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盾の魔女と魔導の杖  作者: 雨谷結子
第四章 変わりゆくもの
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10 ハンカチと罪悪感

「……あなた、第六時の塔に協力するつもりはないのね?」


 瓶いっぱいになった解毒薬が漏斗から溢れて、手指を濡らす。それを意に介さず、七々子は瞬きもせずにユーリスを見つめた。

 ほとんど香りの消えかけたオードトワレが掠めるように鼻腔をくすぐる。毎日彼のことを追い回しているが、これほど近づいたのは初日以来だった。


「——どう思う?」


 この期に及んではぐらかされ、衝動的な怒りが押し寄せてくる。

 構成員であるにしろないにしろ、その態度は悪手でしかない。疑惑を深めるだけだ。なのに、なぜこの男はこうも性根が捻じ曲がっているのだろう。

 怒りを押し殺して、七々子は口をひらく。


「あなたは奴らに与するほど愚かには見えない」


 それがこれまで彼を見てきた七々子の総評だった。

 ユーリスは差別的ではあるが、非魔術師が死んで当然とまでは思っていないし、そうまでする度胸もないように見える。これは一応褒め言葉だ。


「へえ。随分と僕を買ってくれているんだな」


 皮肉っぽく口の端を上げてユーリスは大鍋にレードルを立てかけると、布巾を水で濡らしてテーブルに垂れた魔法薬を拭う。


「だが、僕は奴らの言葉も聞く価値はあると思ってる」

「聞く価値? 非魔術師は人間にあらずと公言して憚らない連中よ。聞く価値なんて——」

「非魔術師にだって、魔術師は人間にあらずとほざいている連中がいる。それよりは同じ魔術師の話を聞いたほうが魔術師のためになると思わないか?」


 脳裏にふと、燕尾服姿で手紙を手にしていたユーリスの姿が閃いた。

 水棲馬馬術の対抗戦がひらかれ、柊のサロンを訪れて歓迎会のやり直しをしてもらい、ペペがはじめて本性を見せた日のことだ。

 それだけではない。彼はそれまでにも、差出人の名のない手紙を手にしていた。あれは、あの手紙は――。


「オズマリオン。あなたあの日、校則違反をして海上に上がったのは——」


 蒼白な顔をした七々子をよそに、ユーリスは悠長に腕まくりをして流しで布巾を洗いだした。何度も擦り洗いをして、最後の一滴まで絞りきるとそれをシンクに丁寧に広げる。緩慢な動作ひとつひとつの間に、七々子の心臓の音はうるさいくらいに頭にがんがんと響きわたる。


「あれは、第六時の塔の奴らに呼び出されたから様子を見に行ったんだ。といっても、祝勝会をなかなか抜け出せなくて、約束の時間より二時間も遅くね。そのせいか、それともきみがおまけでくっついてきたせいか、奴ら姿を見せなかったけど」


 ユーリスは七々子の元まで戻ってくると、悪びれもせずにそう言ってのけた。

 七々子は絶句して彼をまじまじと見つめる。

 あのとき彼を追いかけていなければ、もしかすると今ごろ、ヴァルフィアの石板の封印が解放されて非魔術師の夥しい死体が転がっていたかもしれない。


「あなたって——! 手紙を出して。なにか手がかりが残っているかもしれないわ。ちゃんとした機関で調べれば痕跡から居場所が割り出せるかも——」

「もう燃やした。後生大事に証拠を取っておくわけないだろ。それに僕の見立てじゃ、綺麗さっぱり痕跡は消されていた」

「……さっきの発言を撤回するわ。あなたって魔法界一のお馬鹿さんよ。見損なったわ。ありえない。最低よ! それをザネハイト先生や機構に報告して待ち伏せでもできていたら、今ごろ何もかも元通りで、私もお役御免になっていたかもしれないのに!」


 畳みかけるようにユーリスへの罵詈雑言を吐き出せば、彼はさっと気色ばんだ。

 しかし、どういうわけか七々子の顔を見て、出鼻を挫かれたように口ごもる。

 やっとのことで口をひらいたかと思えば、弱々しい呻くようなひと言がこぼれ落ちた。


「……奴らに直接話を聞いてみたかったんだ」

「話なんて。連中にまともな言い分を期待するだけ無駄よ。あなたみたいに魔術師への情でもあればまだ話が通じるかもしれないけど、あの人にはそれすらない。ただ、力がすべて。強い者が弱い者を淘汰するのは当然で、そのためなら異を唱えたのが無二の親友だったとしても手に掛ける。そんな奴と話ができる!?」

「……泣くなよ」


 擦れた声がしたかと思うと、眦になにかが触れた。熱をもっていたせいか、ひんやりとして気持ちがいい。水仕事をして冷えた、自分のものではない指の背だった。訳も分からず瞬きをすれば、駄目押しのように睫毛がひとつふたつとしずくをはじく。

 それでようやく、自分が泣いていたらしいことに気づいた。頭に血がのぼってまるで自覚していなかったが、シャツにまでできた染みを見るに、どうも派手にやらかしていたらしい。

 しかもそれをユーリスに目撃されただけでなく、その手で涙を拭われてしまった。酷い失態だ。

 衝動的に後退りかけて、寸でのところでこらえる。まだファハメックの解毒薬に手を添えたままだ。倒してしまったりすれば、今日一日の作業が無に帰してしまう。

 こぼさないように慎重に漏斗を瓶の口から抜いてから、今度こそ七々子は立ち上がった。濡れた顔を拭おうとして、その手を勢いよく取られる。


「放して」

「待て。薬が目に入る」


 そう言われて、自分の手に解毒薬がこびりついていることを思い出した。

 猛毒のファハメックの解毒薬ともなれば、解毒薬といえど強力だ。


「座って」


 言われるがまま、大人しくもう一度椅子に腰かける。

 ユーリスはハンカチを取りだすと、黙って七々子の手を拭いはじめた。

 手のひらを返したり、指と指のあいだにハンカチを添わせたりする手つきは存外やさしく、びっくりしすぎて涙も引っ込む。触れあった指先から互いの熱がうつって、融けていく気がした。

 そうして薬を八割がた拭き取ったあとで、ユーリスはああと苦笑する。


「こうすればよかったんだ。《浄めの月よ 浚え》」


 浄めの呪文を唱え終えると、ユーリスはちいさく息をつく。


「……ごめんなさい、あなたのハンカチ、もう二枚目なのに」

「今言うのがそれか?」


 ユーリスは下手な冗談を聞いたような顔をした。


「だって……! いえ、その、前に借りたものはちゃんと洗って保管してあるの。いつ返そうかって、ずっと思っていたから」

「べつにいい。きみのほうが必要とする機会が多そうだ」

「私だってハンカチくらい持ってるわよ」


 そんなことが言いたいのではなかったが、もはや癖になっているのか憎まれ口しか出てこない。

 珍しく言い返してこないユーリスに、なんだか自分ひとりじたばたしている気がして恥ずかしくなってくる。

 そっと仰向けば、ユーリスは何事もなかったかのように遮光瓶の蓋を閉めていた。


「オズマリオン」


 意を決して端正な横顔を呼び止める。

 ユーリスは、素直に七々子を見つめかえした。

 夜の底のような深海で、木の間からひかりの射した湖にも似た眸が星のしるべのように揺れている。それに勇気づけられるようにして、今までずっと言えなかった言葉をかたちづくる。


「……ありがとう」


 ユーリスの眦がいっそう柔らかく細められる。


「僕も……勝手に触れて悪かった」

「謝らないで。おかげで助かったわ」

「今だけじゃない。初めて逢ったときも……その、きみを怖がらせたろ。力尽くでなんて、女の子にしていいことじゃなかった」


 まさか今さらそんなことを言い出すとは思わず、目を瞬く。

 初めて逢ったとき。

 あのとき、七々子が握手のために差しだした手をユーリスは強引に掴んだ。そのことを言っているのだろう。でもあのときは結局、ユーリスはその手を離した。七々子が怯えたのを見てとって、手心を加えたのだと思う。

 七々子はあの瞬間、紛れもなく彼の脅威でしかなかったのに。

 柊のサロンの面々はそんなユーリスの振る舞いに怒ってくれたけれど、七々子が彼の存在を脅かす敵対者として現れた以上はそこに男も女も関係ない。殴られても魔術で痛めつけられても文句は言えないはずだった。七々子もそれくらいのことは覚悟して、この任務を引き受けたのだ。

 きっと本来、ユーリスは他人に無体を働くような人物ではないのだろう。

 初めて逢ったときからそのことはなんとはなしに分かっていた。理解したくなかっただけで。

 たしかに非魔術師には複雑な思いがあるようだし、彼の差別的言動は絶対に認められない。だが、おそらくそれを口に出させた原因は七々子にもある。

 人は誰しも心に悪感情や差別心を飼っている。それを言動に表さないだけの理性を、彼は元々持っていた。けれど七々子が現れたことで、その理性をかなぐり捨てざるを得なくなったのではないだろうか。

 逆の立場だったら、七々子はもっと酷い言葉でユーリスを罵って、実力行使に及んでいたかもしれない。なにしろ、ユーリスはその気になれば七々子など呪文ひとつ、腕力ひとつで捻じ伏せられるのだ。

 彼はこれまで牽制程度の行為しかしてこなかったが、それでも七々子が怯えたことをずっと心に留めていたのだろう。

 それを謝られたら、七々子も彼をつけ回していることを謝らなければならなくなる。


 けれども、七々子の方はまだ彼の監視の手を緩めるわけにはいかなかった。

 魔法界と非魔法界のこれからが懸かった重大な任務だ。いくらユーリスに非魔術師を滅ぼすつもりがなくとも、第六時の塔の手に落ちれば彼の意思など関係なくなる。

 もう早く彼に謝って楽になってしまいたかったが、まだそうするわけにはいかない。

 罪悪感がじっとりと質量を増していく。


「ツバキ、きみは第六時の塔の人間と面識があるのか?」


 堂々巡りの思考を続けていたら、いきなり核心に迫る問いを突きつけられ、七々子は凍りついた。

 よほど酷い顔をしていたのか、ユーリスは少し悔いるような顔をした。


「言いたくないのなら、無理にとは言わない。だが、僕は奴らに狙われている。奴らについて少しでも多くを知りたい。もし、なにか話す気になったら話してほしい」


 ユーリスは、あくまで逃げ道を残してそうのたまった。

 その気遣いが、今は逆に堪える。七々子はやっとのことで頷くのが精いっぱいだった。

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