8 卑怯な大人の振る舞い方
リリ先生のドームには、七々子たち梣隊のほかに生徒の姿はなかった。初等課程の授業もない時間帯なのかもしれない。
授業で使われているときにはすり鉢状の講堂になっている部屋は、一、二世紀前の品のよいアンティークの家具がしつらえられたティールームに変貌していた。
リリ先生は手ずから淹れたアフタヌーンティーやティースタンドに載ったマフィンやクッキーを勧めつつ、観念した様子で言った。
「こんな情勢だからこそ、魔法界非魔法界の架け橋となる祭典を行うことに意味がある、と建前を申し上げたところであなたがたは納得しないでしょうね」
建前、とリリ先生は明言した。
たしかに姉妹校文化交流祭が今の時期に大々的に行われ、それが成功を収めてメディアでも大きく取り上げられれば、激化する対立を留めるのに一定の効果はあるかもしれない。非魔術師の子どもと魔術師の子どもが一致団結して行事を行い、親交を深める。それに海を越えた異文化圏の学生も参加するというのは、なんとも世間が好みそうな美しいストーリーだ。
だが、それが第六時の塔による襲撃の危険を冒してまでやることだとはとても思えなかった。
「賢明なあなたがたを上手く騙す嘘が思いつかないので、はっきりと申し上げます。姉妹校文化交流祭へのユーリスの参加。これは連盟と機構、それから我がローグハインの三者会談で取り決められた決定事項です」
七々子は目を見ひらく。
交流祭はあくまでローグハイン魔法学校とヴァートン・カレッジの学校行事に過ぎない。それに連盟と機構が絡んでいる、というのは政治的な力が働いたということに他ならなかった。
「機構まで——?」
七々子は狼狽えつつ、スカートを握りしめた。
おそらく、瞳子が手紙で伝えてきた新しい展開というのもこのことなのだろう。
しかし解せない。連盟はともかく、ユーリスを危険分子と見なしている機構が危ない橋を渡ろうとする意味が分からなかった。
「海の底にいるあなたがたもご承知のとおり、今地上はいつ爆発するとも知れない爆弾を抱えているような状態です。石板が盗まれ、魔術師排斥事件が起こり、今度は非魔術師が襲われ——魔法界と非魔法界のあいだに小競り合いが頻発しています」
「……だからこそ、オズマリオンを投入するのは危険だと思います。火に油をそそぐようなものじゃありませんか」
七々子の意見にユーリスは鼻白みつつも、リリ先生の前だからかお行儀よく沈黙を守っている。
「ええ。ですが、このままでは再び魔法界と非魔法界の間に決定的な亀裂が走りかねない。それは魔法界としても避けたい事態です。そこに非魔法界の首脳陣から今回の作戦の提案があったのです。突っぱねれば魔法界はわざと第六時の塔を野放しにしていると見做されかねません。それに、魔法界も一向に進展しない事態に痺れを切らしていた」
要するに、非魔法界からの圧力に屈したということだろう。非魔法界との折衝の場において、魔法界は常に難しい舵取りを迫られている。
「つまり、オズマリオンが参加することになれば、第六時の塔がかならずそれを狙って襲撃を仕掛けてくると分かったうえでの作戦、ということですか」
「ええ、成果を上げるために必要な措置と判断しました」
成果。
それを得るために魔法界も非魔法界もユーリスを囮にすることに決めたということだろう。
ちらりとユーリスを見やれば、変わらず澄ました顔をしている。七々子と同じことに気づいただろうに、その内心は窺えなかった。
俯いた七々子の代わりに、ユーリスが口をひらく。
「成果というと、第一がヴァルフィアの石板の奪還。第二が第六時の塔構成員の身柄の確保。その認識で間違いはありませんか」
「ええ、優先順位は仰るとおりです。犬猿の仲の連盟と機構が手を組み、ローグハインからは私も参ります。あなたがたのことは、かならず守るとお約束いたしましょう」
「――帀目の非魔術師学校の参加は、取りやめになりませんか?」
思いつめたように切りだした七々子に、ああとリリ先生は羊皮紙の上の異国の学校の名をなぞる。
「マーシャルアーツの選手がいらっしゃるという件ですね。その件については揉めたようですが、当初の計画どおり行うことで第六時の塔の油断を誘いたい考えがあるというのがひとつ。それともうひとつは私が建前と申し上げた理由にこだわっている方々の見解ですが、西洋と東洋の学生、非魔術師と魔術師という構図が人々の胸を打つだろうと。当日は報道陣も入る予定ですので」
「そんな理由で――」
「申し訳ありません、七々子。これは決定事項なのです」
七々子は拳を握りこんだ。
そんなことのために、多くの命が危険に晒されるというのだろうか。ユーリスの言葉ではないが、それでは交流祭は見世物同然だ。
七々子もこのまま手をこまねいて対立が激化していくのを傍観することは望んでいないし、魔術師としての責任があるから自分が巻き込まれるのは構わない。
だが、どれほど利己的だと罵られようとも、渦中に日鞠がやってくることだけはとても認められなかった。
日鞠は過去にも百鬼の魔術に巻き込まれて、生死の境を彷徨っている。
日鞠には仮病でもなんでも使ってもらって、来ることのないよう手紙を送ろうと七々子は決めた。
「連盟と機構の関与はくれぐれも内密にしてください。それから、あなた方は当日、なにかしようとしなくてよろしい。あくまでも自分の身を守ることをお考えなさい。私からは以上です」
リリ先生はそう言って話を切り上げる。納得できたわけではなかったが、七々子とユーリスは退出するために立ち上がった。
しかしそれまでだんまりを決め込んでいたニケはその場を動かなかった。指についたクッキーの粉を舐めとると、小首を傾げてリリ先生に微笑みかける。
「リリせんせ、そうやって大人ぶって庇護者ぶってるけどさ。なにか起こって傷つくのは結局、ばかみたいに真面目なこの子たちじゃん? かならず守るだなんて嘘、よく言えるよねぇ」
七々子は目を剥いた。いつも通りのゆるい口調にもかかわらず、はっきりと棘を込めた言葉だった。
ユーリスが慌てた様子でニケの肩を掴む。
「おいニケ。失礼だぞ」
「んー。おれも無駄に時間食って大人になっちゃったし、卑怯な大人の振る舞い方と心の持ちようをお勉強したくて? リリ先生も精神のプロテクト鉄壁だから、直接聞くしかなくてさあ」
唖然としている七々子とユーリスに目もくれず、リリ先生は鷹揚に頷いた。
「ニケの仰る通りです。本来は、あなた方もヴァートンや瑞原の学生もそのような戦場に駆り出されるべきではない。これは我々大人の失策の皺寄せが、あなた方にまで及んでしまったということ。謝っても謝りきれるものではありませんが、そのことは大変申し訳なく思います」
リリ先生とて一教師の立場だ。
経緯を説明する口ぶりからしても、今回の件に諸手を挙げて賛同しているわけではないことが窺えた。はぐらかしたり言い訳をしたりすることもできただろうに、リリ先生は深く頭を垂れた。
「ですから私は担当教官として、全身全霊をかけてあなた方の生命を保護する。それだけは、お約束いたします」
リリ先生は七々子たちを守ると繰り返した。
この世に絶対なんてことはない。だが、繰り返される言霊は力となり、誓いを補強する。約束とは、人の意志が生んだ原初の魔術だ。
リリ先生が相当の覚悟をもって宣言しているのは明らかだった。
ニケは曖昧に笑うと、言葉を返してくれたリリ先生になにも言わずに踵を返す。
「ニケ」
リリ先生は静かに不埒な生徒を呼び止めた。
「あなたも私の大事な生徒です。そのことを肝に銘じておくことですね」
ニケは背を向けたまま答えず、はいはいとでも言うように軽く手を挙げる。
七々子とユーリスは思わず目を見合わせると、このドームに入ってきたときとは反対に、そのひょろ長い背中を追いかけた。




