その6
月鏡が気づいたとき、視界の前に真っ白な天井が現れた。まだ頭はボンヤリしており、全身の感覚がない。まるで自分の体ではないようだ。何処か遠くの方で誰かが話しているような声が聞こえる。言葉までは分からないが、何人かの声が入り交じっているようでとりあえず慌ただしい様子であることが窺えた。
…俺は一体何処に誰と居たんだっけ?月鏡は順繰りに記憶を辿ろうとしたが、如何せん頭がうまく働かず、どんなに頑張って思い出そうとしても全てが曖昧である。これは夢か?もう一度目を閉じれば元に戻るのだろうか。
月鏡がただ天井を眺めていると突然視界に二つの影が写り混んできた。一人は白髪の老婆のようでもう一人は頭の禿げ上がったお爺さんのようだ。よく見ると二人共顔をクシャクシャにして泣いているようである。ええと…ところでこの二人は…誰だ?
「まさひで!!!」
白髪の老婆が確かな声で月鏡の名前を呼んだ。呼んだというよりも叫んだ感じだ。同時にお爺さんの方も月鏡の名前を繰り返すように叫ぶ。
何なんだ…一体。そんなに叫ばなくても聞こえているし、自分の名前くらいは覚えている。月鏡が自分の名前を呼び続ける二人に対して口を開こうとしたとき、全身に痺れるような激痛が走った。余りの痛みに耐えられず月鏡の表情が大きく歪んだ。
これを見た二人が顔を見合せ、慌てて誰かを呼び寄せた。少しの間を置いてから月鏡の視界に影がもう二つ増える。一人は眼鏡を掛けている白衣姿の年配男性。もう一人は若い女性のようだった。此方も白衣らしきユニフォームを着ているように見える。どうやら医師と看護師らしい。ということは此処は病院だろうか。
「月鏡優秀さん、聞こえますか?もし貴方のお名前が分かるなら声を出さず口を動かしてみてください」
医師らしき年配男性はハッキリした声で月鏡に話し掛けた。月鏡は医師の言葉通りに口パクで「聞こえる」と答えた。月鏡の反応に周りの人間がどっと沸いた。先の二人の老婆とお爺さんは互いに抱き合って涙を流している。「良かった良かった」という言葉から彼等は喜び合っているらしい。この二人の様子から察するに二人は夫婦で月鏡の家族か親族関係のようだ。
「月鏡さん、この度は大変な目に遭いましたね。現在の状態はとにかく目を覚ましてくれて本当に良かった。あのまま植物状態になってもおかしくないくらい深刻な状況でしたから」
医師が月鏡に自身の容態について告げる。其処から月鏡は自分の身に何が起こったのか、徐々に記憶が甦ってきた。
月鏡が思い出したのは同僚の北條とその日出迎えたアレックス・ローと一緒にカフェに居たこと。そして先に会社へ戻る北條を見送った後、ローと一緒にカフェ隣の公園へと向かおうとしたこと。そしてカフェを出た直後に背後に起きた爆発に巻き込まれ吹き飛ばされたこと。次に気づいたときには既に此処に居たことだった。
「ご記憶が定かではないかもしれませんが、貴方は1ヶ月前のテロ事件に巻き込まれたのです。あの事件では多数の死傷者が出て、貴方もまた生死の境をさ迷っておられた。命を取り留めただけでも不幸中の幸いだったのですが、意識も取り戻されたのは奇跡的です。我々としても本当にホッとしている状況です」
医師が矢継ぎ早に月鏡に現状を説明するが、まだ頭がボンヤリしている月鏡には理解が追い付かない。確か医師の言葉によると自分はテロ事件に巻き込まれた。それも「1ヶ月前」だと!?まさか1ヶ月もの間自分は意識を失っていたというのか??
月鏡の頭の回りを無数のクエスチョンマークが飛び交う。月鏡の混乱具合を見た医師は慌てて説明を辞めた。これ以上混乱させることは重傷の体には良くないと判断したか。
「お目覚めのところ混乱させてしまい、大変失礼しました月鏡さん。まずはしっかりと休まれてください。色々と落ち着いたら改めてご説明させていただきます。ご両親も息子さんの意識が戻られて本当に良かったです。ただ長い間の看病でお疲れのようですからあまりご無理をなさらないように」
医師は先程の老夫婦に労いの言葉を掛けると月鏡の視界から消えた。医師に向かって頭を下げた老夫婦は未だに顔をクシャクシャにして泣き合っている。
…そうだ思い出した、彼等は俺の父母だ。そうかテロ事件に遭って入院した俺をずっと見舞ってくれていたのか。命が助かったとはいえ、老いた両親をここまで心配させてしまった。そう考えると月鏡は途端に情けなくて泣きたい気分に駆られた。しかしいくら泣こうとしても声は激痛で出せず、ただ喜び合って泣く両親の姿を眺め目を潤ませるだけしか出来なかった。
ところで…彼の方は果たして無事だったのだろうか。月鏡はあの日、自分と一緒にカフェを出たローのことを思い出していた。彼もまた今回のテロ事件に巻き込まれたはず。回復したらまず彼と話したい。もし彼が生きてくれていたらの話だが。月鏡は天井を見ながらボンヤリと考えていた。