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盾の魔女と魔導の杖  作者: 雨谷結子
第四章 変わりゆくもの
20/61

4 校則違反

「ペペ」


 七々子の呼び声に、灰色の毛並みをした水棲馬が嘶いて応える。

 七々子が何頭か試した中でも気性の穏やかな仔馬で、尾が半円を描いて背中のほうに巻き上がっている。

 水棲馬は人間を海底に引きずり込んで喰らう凶悪な境界生物だが、ローグハインの海域にいる彼らは魔術馬具を装着されていて、余程のことがないかぎり乗り手に襲いかかったりはしない。


「オズマリオンがどこに行ったか知らない?」

「もう、七々子もユーリスにお熱なの? ほーんと、あいつって学校中の女の子のこと引っ掛けてるよねぇ。今日の試合後のあいつ、『やれやれモテてモテて困っちゃう~』みたいな顔して女の子たくさん連れ歩いてて最悪だったよ」


 ペペが悪意満載の悪態をつく。

 彼が喋っているのは妖精言語ではなくユルグ語だ。境界生物のなかには人間を下等生物と見なしている輩も少なくないが、ペペのように魔術師と交流を持とうとする変わり種もいくらかいた。

 ノユという水棲馬に片思い中のペペは、別の種族といえど女子学生から熱視線を送られているユーリスにジェラシーを抱いているようだ。

 いつもと変わらない調子のペペにいくらか気分が和らぐ。


「私はちがうわ。私の目的なんてペペにはお見通しでしょ」

「まあねぇ。あ、ほらあそこ見て」


 ペペが鼻面を向けたほうを見れば、五、六人の女子生徒が水棲馬に跨ってドームとドームの間を右往左往しているところだった。校内でも中心的な解放派の女子生徒たちだ。彼女たちはいつも身ぎれいにしているファッションアイコン的存在だったが、どういうわけかいつにも増して今日は着飾っている。

 そこから少し離れたリリ先生のドームの陰にユーリスの姿があった。まるで女子生徒たちから隠れるように身を縮めて、傍にいる水棲馬の背を宥めるように撫でながらじっとさせている。あれはたぶんペペの意中の相手である水棲馬、ノユだ。

 これはたしかにペペの言うとおり、『やれやれモテてモテて困っちゃう~』しぐさに見えなくもない。


「はん、これだ。これだよ。こうしてあいつってば、ぼくに見せつけてくるんだ。おまえにこうはできないだろってね」


 ペペの言葉は、私怨以外のなにものでもない。

 だが、七々子にはそれを指摘する余裕はなかった。

 ユーリスの様子がおかしい。懐から白っぽい手紙のようななにかを取りだして思いつめたようにそれを凝視したかと思えば、今度は懐中時計を見つめ、ちらちらと女子生徒たちのいる方向に目をやった。それを何度か繰り返す。ここからは遠くてその詳細は窺えなかったが、その姿は浮き足立っていると言っていい。いつも気取った彼らしくもない様子だ。

 ——なにかある。

 ユーリスには、女子生徒を撒いて逃げなければならない、時間を気にしなければならないなにかがある。

 だが、女子生徒たちもこの魔法学校の雄たるローグハインの学徒だ。その場しのぎの浅知恵で振り落とされるほど軟ではなかった。近くをうろついていた女子生徒のひとりが痕跡を辿る魔術でも使ったのか、あっと声を上げてユーリスを見つける。他の子たちも一斉に馬首を向けた。

 仕方なしといった様子でユーリスは勢いよくノユに跨ると、手綱を引いた。ひと蹴りでぐんと上昇する。


「ペペ、追って!」


 慌てて七々子もペペの手綱を引く。

 しかしちょうど七々子の目の前に鱗状の巨大な壁が出現した。いや、ちがう。壁ではない。海の大蛇キーレン・クレンだ。鯨七頭を喰わなければ腹が膨れないという大洋の怪物である。彼の大蛇に比べれば人間など塵芥のようなもので、じっとしていれば襲われたりしない。

 しかしキーレン・クレンがゆらゆらと巨体を揺らして過ぎ去ったあとには、すでにユーリスとノユは忽然と姿を消していた。

 女子生徒たちは、と見るが、リリ先生のドームから少し離れたあたりで揃って残念そうに上の方を見上げている。相手は水棲馬馬術のローグハインの今期のエースのひとりだ。彼女たちはユーリス相手に水棲馬で追い縋るような無益な真似はしないことに決めたらしい。

 だが、任務のある七々子はそういうわけにもいかない。あんなにあからさまに怪しいユーリスを見て放っておくなど、沽券に関わる。


「ペペ、オズマリオンを探せる?」

「もっちろん。任せて!」


 鼻をすんすんさせると、ペペは一気に上昇した。あまりの勢いに、慌ててペペの首にしがみつく。

 境界生物学が得意な七々子は比較的水棲馬との関係も良好だが、彼らを乗りこなすには運動神経や日々の鍛錬も必要だ。だからこと馬術にかぎっては、七々子も得意とは言いがたいところがある。それでもペペはかまわずぐんぐんと高度を上げ、やがて寮のてっぺんを追い越した。


「ぺぺ、学校の敷地外に出てしまうわ」

「でも、ユーリスのにおい、もっとずっと上の方に続いてるよ」

「上って……どの辺り?」


 七々子が声を尖らせれば、ペペはうーんと唸った。


「たぶんもう、海面に近いんじゃないかなあ」


 七々子は弾かれたように頭上を見上げた。

 ここからではまだ、海面までは距離がある。陸との行き来が臨時の校則で禁止されている今、ユーリスが本当に海上まで行っているのなら、立派な校則違反だ。

 第六時の塔に狙われている当人なのに、ひとりでこっそり抜け出すなんて余程自分の力を過信しているのだろうか。それとも手紙らしきものと時間を気にしていたことから推測するに、第六時の塔に接触するための確信犯か。どちらにせよ優等生が聞いて呆れる。


「あ、そうだ。この辺りからローグハインの魔術が力を失うから、七々子、息ができなくなるかもよ」


 なんてことない様子でペペが告げてきた言葉に、七々子は目を剥いた。

 次の瞬間、口のなかを海水が満たす。塩からい味が口腔に広がる。すぐに水が鼻にも入ってきて、鼓膜まで水圧で圧迫されはじめた。

 息ができない。苦しい。成す術もなく、口のまわりから大きな泡がのぼっていく。

 今にも死にそうな七々子を、ペペは悠然と首だけで振りかえった。先ほどまでの人懐こさが嘘のように、ペペは舌なめずりをしている。

 ローグハインの海域外では魔術馬具の効力も薄れるのだろう。

 境界生物はどれほど愛らしい外見をしていたところで、舐めてかかってはならない。人間とは棲む世界のちがう生き物だ。

 七々子はうっかり気を抜いた自分を罵った。

 境界生物に相対するときは、相手への敬意を欠いてはならない。同時に、自分自身を軽々と冒させてもならない。あくまでも汝とおのれは別の存在であり、その境界線を踏み越えられない相手だと認識させる必要がある。

 七々子はぐっと手綱を引くと、ペペを真っ向から睨みつけた。

 たちまち、ぞわりと鬣がふるえる。なまめかしい恍惚とした吐息がペペから漏れる。

 七々子の目はとくべつだ。

 椿木の血統の魔術師の目は常人には見えない狭間を見ることができる。

 自己と他者の境、生と死の境、聖と俗の境。そしてその切り分けられぬ混濁をも。

 この目に虜になる境界生物は少なくない。それゆえ夜魚は——神代の悪神は七々子のように魔術師として未熟な小娘の言うことを聞いてくれるのだ。


「あーあ。せっかく久しぶりにご馳走にありつけると思ったのに」


 悪びれずに笑って、ペペは海上までひと息に駆け上がった。

 重苦しいほどの水圧がほどけ落ちて、肺腑が酸素で満たされる。

 どうやらなんとかこの愛くるしくも凶悪な水棲馬を従えられたようだ。

 七々子は荒く肩で息をして、だらりとペペに寄りかかった。


「食べちゃいたいくらい愛らしいね、七々子」


 食欲と愛玩動物への憐憫とが混ざったようなこの世ならぬ者の声にふんと鼻を鳴らして、七々子はなんとか声を絞り出す。


「オズマリオンが海面にいるっていうのも嘘?」

「失礼しちゃうなあ。ぼく、嘘はつかないノッグルなんだからね」


 そう言って、ペペは首を巡らせた。

 ペペが馬首を向けた先には、馬影があった。

 ペペよりもよほど大きい黒い水棲馬で、毛並みがいい。ノユだ。

 その背に跨っているのはユーリスだった。カンテラのような灯りを手に提げて、思いつめた顔をして空を見上げている。

 先ほどは遠目で気づかなかったが、黒い燕尾服を着ていた。水棲馬馬術の試合用のユニフォームを着たままだったのだろう。追っかけの女の子たちがやたらと服に気合いを入れていたのは、このせいかもしれない。

 普段からただでさえ嫌味なくらいに貴公子然としているのに、そうしていると文句のつけようがなかった。着られている感がまるでなくて、黙ってさえいれば一幅の絵画かと思うような佇まいだ。

 ユーリスはすぐに七々子に気がついた。

 呆気にとられた様子で七々子を上から下まで眺めると、やがて笑い出すしかないといった調子でくつりと笑った。

 いつもの嘲笑よりは幾分か柔らかく、夜気に声が融けおちる。


「こんなところまで追いかけてくる命知らずがいるとはね。……ずたぼろだな、ツバキ」


 そう言うユーリスは髪の毛ひと筋ほども濡れていなければ、息を乱してもいなかった。この分では海中で水棲馬に喰われかけることもなかったのだろう。

 なんだか魔術師としての格のちがいを見せつけられているようで、気に入らない。

 七々子はすぐにぴんと背筋を伸ばした。


「……うるさい。あなたのやったことは校則違反よ」

「それを言うならきみもだけどね」


 七々子は聴こえなかったふりをした。


「こんな夜にひとりで星でも眺めにきたのかしら。あなたがロマンチストだとは知らなかったわ」

「そういう夜があってもいいだろ。賑やかな祝勝会にあてられてね。ここなら静かに物を考えられる」


 ユーリスは七々子の皮肉に乗っかって肩を竦めた。

 今宵の空は重く雲が垂れ込めていて、とてもではないが星など見えない。海は今にも荒れそうなほど波が高くて、どう考えても物思いに耽るには向かない。いけしゃあしゃあとよく言う。


「……本当のことを言わないなら、先生に報告するわ」

「好きにすればいい。校則破りは学生生活の醍醐味だろ?」


 はったりか本気か分からないことを言って、ユーリスは辺りを慎重に見回す。

 七々子も彼に倣って四方に目配りしてみるが、変わったことはなにもない。

 ユーリスは七々子がここまでつけてきたことにうんざりしたような様子でもあったが、その横顔はどこか安堵しているようにも見えた。

 なにに対する安堵なのかまでは七々子には見当がつかなかったが。


 冷たい風が吹き寄せてきて、七々子はくしゅんとくしゃみをする。

 思いだしたように身体が小刻みに震え出した。

 あまりの事態に気が動転していたが、凍てつくような海水に嬲られたのだ。もう季節は春といえどこんな夜に海水を浴びてそのままでいれば、性質の悪い水棲馬に喰われなくとも低体温症で死ぬ。

 七々子は急いで外套のポケットから杖を取りだそうとするが、手の感覚がなくなりかけていて上手くいかない。


「《五月祭の火に浴せ》」


 七々子の代わりに乾かし呪文を唱えたのはユーリスだった。

 途端、眩いばかりの夏の陽光で満たされ、七々子は目をつむる。冷えきっていた身体に血が巡りだし、朦朧としかけていた意識がはっきりと感覚を取り戻した。


 文字魔術の授業でサルヴァンが嫌がらせをしてきたときにユーリスが七々子を助けるような真似をしたのは、周りの目があって体面を保つためだと思いこめた。

 だが今は水棲馬しか周りにいない。

 彼は七々子と同じ梣隊で助け合わなければならない立場だが、七々子が勝手に死んだとしても鹿角の魔法契約は解かれる。彼が七々子を助けるメリットがなかった。


「……なんで、」

「きみは、素直に礼のひとつも言えないのか?」


 余計なひと言のせいで、舌先まで出かかっていたありがとうの言葉が霧散する。

 だがこれ以上借りを作るのも癪で、七々子は無理やり言葉を捻り出した。


「…………助かったわ」


 ほとんど夜風に掻き消されそうな声だったがユーリスには届いたらしく、彼はまるで天地がひっくり返ったのを目撃したような顔をする。


「……さすがに目の前で死なれたら寝覚めが悪いと思っただけだ。感謝を表してくれるつもりなら、僕への付きまとい行為を今すぐに辞めてほしいものだね」

「それは無理な相談だわ。あなたが今すぐに疑わしい行動を改めるというのなら話は別だけど」


 七々子の返答にすぐさまユーリスは口をひらきかけたが、遠くに稲妻が走って雷鳴が轟いたのを見て首を振った。


「このまま言い合いを続けていればふたりとも海の藻屑になる。帰らないか?」


 問い詰めたいことは山ほどあったが、彼の言うことはもっともで七々子も渋々頷く。

 ユーリスは杖を振って、お節介にも七々子にまで海中で身を守る魔術を掛けようとした。しかし、これ以上監視対象から尻拭いをされるわけにはいかない。

 ただでさえ柊のサロンのメンバーに彼の悪口を並べ立てて同情を誘ったあとにもかかわらず、気まぐれに恩を売られて罰が悪いのだ。魔法薬のせいにできるほど七々子は器用ではなかった。


「《来たれ、神魚》」


 夜魚の纏う影水で身体を覆う。体力的にも魔力の残量的にもうつらうつらとしかけていたが、これはもうほとんど意地だった。

 そんな七々子を見やって、ユーリスは口元に仄かな笑みを乗せると、「きみって底抜けのばかなんだな」と囁く。

 徹頭徹尾悪口のはずなのにその響きはなんだか不快ではなく、返す言葉をもたないまま七々子は海底まで駆け抜けた。

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