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盾の魔女と魔導の杖  作者: 雨谷結子
第三章 魔法学校での日々
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3 文字魔術

 頭が痛い。それに吐き気がする。

 身体の不調を自覚したのは、木曜一限の東洋魔術の授業が終わる頃だった。

 二限の終わりを告げる鐘の音とともに、前列に座っていたユーリスが席を立つ。いつもなら七々子もすぐさま立ち上がって尾行を開始するところだが、今日は成す術もなくその背中を見送る羽目になった。

 ユーリスが次にどの選択授業に出るかはリサーチ済みだ。東洋魔術の授業が始まる前に、彼が取り巻きと一緒に二限の課題の話をしているのが聞こえたのだ。だから慌てて追いかける必要はないのだが、もはやドームを移動する気力もない。


 体調不良の原因は大方理解している。ひとつは単純に魔力消費量が増えたためだろう。毎日ユーリスを尾行するために式神召喚術を酷使して、身体が魔力切れを起こしかけているのだ。

 認めるのは癪だが、瞳子の言うとおり七々子は魔術師としてのスタミナが絶対的に足りない。非魔術師の学校に通っている間は、一日の大半を魔術に関わらずに過ごしてきたのだから当然だ。

 だからといって、非魔術師の存続に関わる大事な任務を放り出すわけにはいかない。石に齧りついてもユーリス・オズマリオンに喰らいつかなければ。


 霞む目を凝らして水棲馬に跨り、目当てのドームを目指す。

 ドームの入り口には、文字魔術というプレートが掛かっていた。髭もじゃのホーエン・ガーグ先生が教える科目だ。その魔術の地味さからさほど人気はないという評判だったが、室内に入ってみれば席はそこそこ埋まっていた。

 ユーリスの取り巻きの姿が多い。どうも彼らのうちの何人かは、ユーリスと同じ授業を受けたいがために授業を選んでいる節がある。もっとも、七々子も人のことを言えた口ではなかったが。


「ここまでくると、ストーカーだよなあ」


 通路を通り過ぎざま聞こえよがしに言ったのは、境界生物学でも見かけた鳶色の髪の同級生だった。ユーリスのすぐ隣に陣取っている。

 いじめっ子の中心的存在なので、名前ももう覚えた。

 サルヴァン・フレン。ユルグで力のある魔術師の名家の子息だ。

 彼の声に、傍にいた女子生徒が「こわーい」と忍び笑う。


 無視して後方の席に腰掛けると、不意にサルヴァンが杖を振って呪文を唱えた。初等課程で学ぶ磁石のように物を引き寄せる呪文だ。

 頭上に影が落ちて、はっとする。まずいと思ったが、気づいたときには七々子は手羽先の骨や野菜くずに塗れていた。

 どうやら生ごみをぶちまけられたらしい。肉の腐ったようなにおいが鼻について、元々気分が悪かったのに拍車が掛かった。

 サルヴァンと周りの何人かがどっと笑い声を上げる。


 くだらない。あまりにもくだらなくて、言い返したりやり返したりする気にもならなかった。魔法界きっての名門校ローグハインの学生が聞いて呆れる。

 七々子は髪にへばりついた玉子の殻を取ると、自分の杖を取りだしてその側面を撫でる。

 魔法の杖は人によって形も大きさも材質も異なるが、普段は万年筆ほどの大きさに小型化されていて使い手が撫でてやると元の大きさに戻る。

 ローグハインの主流であるユルグ魔術は、魔法の杖を媒介にした魔術が大半だ。

 椿木家の式神召喚術は杖を用いない魔術であるが、七々子もひと通りの魔術体系は学んでいて、天原魔法学校に在籍していた頃から自分の杖は持っている。


「《浄めの月よ 浚え》」


 七々子が浄めの呪文を唱えようとしたとき、先に別の誰かが同じ呪文を唱える声が聴こえた。ぱっと清涼な光が弾けて、七々子の身体が清められていく。

 呪文を唱えたのは、信じられないことにユーリスだった。

 靴の踵が床を鳴らす音がして、杖を握りしめたまま固まった手元に翳がかかる。


「使え」


 七々子だけにしか聴こえないほどのちいさな声が落ちて、手元に綺麗にプレスされたハンカチが降ってくる。深いグリーンの地に精緻な刺繍で縫いとめられているのは、オズマリオン家の紋章である竜だ。鼻腔を柑橘系の爽やかな香りが掠めて、束の間気分の悪さが嘘のように掻き消えた。

 浄めの呪文で生ごみの汁やにおいも取れているから必要なかったが、思わず縋るようにハンカチを握りこむ。


「ユーリス、なんでそんなやつ庇うんだよ」


 憤慨した様子でサルヴァンがユーリスに突っかかる。


「庇っているわけじゃない。言ったよな。魔術師の誇りを守るためだとしても魔術師としての品格を損なわないでほしいと」


 状況を飲み込めず、ユーリスとサルヴァンを交互に見つめる。

 サルヴァンが勝手に忖度して嫌がらせをして、ユーリスがそれを咎めたのか。それともユーリスがサルヴァンをけしかけて、それを咎める茶番を演じたのか。

 ユーリスの冷めた横顔からは、本当のところは伺えなかった。


 もっとも、初日に彼が見せた本性を思えば、おそらくは後者だろう。

 彼は表向きは品行方正な優等生を演じたがっている。中等課程の監督生は次の学年の八年生から選ばれるので、問題を起こしたくないのだろう。

 ユーリスがその筆頭候補だという噂はここ数日で何度か聞いていた。

 優等生の立場は捨てられないが、七々子を攻撃したいので忠実な駒を使った。そんなところだろうか。

 トイレと男子寮以外の殆どの場所をつけ回している七々子が言えたことではないが、手下を使って嫌がらせをするとはなかなか性根が腐っている。


 七々子への野次は表向きは影を潜めて、ドームになんとも言えない沈黙が落ちる。

 けれども、授業の開始時刻が迫るにつれて、頭痛と吐き気は悪化の一途を辿っていた。

 なにしろこの吐き気のいちばんの要因は、サルヴァンでもユーリスでも、魔力切れが近いからでもなくこの授業にあると七々子はなかば分かっていた。

 文字魔術。

 ユーリス監視の任務などなければ、生涯好き好んで選択などしないにちがいない科目だ。


 やがて、ガーグ先生が時間ぴったりに講義室に現れた。

 ガーグ先生はつぶらなまなこを瞼の皺に埋もれさせた小柄な先生で、アルコールのためにか手指が絶えず震えている。


「皆、課題はやってきたかね?」


 ガーグ先生の声は壊れたスピーカーのように大きく、酒焼けしたようにしわがれていた。その場にいた生徒みんなが顔を顰める。


「はい、ガーグ先生」


 生徒たちが答えると、ガーグ先生はふぉっふぉと満足げに微笑む。

 ガーグ先生は万年筆を摘まむと、羊皮紙にさらさらと文字を書きつけた。途端、文字が宙にぱっと浮かび上がる。ガタガタと手が震えていたわりに、文字は芸術的なまでにうつくしかった。

 古北方文字だ。文字がいくつもいくつも浮かび上がってガーグ先生の周りを乱舞する。

 その様は傍目には神秘的ですらあって、わっと感嘆の声がそこここから上がった。


 対照的に七々子の額にはじっとりと脂汗が滲む。

 まるで手負いの獣のように荒く息が乱れはじめたのと同時に、骨火の明かりが掻き消えた。

 魔術文字が強制的に夜を招き、光を消し去ったのだ。

 ガーグ先生の顔どころか、傍に座っている生徒の輪郭も辿れないほどの濃い闇がすっぽりと帳を下ろす。


「ユーリス。魔術文字を使って、明かりをつけてみやれぃ!」


 静まりかえった室内に、ガーグ先生の声がわんわんと反響する。


「分かりました」


 ユーリスが勿体つけた調子でそう言ったかと思うと、さらさらとペンを書きつける音が響く。

 ひとつ文字が浮かぶと、周囲の闇が俄かに滲み、ふたつ文字が浮かぶと夜色の硝子が割れたかのように微かな光が射し込んだ。

 古北方文字は二十四字あるが、この『カヌ』は火を象徴する魔術文字だ。鳥の群れのように文字が次々に踊り、講義室に光が戻る。


「さすがじゃ、ユーリス。ほれ、皆拍手せいっ!」


 ガーグ先生の大声に負けじと、生徒たちから割れんばかりの喝采が送られる。

 無数の『カヌ』の文字たちはまだ消えずにユーリスを取り巻いていた。先ほどまで闇のなかで白く発光していた文字は、今は青黒く艶やかな輝きを纏っている。


 文字魔術。文字そのものに宿った力を利用する、洋の東西を問わないいにしえからの魔術体系だ。文字への深い理解が要求され、長い歴史を見渡してもこの魔術を極めた魔術師の数はごく少数だと言われる。だが文字自体の力を利用するだけあって術者の負担は少なくして大魔術を行使できるというのが、魔術評論家たちの専らの言い分だった。


 いよいよ七々子の視界は白黒に明滅し始める。

 吐き気が限界まで込み上げてきて、七々子はこっそりと立ち上がった——つもりだったが、盛大に椅子をひっくり返した。

 がしゃーんという音がドーム中に響きわたって、目という目が七々子を向く。

 遅れて、ガーグ先生が驚いたように七々子を見つめた。


 七々子はユーリスのハンカチに口元を埋めて、あるかなきかの声で「体調が悪いので医務室に行きます」と早口に言った。

 先ほど嗅いだのと同じすっとしたにおいが、意識を清めるように柔らかく香る。天敵の持ち物だが、今はこの香りに助けられた。

 七々子はガーグ先生の返事も待たずに足早にドームを出る。

 講義室の内側から誰のものとも知れない嘲笑が追いかけてくる。

 七々子は二度、三度と咳き込むと、息だか胃液だか分からないものを海のなかに吐き出した。

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