5 獏の見た夢
水曜一限は、帀目の境界生物、獏を連れたズノア・カロー先生が教える魔法史の授業だ。
「こんな世界はとっとと滅んだほうがいいと見える」がカロー先生の口癖で、その陰気で厭世観漂う語り口のおかげで、ただでさえ海の底でじっとりしている空気がこのドームでは三割増しになっている。
びっしりと隙間なく埋められた文字だらけの教科書を読まされたり、目を凝らさなければ見えない神経質な筆致の板書を取ったりしなければならない授業は大多数の生徒にとって眠気を誘うだけの代物で、鼾が聞こえてくることもしょっちゅうだった。
しかしそんなカロー先生の授業も時折、生徒たちを興奮あるいは絶望の渦に巻き込むことがあった。
全体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、足は虎に似たキメラじみた獏が、耳を塞ぎたくなるような音を立てて、白く透きとおった液体を吐きだす。
それが合図だった。
『帀目の非魔術師のあいだでは誤解されているが、こいつは悪夢を喰らうのではない。記憶を喰らうのだ』
カロー先生が七々子の最初に受けた授業で宣言した通り、この五百年も生きているという獏は腹のなかにいくつもの記憶を溜めている。
そして時折、その記憶を吐きだし、誰かの見た歴史の一幕を覗かせてくれるのだ。
吐瀉物がじわじわと床に広がり、それが足に触れるやいなや、七々子の意識は過去に奪われていく。
今日の授業の範囲は、ユルグ近隣の小国ビステの現代史だ。
まずはじめに見えたのは白いリノリウムの床が続く病院か研究施設のような場所だった。白衣を着た研究者風の男たちが廊下を行き交い、その左右にいくつか扉の閉まった個室があるのが見える。
部屋番号の書かれたプレートが掛かっているのは病院らしくもあったが、その下に患者の名を示すものはなかった。
視点人物は研究者なのか、二〇三四と書かれた部屋の前で立ちどまり、ノックもなしに部屋に入る。
スライド式のドアを開けると、簡素なベッドと剥き出しの便器があった。
ベッドには患者衣を身に纏い、魔力を抑制する首輪を嵌めた女がひとり腰掛けている。腰の辺りの紐を結んでいるところで、汗の滲んだ額には髪が張りついていた。
床の上に裸足で立っている男はもっと露骨で、上半身は首輪のほかに身につけているものはなにもなかった。
ぐしゃぐしゃの患者衣が、男の足元に転がっている。
「一〇八七番。明日は二〇五二番だ」
耳慣れぬ異国の響きだった。ビステの言葉だろう。自動翻訳されたユルグ語の音声があとから耳に流れ込んでくる。
研究者の声に頷いて、男が部屋を出て行く。その眸に生気はなく、患者衣から下着がはみ出していることを気に留めた様子もない。
研究者は二〇三四番、と女を呼ぶと聴診器で心音を聴き、それから尿検査のキットを手渡した。
女は無表情のままそれを受けとったが、やがて研究者が部屋を出て行くと室内からけたたましい笑い声が追いかけてきた。研究者はほんの一瞬立ちどまったが、やがて何事もなかったかのようにまた廊下を歩き出す。
視界が暗転する。場面が切り替わったようだ。次に見えたのは狭く薄汚い路地だった。先ほどよりも視線が低い。視点人物は女性だろうか。
路地の突きあたりで、視点人物の足が止まる。眼前に、みすぼらしい恰好をした垢だらけの男が媚びるように笑みを浮かべていた。
その歯はいくつも欠けていて、眸はどろりと濁っている。
獏の見せる記憶はにおいまでは拾わないが、その場にいたならきっと酷く饐えたにおいが立ち込めていただろう。
「お嬢さん、ほらごらん。俺は魔術師だ」
そう言って男は指先から微弱な光を発した。魔術師を名乗るにはあまりにも脆弱な力だった。
「俺の子を孕めば、大金持ちになれるかもしれないよ。ひと晩二五〇ダル。どうだい?」
視点人物らしき娘の骸骨じみた指先が、懐をまさぐり銀貨を取りだす。
そこまでで記憶は途切れた。
気づいたときには、七々子の意識はじめじめとしたカロー先生のドームに戻ってきていた。
額にぐっしょりと汗をかいている。
それは七々子だけではなかったようで、口元に手を当ててドームを飛び出して行く生徒の姿もあった。
隣に座っているテナの顔は青ざめている。
七々子はその背にそっと手を添える。ほっとしたように、テナがこちらを見上げて大丈夫とでもいうように頷く。
「今見てきた時代のビステの主産業は?」
カロー先生の質問に、ドーム内はしーんと静まり返る。
「誰も答えられんのかね。嘆かわしい」
いくら不真面目な生徒であろうと、カロー先生の質問の答えを知らぬ魔術師はおそらくこの講義室にはいなかった。
答えられないのは、答えを知っているからこそだ。
七々子はそろりと手を挙げかけたが、それよりも早く別の生徒の手が挙がった。ユーリスだ。
カロー先生はにこりともせずに頷く。
「オズマリオン、答えよ」
「はい、魔術師の産出です。大戦により焦土と化し戦後の復興から取り残されたビステは、魔術師を強制的に交配、管理することで多くの魔術師を生み出そうとした。そうして生まれた魔術師は売買の対象となり、七年前に中東で起こった戦争においてもそうして売買された魔術師傭兵が戦力になったと言われています」
「いかにも。承知の通り、魔術師は非魔術師と非魔術師の間にも生まれるが、どちらかが魔術師の血を引いているほうが魔術師が生まれる確率は高い。そういうわけで、ビステは魔術師を交配させるための収容所——いわば牧場を作りだした。研究施設の交配要員にもなれなかった力のない魔術師は、街頭に立って身体を売ることも多かった。鳶が鷹を生むこともないではないからな。もっとも、人道上の問題で二十年前に収容所は解体されている」
いまだ沈黙に沈んでいる生徒たちを見渡してカロー先生は溜め息をつくと、お決まりの台詞を吐きだした。
「ああ、まったく。こんな世界はとっとと滅んだほうがいいと見える」




