4 加勢
杖の持ち主はサルヴァンだった。思わぬ助け舟だ。
非魔術師といえど、魔法の杖がどういうものか理解しているのだろう。ヴァートン生たちはさっと青ざめた。
「サルヴァン、杖を下ろせ」
ユーリスの冷静な声に、サルヴァンは苛立った様子で声の主を睨みつけた。
ヴァートン生は気を取りなおして、胸を反らす。彼の周囲の生徒たちも、一斉に端末を取りだして、動画を撮影しはじめた。
まずい。報道陣が入っていない分、動画を上手いこと切り取られて一方的なローグハイン生の暴力行為に仕立てあげられかねない。
「そうだ。こんなところで騒ぎを起こして困るのはお前たちだぞ。僕らに指一本触れてみろ。今にお前たちへの恩情は消え去る。害悪は狩りつくすべきってな!」
「俺たちへの恩情?」
サルヴァンは低く笑った。髪が逆立ち、ぱちぱちと魔力を孕む。カメラに囲まれていることを気にする様子は微塵もない。
このネット全盛時代に炎上して社会的に抹殺される魔術師は後を絶たない。非魔術師はしたたかに魔術師に対抗する武器を日々磨いている。そのことをサルヴァンが知らないはずもない。気にする様子がないのは、つまり――。七々子の背中を、厭な汗が伝った。
彼は同年代では優れた魔術師だが、七々子の脅威ではないと思っていた。しかしその異様な迫力に一歩も動けず、ただ立ち尽くすしかない。
サルヴァンはユーリスを見つめた。ユーリスだけを、見つめていた。
「こんな屈辱があるか?」
サルヴァンの問いに、ユーリスの指がぴくりと震えた。
「どうしてやり返さない? お前なら、こんな奴ら一瞬で葬り去れる。俺は、お前ほどの奴がこんな扱いを受けているのが我慢ならない!」
サルヴァンは叫び、呪文を唱えはじめた。雷を呼ぶ呪文だ。
杖を突きつけられたヴァートン生は、ユーリスを掴んだまま蒼白な顔で硬直していた。周りのヴァートン生たちは端末を取り落として、蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。
「サルヴァン!」
ユーリスの切迫した声に、サルヴァンの眸に束の間迷いが生じた。
その一瞬の隙に動いたのはヴァートン生だった。
サルヴァンの身体が突き飛ばされて、壁にしたたかに頭をぶつけて床に転がる。呻き声が洩れる。その額から、鮮血が流れ落ちる。
七々子はサルヴァンに駆け寄り膝をつくと、ハンカチをその傷口に押し当てた。
見る間に白いハンカチが赤く染まっていく。
だが、幸い酷い怪我には見えない。頭の傷だから医者か医療魔術の使い手に見てもらうまではなんともいえないが、この分では傷跡も残らないだろう。
七々子はほっとして、ユーリスを見上げた。
しかしユーリスの目は、凍りついたように七々子のハンカチを染める赤に縫いとめられていた。
その碧の眸に色絵具を垂らしたように、別の色が混じる。
――古代魔法の承継者は、その力を解放するときその色を変じるという。
瞬きののちに金色の睫毛を震わせてあらわれたのは、空よりも海よりも澄んだ天上の青。
本来の碧とせめぎ合うように斑に染まった眸で、ユーリスはその場にへたり込んでいるヴァートン生を射るように見た。
ホールを照らす照明がちかちかと点滅し、巻き起こった風が紙ナプキンの類を天井に吹き飛ばしていく。がたがたとテーブルが震え、そこここでグラスが割れる音がした。
全てを破壊し尽くす無軌道な力が、顕現しようとしている。
「オズマリオン!」
七々子は叫んだ。しゃにむにユーリスの腕を掴む。しかし魔力の膨張は止まらない。凄まじい圧に髪も制服も波打ち、頬に指先にちいさな切り傷ができて微かな痛みが走る。
もし今、ユーリスが非魔術師に仇名せば、魔法界と非魔法界の関係断絶のトリガーになりかねない。
そうなれば、いつ終わるとも知れない争いが幕を開ける。世界中を巻き込んだ戦争になる。それを黙って見過ごすわけにはいかなかった。
「《来たれ、神魚》」
ぽちゃん、と水音がして、ヴァートン生の周囲に影水が展開する。守りの陣を敷く。夜を泳ぐ魚がぬらりと七々子の指先をなぞり、ユーリスに牙を剥く。
七々子の技量では、ユーリスの古代魔法に対抗できるはずもなかった。だが、ぎりぎりのところでヴァートン生の命を取り留めるくらいのことはできるかもしれない。
ユーリスの影がゆらりと動いた。
「——きみは結局、こいつらの犬か」
ぽつり、と声が落ちる。
七々子の心を映したように、夜魚の動きが止まる。
「僕らにこの先永劫、踏みにじられていろって?」
ユーリスは瞼を下ろす。七々子を視界から締めだす。
心臓が痛い。
ついさっき、ヴァートン生たちから無視されてまるで自分が透明人間になってしまったような気持ちになった。そんな七々子を、ユーリスは見いだしてくれた。きみはちゃんとここにいると言われた気がした。そのユーリスが、七々子を見ない。
そのことに、言いようのない痛みを覚えた。
「——ねえ」
突如、涼やかで甘い少女の声がした。七々子もユーリスもヴァートン生も一斉に声のした方を向く。
日鞠だ。日鞠が腰に手を当てて仁王立ちをしている。
「話を最初から聞いてたわけじゃないけど、思うにそこのヴァートンの男の子。あなたがそこの怪我をさせた子に謝ればいいんじゃないかな?」
ヴァートン生は目を剥いた。殺し合いでもはじまりそうな場面でなにを頭がお花畑な発言を、と思ったのだろう。
日鞠は魔術師ではない。だが、武術を修めている。ユーリスの放つ強大な力に気づいていないはずがない。その証拠に、彼女の指先は小刻みに震えている。
古代魔法の承継者の得体の知れない法外の力を目撃すれば、本能的に逃げたくなるのだ。魔術師である七々子でさえ。言うまでもなく、他の学生たちも非魔術師の教師陣も皆、恐怖に引き攣った顔でホールの端に張りついている。
普通なら、こんな厄介ごとにみずから首を突っ込まない。
なんでこんな無謀な真似をしたのかと怒鳴りたくなったが、日鞠の有無を言わせない視線の強さに気圧されて、七々子は言葉を失う。
日鞠は七々子とユーリスに「遅くなってごめんね」と謝ると、ヴァートン生を見据えた。
「暴力はよくないと思うな。あの子に謝って」
「……帀目の女風情がしゃしゃり出てくるな」
「あ、そう」
この期に及んで擦れた声で強がりを言うヴァートン生に、日鞠は冷たく応じた。
日鞠の足が風を切る。目を奪われるような、鮮やかな回し蹴りだ。しかしそれはヴァートン生の頬から皮一枚隔ててぴたりと止まる。
「あのね、ひとつ言っておきたいんだけど、女だなんだ言うの、めちゃくちゃダサいよ!」
日鞠がそう断じると、ヴァートン生はほうほうの体でその場を逃げ出す。
「あ、こら! 逃げないで! ちょっと!」
日鞠はヴァートン生を追いかけようとする。七々子はその手を掴んで引き留めた。
「ごめん、ななちゃん。逃がすつもりじゃなかったんだけど!」
慌てた様子で日鞠は七々子とユーリスを交互に見つめた。
ユーリスの眸は凪ぎ、エメラルドグリーンの色を取り戻していた。その唇は戦慄き、手指は震えている。
古代魔法を発動せずに済んだ安堵が色濃く見えるように感じるのは、七々子の願望だろうか。
「……日鞠」
七々子は日鞠を引き寄せる。並みの男など物ともしない小柄な身体が、抵抗なくすっぽりと七々子の腕のなかにおさまる。
日鞠の肩に額を押しつけて、七々子は固く目を瞑った。
「もう。どうしたの、ななちゃん」
日鞠はくすぐったそうに笑いながら、七々子の頭を撫でて囁く。
「なーに、わたしってばそんなにかっこよかった?」
「……ええ」
素直に応じれば、日鞠は頬を染めてはにかんだ。
この場はたぶん、七々子でもなく、ユーリスでもなく、ヴァートン生と同じ非魔術師にしか収められなかった。
日鞠がいなければ、世界はもっと酷いことになっていたにちがいないし、七々子とユーリスの関係も終わっていたにちがいなかった。
もっとも、まだユーリスが七々子を仲間と認めていればの話だが。




