刃蛇
あれは一年前の話でしたね。
当時のわたしは、ただただ安寧の地を求めてなりませんでした。
お金や権力に固執し、内部崩壊するあの王宮から逃げ出して。
大賢者だなんだと持て囃されても、わたしの本質はなんら変わらない。
わたしは自由と、何より未知を求めていました。
そしてわたしは、滅びの森へと足を踏み入れました。
過去に一度だけ、英雄とも称された大剣豪が命辛々生還したとされる禁忌の森。
そんな場所なだけに、誰も近づけない。
それにまだ見ぬ魔物に、開拓されていない未開の土地。
これでわくわくしないはずがありません。
しかし、現実はそう甘いものではありませんでした。
「キシャアァァァァッ!!」
「くぅっ……!」
森に入ってすぐに襲撃を受けます。
それは人など容易く丸呑みにできるであろう、大口を開いた大蛇でした。
咄嗟に結界を貼りましたが、流石にこの重量を持ち堪えるのは出来ず、僅かに時間を稼ぐだけで崩壊してしまいます。
「でも、これでっ!」
しかし大賢者とは名ばかりではありません。
結界で稼いだ時間を使い、力を貯めた一撃をぶつけます。
それは風を圧縮し、大砲のように打ち出したもの。
その威力は大岩を粉々に砕く程です。
とてもではありませんが、生物がこれを耐えることはできません。
その時のわたしは、浅はかにもそう思い込んでいました。
「嘘、ですよね?」
完全に胴体を捉えたその一撃は、鱗の隙間から飛び出した無数の刃によって霧散しました。
その事実に、わたしの常識は儚くも崩れ去りました。
それと同時に、どうしようもない命の危機を感じました。
酷く今更ですが、きっと心のどこかで慢心していたのでしょう。
実力が拮抗することはあっても、負け知らずの人生でした。
それがわたし基準の常識を築き、初めて格上の存在と相対することで気づかされた。
わたしも、所詮は一人の人間に過ぎないのだと。
大賢者というのも、人間という枠組みの中で頭一つ抜けていただけだったということ。
しかし気づくのが遅過ぎました。
初心に帰り、慎重に行動するべきでした。
そうでなくとも、反撃するのではなく逃げの一手を打つべきだったと。
大蛇が身を捻り、再びその大口を開き襲いかかってきます。
ですが、わたしの足は動きませんでした。
それは恐怖という、長らく忘れていた感情。
そのあまりにも久しい感情に、身体はついていきませんでした。
これも、日頃の慢心が生んだ結果。
責めるべきは挑戦することを辞めた自分。
先人たちの術を網羅し、それで満足だと歩みを止め、その先を見ようとしなかった怠慢。
その全てが、今のこの結果でした。
「シャアァァァァッ!!」
目の前にはすでに開かれた口がありました。
毒が牙から垂れているのがよく見えます。
せめて、苦痛なく死ねたら。
そう、思った時でした。
「よっと」
あまりにも軽い、そこに段差があったから飛び越えた程度の調子で、その男は大蛇を蹴り飛ばしていました。
「ふぅ〜、今日のご飯ゲットっと。うわっ、これあいつの毒か!?汚ねえなあ、この前洗ったばっかりだって言うのに。もう一回洗わないといけないかこれは?しっかし、もうちょっと考えてからの方が良かったかもしれんなあ。うむ、反省反省」
その男は、さもこれが当たり前のような態度だった。
わたしが防戦一方だった相手を、たったの一撃で、それもただの蹴りで倒して見せた。
その事実が信じられなくて、否定したくて、でも体は正直でした。
安心してしまったのでしょう。
全身の力が抜け、膝から崩れ落ちてしまいます。
そうしてただ、何も考えられずに呆然とその男のことを眺めていると、不意に目が合いました。
男は人がいるとは思ってもいなかったのか、取り乱し始めます。
普通は逆なのでは、と思ってしまったのですが、それが妙に面白くて笑ってしまいました。
世界は広い。
自分という存在は、まだまだちっぽけな存在のままなんだと思い知らされました。
そして、わたしは強くなるために男に着いて行くことにしました。
それからわたしは、男のことを博士と呼び慕い、日々の研鑽を積み今のわたしがいるのです。
「ほれ、出来たぞ〜」
「ありがとうございます。やっぱり、これが一番ですね」
「そうだな。なんだかんだ言って、美味いのはこれだよな」
そう言って博士は、フォークを肉に突き刺します。
その身は柔らかく、しかし弾力性があり噛みごたえがあります。
脂も少なく、臭みもないことから爽やかな味わいを堪能できます。
ただ火を通すだけで、それは最早一つの料理と言える完成された食材。
それが、刃蛇の肉。
毎度毎度、これを見る度に思い出します。
博士と出会った日のことを。
昔は刃蛇を倒すのに死闘を繰り広げていましたが、今では瞬殺です。
そう考えると、やはり感慨深いものですね。
しかし、先はまだまだです。
博士の隣に並び立てるように、もっともっと強くならないといけません。
「そう言えばルールーも、最初は無理だったよな、これ」
「最初から食べられる人間なんていませんよ。恐らく魔人にも。でも今ではこうして美味しく食べられているのですから、いいじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどな。でもルールーって名前も、無理無理って何回も言うから、それにちなんで付けたんだっけな。今じゃあすっかりこのお肉の虜ってな。この際だし、改名でもするか?なんか不名誉じゃね?」
「いえ、いいですよ。もうそれで馴染んじゃってますし」
「だよな。今更って感じだし。よし、じゃあ冷めない内にさっさと食べようぜ」
「はい」
博士はわたしの素性に関してあまり深く立ち入りません。
それはわたしも同じですが。
博士が勝手に付けたルールーという偽名を名乗っているのですが、今の改名の話でも昔の名を尋ねてはこられませんでした。
博士も昔のこと、前世の記憶とやらも含めて思い出したくないらしいのです。
わたしもこの関係が崩れるのは嫌ですし、何より身分を隠しておかないといつどこで面倒な目に遭うかわかないので、非常に有難いのです。
ですが、それが心の壁にもなっています。
いつの日か、お互い全てを話せるようになれたらいいなと熟熟思います。
そうして全部を吐き出した時、やっとわたしは言えるのかもしれません。
「う〜んっ、やっぱり美味しいわこれ」
あなたのことが、好きだと。
「うん、美味しい」
命の恩人というだけではありません。
博士のおかげで、わたしは違う自分になれた。
大袈裟に言っているかもしれませんが、それでも博士と出会ってわたしは変わった。
当初求めていた自由を得て、安寧の地も手に入った。
こうして二人食卓を囲んでいるだけでも、わたしの胸は満たされた。
ただ単純に、対等に話し合える存在が欲しかっただけだったのかもしれません。
でもわたしは、それを理由にはしたくありません。
博士とはまだ出会って一年しか経っていません。
でも毎日が楽しくて、博士が馬鹿してそれをわたしが手助けして。
そんな日々が、今では大事で愛おしい。
「あ、もうなくなっちゃった。美味しいものは減るのも早いし、気付かないもんだよなあ」
「でもおかわりはあるのですよね?」
「勿論だとも!まあ、あれを一日で消費できるかっていうと物量的に無理だろ」
「まあ、そうですよね」
命ある限り明日は訪れる。
わたしは、この日々をかけがえのないものとして記録し続けるでしょう。
たとえ、この想いを告げられずとも。
「じゃあおかわり注いできますね」
「いいのか?」
「わたしも丁度なくなったので」
「じゃあ、お願いしよっかな」
「はい、承りました」
ただ、この日々を楽しく過ごせるのであれば、それでわたしは幸せです。
そう、幸せなのです。
刃蛇:大蛇と言って差し支えない大きさをしているが、一番の特徴は大きさではなく鱗の下にあら刃にあり、その様から刃蛇と呼ばれる。
鱗を上下することで刃を出すのだが、その刃は万物を切り刻み、魔法を分解する性能を持つ。
鱗の一枚一枚に刃があるため、無闇に近づけばすぐにその体を切断されることとなる災害級の魔物。
全身に備わった刃だけでなく、牙には大量の猛毒を仕込んでいるため、刃が通用せずとも獲物を仕留めることができる。
討伐するとなれば、数十人規模の大魔法であれば仕留めることが可能。
尚、剣などの近接武器での討伐は不可能に近く危険である。
刃蛇の肉は高級牛よりも高値がつく。
毒は閃光蜂と比べるとやや弱めであるが、一度にとれる量が多いため毒矢などに使われることが多い。