表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
盾の魔女と魔導の杖  作者: 雨谷結子
第五章 姉妹校文化交流祭
33/61

7 慟哭

 リリ先生の魔術を補強するためにか、ユーリスも結界魔術の呪文を唱え始める。ホールにいる生徒たちを守るための魔術だ。四肢を穿たれているというのに、自分の身も顧みず無茶をする。

 百鬼はヴァルフィアの石板の封印解放に利用するために、ユーリスのことを殺せない。そう踏んだのだろうが、その姿はあまりにも痛々しかった。

 百鬼は苦痛に呻きながら詠唱を続けるユーリスの頬をいたわるように撫ぜる。


「お前が哀れでならない。なぜ、お前ほどの魔術師が翅虫どもの道具に落ちぶれる? お前には俺に匹敵する力がある。気に入らない者すべて、ひれ伏させる力だ。この世界は、身の程知らずの翅虫どもで溢れている。さっきのヴァートンの空骸どもの件を持ち出すまでもない。思い出せ。お前の兄はどうして死んだ?」


 ユーリスの表情がはっきりと強張る。呪文が途切れた。

 百鬼は調子づいて続ける。


「思い出せないというなら、俺が教えてやろう。七年前。お前の兄——キーリスが所属していた小隊は、激戦区からの撤退戦のしんがりを務めていた。そうだな?」


 百鬼の問いにユーリスは黙りを決め込んでいる。それが答えだった。

 魔術師兵は、どんな戦場でもたいてい危険な前線に投入される。


「上官は空骸。よくある混合部隊だ。優秀な魔術師兵のおかげで、作戦は上手くいっていた。だから出世欲に目の眩んだ無能な上官は欲を掻いた。すぐ近くの敵の物資の補給地の守りが手薄という情報を得て、そこを叩こうと考えた。それが罠とも知らずにな。補給地に進入してからそのことに気づいた上官は、魔術師兵だけを戦地に置き去りにした。自分たちが生き残るために、可哀そうに何も知らない魔術師兵だけが騙されて囮にされた。結果、魔術師兵は蜂の巣にされて犬死にした。みんな、幼気な学徒兵だったのになあ」

「オズ——」


 七々子は、顔色が蒼白を通り越して土気色になりつつあるユーリスの名を呼ぼうとしたが、口に布のようなものが巻きついてきて、声は途切れる。

 百鬼の魔術だろう。自分の身体ひとつ思い通りにならない。

 四年前の帀目のテロ事件のときも、そうだった。七々子は百鬼にまるで歯が立たずに、ただただ惨劇を見つめていた。罪のない人々が命を奪われるのを、そして百鬼の無二の友だったはずの光理がゆっくりと死んでいく様を眺めていた。

 ぎりぎり日鞠の命だけは取り留めたが、もしかするとそれも百鬼の気まぐれで七々子の力などではなかったのかもしれない。


「まったく醜い世界だと思わないか、ユーリス。お前は俺を外道だと言ったが、お前が真に倒さなければならない外道はほかにいるんじゃないのか? なあ、兄弟?」


 まるで自分だけが理解者であるかのような口ぶりだった。ユーリスの悲しみや憤りに同調するように、声は熱を帯びている。

 だが、七々子は知っている。この男に、誰かを慈しむ心など存在しない。

 非魔術師に複雑な思いを抱くユーリスの心理を巧みについて、彼を支配するために最適の言葉を選びとっているだけだ。

 彼は憑霊術師ではないが、憑霊術師のごとくその者が欲しい言葉を与える。


「なにも空骸を殺し尽くさなくたっていい。俺は好きなだけ殺せばいいと思うが、塔の他の連中は意気地がなくてな。だから、ちょっと脅すだけだ。お前と石板が揃えば、勝手に奴らは震え上がる。それだけで、お前の愛する者たちはずっと息がしやすくなる」


 ユーリスの碧の眸が、赤や黄や黒を孕んで揺れる。天上の青が見え隠れする。

 空間がひずみ、ずるりとなにかが引きずり出された。

 厳格なルールによって縛られた魔術が創り出したものではない。無秩序な埒外の力がユーリスを取りまいている。

 ぼたぼたと瘴気を孕んだ液体がしたたり落ち床に触れたかと思うと、業火に焼かれるかのような激痛が全身に走った。

 七々子だけではない。ホール中の学生たちが苦悶に喘いでいる。

 魔術の形を取らない魔力の放出に過ぎなかったが、紛れもなく古代魔法の領域にある力だった。

 聞こえてきた悲鳴に、ユーリスがはっとした様子で目を見ひらく。次の瞬間には、身体の痛みは消えてなくなる。

 リリ先生の医療魔術がふたたびホール全体に展開した。


 百鬼が、落胆したように溜め息をつく。


「何故躊躇う? お前はいつもそうだ」

「——どういう意味だ」


 ユーリスはぜえぜえと全身で息をしながら、訝るように百鬼を見上げた。

 七々子も訳が分からずに、百鬼を睨みつける。

 百鬼とユーリスに面識はなかったはずだ。百鬼の言葉には理が通っていない。

 だがそんな困惑など意に介さず、百鬼はせせら笑う。


「惑わずともいいようにしてやろうか?」


 ユーリスが口をひらくよりも早く、百鬼はリリ先生の結界への攻撃を強めた。七々子の術が封じられていて、リリ先生の守りは盤石ではない。

 七々子は百鬼の術に抵抗したが、予期されていたのかますます縛りが強まるだけだった。

 やがて百鬼の放った神鳴りがリリ先生に直撃する。

 リリ先生の守りがついに落ちた。しかし古代魔法を連続して使ったからか、百鬼の七々子への締めつけも同時に弱まる。好機だ。

 七々子は夜魚の名を呼んだ。


「《ぬばたまのつつくらとりことせよ》」


 夜魚が百鬼に躍りかかる。影水のなかに相手を閉じ込める術だ。

 持てる最大限の力を使って放った術は、百鬼を捉えた。影牢に閉じ込められた者は、呼吸を奪われやがてその命をも喰らわれる。

 しかし、あえなく夜魚の体が串刺しにされ、影牢を鮮やかな黒い血が満たす。

 七々子は呻き声を上げて血を吐き、その場に倒れ伏した。式神が傷を負えば、七々子もただでは済まない。

 分かっていた。夜魚は神代の神ではあるが、その使い手は七々子だ。式神召喚術は、あくまでもその力の一部を貸してもらっているに過ぎない。神の力をも手中におさめる古代魔法に、現代魔術が敵うはずもない。

 だが、時間稼ぎにはなったようだ。

 いつの間にか崩壊していたらしい屋根の隙間から、誰かが火を吐く竜に乗って現れた。

 ユーリスの父、エイシスだ。その後ろに、白蛇に身体を預けた瞳子の姿もある。他の魔術師も次々に後に続いてくる。


 百鬼は舌打ちをすると、ふたたびホール全体に鎌鼬を放った。魔術師たちの足が止まる。とはいえ、エイシスと瞳子はリリ先生にも追随する魔術師だ。突破してくるだろう。さすがの百鬼も彼ら全員を相手に消耗戦に挑むとは考えられない。

 そもそも百鬼はこの場でユーリスを強奪するつもりもないようだった。

 きっとこの場を撤退する。乗り切ったのだ。

 七々子は百鬼にふたたび視線を戻した。ユーリスのすぐ近くにあったはずのその姿は忽然と消えている。

 意識が朦朧とし視界も霞んでいるせいで、百鬼が逃げるのを見逃したのかもしれない。

 安堵の息が漏れた瞬間だった。


「生贄は誰でもよかったんだが」


 宵闇に灯る赤提灯のように淫蕩な声が、間近で響いた。

 血の気が引いていく。

 足元しか見えないが、それが誰のものかはすぐに分かった。

 七々子は地べたに這いつくばったまま、よろよろと顔を上げる。百鬼はなにか思いついた子どものように愉しそうに笑っていた。


「よく覚えておくんだな。すべてお前のせいだぞ、七々子?」

「なにを言って——」


 七々子を殺すつもりなら疾うにそうしているはずだ。百鬼は靴の先で七々子を仰向けに転がすと、魔術で無理やり椅子に座らせた。

 七々子の視線の先には、ほとんど意識を失った血まみれのサルヴァンと、酷い顔色のニケと——七々子の名を叫び、百鬼を睨みつける日鞠の姿がある。

 生贄、と百鬼は言った。ヴァルフィアの石板解放には、ユルグ古代魔法の承継者とともに非魔術師の生贄を六六六人用意する必要がある。


「やめて」


 七々子は蒼白な顔で言った。唇は罅割れ、声を発するだけで血の味がする。百鬼は宥めるように七々子の髪を梳き、剥き出しの耳朶に口づけた。

 百鬼と七々子の周囲に、『糸』の文字が浮かぶ。蜘蛛のそれよりも精緻な透きとおった糸が日鞠に伸びる。七々子は影水で日鞠に守りをほどこしたが、夜魚なしでは百鬼にとっては赤子の手を捻るようなものだった。


「やめて!」


 七々子の口からはもう、ほとんど意味のない言葉しか出てこない。糸に絡めとられた日鞠の身体が引き寄せられて、七々子と百鬼の目の前に着地する。

 七々子は血と汗と土埃と涙でぐしゃぐしゃになった顔で日鞠を見つめた。日鞠は百鬼に向かって拳を突き出したが、その手はあえなく百鬼の掌に握りこまれる。すぐさま左足が百鬼を蹴り上げようとしたが、巻きついた糸が日鞠の足をとどめた。

 歯を食いしばった日鞠を慰めるように、百鬼がその背中に手を伸ばす。日鞠の兄の命を奪ったのと同じ手で、幼子をあやすようにとんとんと背を叩く。

 反吐が出そうだ。

 百鬼は七々子をゆっくりと振り返る。


「なにもこれが最期じゃない。あと六六五も翅虫どもを集めなければならないからな。だから七々子、先走ってそう泣くな。お前が守りたかった人間はどいつもこいつも死んでいくが、それは仕方のないことだ。お前は弱い」


 百鬼はまるで、赦しを与えるように言った。


「それとも、七々子。俺の元に降るか? そうすれば昔のよしみで慈悲を垂れてやらんこともない」


 七々子は弾かれたように百鬼を見上げた。七々子が百鬼にひれ伏せば、日鞠は助かるのだろうか。日鞠を助けてもらえるのだろうか。

 だって七々子にはそれしか道がない。七々子はどうやっても百鬼には勝てない。百鬼の強さには、太刀打ちできない。百鬼を前にすれば、七々子は存在しないも同然の塵芥に成り果てる。


「——相変わらず、最っ低のクソ野郎だね、宵くん」


 七々子の思考を破ったのは、日鞠の怒りに満ちた声だった。

 百鬼は、死体が喋ったのを聞いたような顔をする。


「なに?」

「笑わせないで。なにひとつ、ななちゃんのせいじゃない」


 日鞠は一転してやわらかく目元を融けさせて、七々子を見つめる。


「ななちゃんは、ほんとうは分かっているはずだよ。宵くんは約束なんて守らない。ななちゃんがなにを選ぼうと、この人はこの人のしたいことをする。そのために、ななちゃんがななちゃんであることを捨てないで」

「私が、私であること……?」


 七々子の問いに答える前に、百鬼は舌打ちとともに日鞠を乱暴にその腕に抱く。抵抗する日鞠の頸動脈に手をやって彼女の意識を奪うと、最後に七々子をとっくりと見つめる。


「七々子。お前は、なにも、守れない」


 噛んで含めるように言うと、百鬼は宙に浮かぶ舟を顕現させてひと息にホールを後にする。

 あとには、七々子の慟哭だけが残された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ