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盾の魔女と魔導の杖  作者: 雨谷結子
第四章 変わりゆくもの
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9 魔術師の責任

「んじゃ、おれこれからデートだから」


 海底に出てすぐ、ニケはひらりと手を振ると七々子たちの元を去っていった。先ほど見せた凶暴でありながらどこか虚ろな感情の残り香は嘘のようにさっぱり消えていて、白昼夢でも見ていたような気さえしてくる。

 水棲馬との相性が悪いのか、運動神経の問題か、ニケはほとんど振り落とされかけているようなひどく不格好な態勢で北の方角に駆けていく。これは一年生必修の水棲馬馬術の成績は間違いなくよろしくはなかった口だろう。

 そろそろファハメックの解毒薬が冷めている頃合いだ。

 ニケには遮光瓶に詰める作業まで一緒にやってほしかったのだが、なんとなく呼び止められずにその後ろ姿を見送ってしまった。

 できたら今度作る気絶魔法薬の手順の確認もしたかったのに。

 ユーリスは、七々子とふたりきりなのが端から分かっている状況では手伝ってなどくれないだろう。


「ペペ」

「はいはーい。今日もおいしそうだね、七々子」


 本音を隠そうともしなくなった物騒な水棲馬に跨り、七々子はひとり研究棟に向かおうとする。

 けれども、ユーリスの乗る大きな黒い水棲馬、ノユはすぐにペペの鼻先に追いついてきた。どういう風の吹き回しだろう。

 まじまじと横顔を見つめていると、むっとした様子でユーリスが口をひらいた。


「きみは僕のことをその性悪の水棲馬かなにかと混同しているのか?」


 つまり、七々子ひとりに解毒薬づくりを押しつけるような外道ではないと言いたいらしい。

 それならそうと言えばいいものを、なぜこうも角の立つ言い方をするのだろうか。

 七々子は自分のことは棚に上げて、苛立たしく思う。


「あー! 七々子、こいつぼくのこと性悪とか言ったよ。どっちがって感じだよねえ」


 ペペが憤慨した様子で割り入ってくる。ますます話がややこしくなって、七々子は溜め息をついた。正直どっちもどっちである。


「ねえねえ七々子、こいつのこと食べちゃっていい? ぼく男の肉あんまり好きじゃないけど、我慢するよ」

「うるさい、駄馬め。ノユを見習え」

「ぼくを侮辱したな。一年生のときの水棲馬馬術の最初の授業で、ぼくに蹴られてぴーぴー泣いてたくせに。七々子、ノユ、こいつねえ、今じゃ澄ました顔して魔法界のプリンス気取りで威張り散らしているけど、それはそれは甘ったれの洟垂れ坊やだったんだよ」


 ペペが勝ち誇った顔で鼻の穴を膨らませる。


「な——黙れよ。あのときのあれはどう考えてもきみが悪い。僕は手順通りにした!」


 ユーリスは頬を仄かに朱に染めて、早口で言いつのる。

 どうやらふたりの間には因縁の歴史があるらしい。

 馬鹿にされると思ったのか、ユーリスはちらりと七々子を一瞥した。

 だが七々子もいくら彼のことが気に喰わなくとも、他人から聞いた子ども時代の話を持ち出して手を叩いて喜ぶほど、恥知らずではない。

 口数の少ないノユは、子どもじみたペペとユーリスのやり取りに呆れかえった様子で静観を決め込んでいる。これは、ペペの思いの成就はいっそう遠のいたと見て間違いないだろう。

 研究棟の前でノユに冷たい目で見られて半ベソを掻いているペペに別れを告げて、七々子はユーリスとともに室内に舞い戻った。


 棚から出してきた遮光瓶と漏斗を手早くテーブルに並べる。七々子が遮光瓶を出している間にも、ユーリスの手によって布巾やレードルが用意されていた。さすがに手慣れた手つきだ。

 七々子が漏斗を遮光瓶の口に突っ込んで押さえると、ユーリスはレードルで大鍋の解毒薬を掬って移し替え作業をはじめた。気にいらない相手だが、なにを言わずとも先回りをしてやるべきことをやってくれるというのはやりやすいことこの上ない。

 どろりと濁った解毒薬は色味はなかなかグロテスクだったが、熱が取れて匂いもだいぶ落ち着いてきたせいか吐き気を催すまでではない。

 魔法薬は往々にしてゲテモノが出来上がることも多いが、ファハメックの解毒薬はだいぶましな部類のようだ。

 円卓に並んで座ってしばらく黙々と共同作業を続ける。ぼうっと解毒薬を眺めていると、ここには居ない奇抜な珊瑚頭が脳裏をよぎった。

 不意にユーリスがあいつ、と声を上げる。


「なんだってリリ先生に喧嘩を売るような真似をしたんだ?」


 それは奇しくも七々子もちょうど考えていた人物についての話題だった。

 わざわざ七々子に話を振ってくるあたり、ユーリスも相当混乱していると見える。


「さあ。でも、私たちを庇ってくれたんじゃないかしら」

「庇う?」


 ユーリスは笑うのに失敗したように、口元を歪める。

 魔術師の世界は実力社会だ。ユーリスの実力は、上級生のニケの力量をはるかにしのぐ。

 ユーリスは法律上はまだ未成年だったが、彼にしてみればニケのほうが庇護対象であって、庇われるというのは不可解なのだろう。

 しかしプライドが傷つけられて憤慨しているというよりは、まるで初めて遭遇した出来事にどういう顔をしていいか分からずまごついている幼子のように、七々子の目には映った。


 思うに、若くして大魔術師として名を馳せたユーリスは、あまり守られるという経験がなかったのではないだろうか。

 ただでさえ彼は生ける魔術遺産などと呼ばわれ、大人からも政治的な材料として扱われがちだ。

 機構も連盟も学校もユーリスの安全を守ろうとはしているが、彼自身を庇護しているとは言いがたい。その心は置き去りのままだ。

 七々子の境遇も似たり寄ったりだったが、七々子には世界情勢や魔法界の派閥争いなど捨て置いて、七々子個人を優先してくれる新と日鞠がいた。彼らが七々子を庇おうとするたびにふたりに傷ついてほしくなくてやきもきもするが、同時に大事にされていると感じて心は慰められた。


「父はいつも言っているわ。魔術師社会は子どもに厳しすぎるって」

「それが僕らが身を置く社会だ。僕の兄は、今の僕と同い年のときに従軍して中東に行った」


 七々子は息を呑んでユーリスを見つめた。

 知らなかったわけではない。

 ユーリスの調書を調べたときに、兄がいたらしいことは確認している。過去形なのは、どうもその中東で起こった戦争で亡くなったらしいからだ。

 七年前に起こったその戦争は、魔術師が始めたことではなかった。歴史上、非魔術師社会で起こった戦争にも魔術師は徴兵されてきた。

 ユーリスが非魔術師に対してあれほど嫌悪感を見せるのは、兄を失うことになったあの戦争が絡んでいるのかもしれないとは思っていた。瞳子からもその件について早くユーリスを糺すようせっつかれている。

 だが、いくら彼の真意を量らなければならないとはいえ、いたずらに傷を暴くような真似はできなかった。


「僕はむしろ、早く卒業して一人前と認められたいけどな。魔術師の成人年齢である十五歳を超えていたところでローグハインの学生のうちは、どうしたって守られてしまう。こんなところに押し込められずに僕が直接第六時の塔を相手取って戦ったほうが、案外早く片がつくかもしれない」


 七々子はそれを身の程知らずの思い上がった発言とは思えなかった。

 四六時中ユーリスをつけ回してきただけあって、幸か不幸か七々子はおそらく彼の実力をそこらの魔術師よりは正確に把握している。


「ツバキもよく言っているだろ。魔術師の責任って。僕だってそれから逃れようと思っているわけじゃない。僕は幸運にも魔術の才能に恵まれた。そうであるからには、この力を同じ魔術師を守るために使いたい。それが混血だろうが、非魔術師出だろうがな」


 幸運にも、と彼は言った。恵まれた境遇にある者がそれを自覚するのは容易いことではない。

 ユーリスの声音は、これまで聴いたどんなものより真摯だった。


「だから僕の力のせいで、今起こっている排斥事件みたいに魔術師が酷い目に遭っているのは赦せない。……この際、退学するのも手かもな」


 ヴァルフィアの石板の件で意志とは無関係に渦中の人となったユーリスは、どうやら自分の手で第六時の塔との決着をつけたがっているようだ。

 いや、それよりも一連のユーリスの発言から察せられたことがある。

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