その2
北條と別れた月鏡が一人フラリと入ったのは飲み屋街の外れにある小さな隠れ家のようなバーだった。一見分かりにくい入口を通ると、数人ほど掛けると満席になりそうなバーカウンターが月鏡を待ち構えていた。店内は閑散としており、他に客らしき者はいない。カウンターの中にはスキンヘッドに髭面のマスターが黙々と酒やら料理やらを準備している。店内の照明はやたらと薄暗く、カウンターの奥の方となると座っている人の顔がほとんど把握できないくらいだ。
月鏡はカウンターの真ん中辺りに座った。ちょうど作業しているマスターの前になる。マスターは月鏡の顔を一瞥すると無言で小さなメニューを差し出した。月鏡もまた無言でメニューにあるオススメのカクテルを指差して注文した。マスターがカクテルを作っている間、月鏡は徐ろにスマホを取り出していじり出した。
「今日は特別に冷える。マスター、温まる酒でもいただこうか」
突然、不意打ちのような声が月鏡の隣から聞こえてきた。月鏡は驚いて隣の席の方を向いた。いつの間にか隣にはロングコートを着た痩せ型の中年男性が座っていた。白髪交じりの頭に顔には深く刻まれたシワが目立つ。目は起きているのか眠っているのか分からないくらい細い。月鏡は急いで反対側の席の方も見るが、このロングコートの男性以外には店内に客は居なかった。
月鏡は眉をひそめた。こんなに席は空いてるはずなのにわざわざ隣に座るとは…。別に問題はないのだが、何となく月鏡は居心地が悪くなった。そんな月鏡の様子を察することなく、マスターは隣のロングコートの男性の注文を先に出した。
「久しぶりですね、貴方が此処に来るなんて」
「仕事の都合でたまたまね。業務中に酒を飲むのは良くないが、これくらいは目を瞑ってくれ」
ロングコートの男性はマスターと顔見知りらしい。二人は月鏡のことを脇に置いて世間話を始めた。普段であれば別に気にしないが、他愛もないやり取りを隣で延々と、しかも自分の注文を放ったらかしで話し続けることに対して月鏡は次第にイライラしてきた。さすがに10分近く話し続ける二人に対して月鏡はわざとらしい咳払いをした。驚いた二人が同時に月鏡を見る。
「…俺のカクテル…」
月鏡はボソッとマスターに聞こえるように呟く。するとマスターはようやく話を止めて手を動かし出した。そしてものの一分足らずでカクテルは出来上がり、月鏡の前に置かれた。若干マスターの顔が不機嫌そうに見えたのは気のせいか。月鏡の注文を終えるとマスターは再び隣のロングコートの男性と話を続ける。
不愉快なのは此方の方だ。と月鏡は口に出掛かったが、何とか抑えた。このままこの店に居てもゆっくり出来なさそうだと感じた月鏡はカクテルを急いで飲み干すとマスターに向かってお勘定を頼んだ。マスターは渋々レジスタに向かうと月鏡から代金を受け取り、「またどうぞ」と感情のこもっていない挨拶を月鏡に投げた。
こんなとこ二度と来るもんか。月鏡が吐き捨てるように呟こうとしたとき、ロングコートの男性が月鏡を制した。ロングコートの男性はマスターとは対照的にニコニコしながら月鏡を見ている。しかし元々目が細いので本当に笑っているのかも怪しい。月鏡が警戒しているとロングコートの男性が懐から何やら黒い手帳のようなものを取り出した。そして手帳を開くと月鏡の前に差し出した。
「私こういう者です。私のせいで気分を害されたなら申し訳ない。一杯奢るので少しお話してもいいですかな?」
「………これって…」
月鏡は男性の差し出した手帳の文字を見て固まった。そこには「警視庁公安部」とあり、その横には達筆な文字で「真一文字将伍」と書かれていた。月鏡は驚いてロングコートの男性を見ると男性は月鏡に元いた席に座るように促している。そしてマスターにオススメのカクテルを一杯注文した。
「…どうして公安の方が…??一体俺に何の用が…?」
「貴方に用が無くても私にはあるのです。よろしいですか?月鏡さん」
ロングコートの男性こと真一文字の只ならぬ雰囲気と言葉に圧倒され、月鏡は思わず席に再びついた。




