅子から立ち上がったところだった。いつもの彼のスケジュールだとサルヴァンと同じ水棲馬馬術チームの練習のある日だが、さすがに今日は大事を取るようだ。

 七々子はほとんど惰性で、監視の任務のためにユーリスを追いかけた。


 ユーリスが向かったのは、墨の塔のあるドームだった。

 大鴉たちの不吉な鳴き声に心臓がどくん、と跳ねる。

 ヴァートン校で百鬼がユーリスに注ぎこんだ毒のような言葉たちが、何度もリフレインする。

 もしユーリスが伝書鴉で第六時の塔と連絡を取るつもりなら、この身に代えても彼を止めなければならない。

 やるべきことは分かっているのに、身体は怠く重くなっていく一方だった。

 七々子はユーリスを追いかけたが、彼は墨の塔の前で方向転換して、森のほうへと向かった。ほんの少し安堵する。病み上がりの身体で、薬草でも採りにきたのだろうか。


 森には、細い雨が降っていた。天気雨だ。墨の塔一帯は、この海の底の学校では珍しく、天気の概念が存在する。ユーリスの外套は雨を吸ってその色を濃くしていた。

 ユーリスはやがて下草の繫茂する梣の木の下で足を止め、振り向いた。

 まともに目が合って、七々子は硬直する。


「来ないのか?」


 平然と問われ、答えに窮する。

 ばればれの尾行をしておいて、彼にいざ反応を示されると困るというのは身勝手このうえない。黙りこくったまま、ユーリスの元へと歩みを進める。


「《五月祭の火に浴せ》」


 ユーリスは乾かし呪文を湿った倒木に掛けると、ハンカチを敷いて七々子にそこを勧めた。


「座って」

「なに言ってるの、あなたが座って。病み上がりなのよ」


 七々子が反駁すれば、ユーリスは眉根を寄せる。


「きみは僕に紳士らしくない振る舞いをさせたいのか?」

「そんなことを言っている場合? あなた死にかけたのよ」


 そこまで言ってから、七々子は思い直す。この頑なな人を、そんな言葉で納得させられるはずがなかった。


「分かったわ。……なら、こうしましょう」


 説得の代わりに、自分の持っていたハンカチを隣に敷く。

 竜の紋章が刺繍された濃い緑色をしたそれを、ユーリスはまじまじと見つめた。


「……元はと言えば、あなたのだけど。あ、あなたが持っていていいっていうから」


 言い訳のようなことを口走ってから、彼の持ち物を持っていたことを自分から暴露してしまったのがなんだか無性に気恥ずかしくなった。

 これではまるで、ユーリスから譲られたハンカチをとくべつ気にいって自分の持ち物に加えたみたいだ。

 でも、それもあながち間違いでもない。本当を言うと、このところはユーリスの真意が見えなくて不安でたまらなくて、お守りのようにこのハンカチを持ち歩いていたのだ。


「……いい考えだ」


 ユーリスは片頬を上げて、七々子の差しだしたハンカチの上に腰掛ける。

 彼のハンカチを後生大事に持っているのを揶揄されたらどうしようと思っていたので、少しばかりほっとする。

 七々子もユーリスに倣って、身体ひとつ分離れたところに腰を下ろした。


 静まりかえった森に、雨垂れの音が響いている。

 枝葉が傘になっていて、木の間から落ちる雨はほとんど当たらない。普段は霧に覆われていることも多い不気味な闇色の森は、あえかな陽射しとひかる水滴にいろどられて、ぼんやりと薄明るかった。

 ユーリスから決定的な言葉を聞くのが怖くて、七々子はこのまま時が止まってしまえばいいのにだなんて、子どもじみたことを思う。

 そんな願いもむなしく、ユーリスは口火を切った。

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