まず名前から
その女の人は、やっぱり困ったような顔をすると、椅子と思われるものから、ごみを床に払い落とした。
「ここに座るといい」
更紗がそこに座ろうとすると足もとで何かがバキッといったが、聞かなかったことにした。とりあえず、椅子の上には何もない。更紗はそこによじ登った。
女の人は、もう一つ隠れていた椅子を引っ張り出して座ると、いきなりこう言った。
「お前、招かれ人か」
「まねかれびと?」
更紗は首を傾げた。女神はそんなことは言っていなかった。というか、そもそもたいしたことは言っていなかった。
「魔力を吸収する体質だということと、この世界に体を合わせるということと、それだけ言われて」
「この世界。魔力を吸収。やはり招かれ人か。道理でな」
道理といわれても、更紗はよくわからず途方に暮れた。
「招かれ人は時々来るんだ。お前のように突然現れる。年齢はまちまちだが、たいてい若い。魔力を吸収し、その魔力を無限に使えるからハンターとして活躍しているな。引っ張りだこだぞ」
「ハンター。無理です」
ハンターということは狩りをする人なのだろう。更紗は首を横に振った。自分には狩りをするなど無理なことだ。
「だろうな。さっきも戦うことより食べられることを選んでいたしな」
女の人は腕を組んで天井のほうを見上げた。
「女なら貴族に嫁ぐこともできる。大きな屋敷でそれは大切に守られて暮らすらしいが」
「それもいやです。せっかく疲れずに暮らせる世界に来たのに」
いきなり違う世界に放り込まれ、空気清浄機でいいからと言われても、何をしていいかなど決められるわけがない。だが、現に疲れてもおらず、だるくもない。せっかく動けるようになったのだから、活動的に暮らしたいではないか。
「もう一度聞く。お前、今苦しくないか」
元気がなくなっていた更紗に、女の人が改めて確認するように問いかけた。
「苦しくはないです。今までにないくらい、元気です」
「ふむ。圧迫感もないか」
「ないです」
何が聞きたいのだろうかと更紗は思った。あえて言うなら、散らかりすぎて部屋の居心地は悪いが。
「よし」
何がいいのか、女の人は大きく頷くと立ち上がった。
「いずれにせよ、いくら悩んでも、しばらくここからは出られない」
「出られない?」
更紗はあっけにとられた。
「お前も見ただろう。ここは北の魔の山だ。ワイバーンが飛び、大鹿が群れ、高山オオカミが走り回る。大人の足で近くの町まで三日。私なら丸一日でたどり着けるが、子連れでは無理だ」
更紗の見たあれは、鷲でも鷹でもなくワイバーンだったのだ。ということは、あの鹿もきっとただの鹿ではないんだな。更紗は若干気が遠くなる思いだった。
しかし、無情にも女の人は話を続けた。
「つまり」
「つまり?」
「お前が強くなるまで、この小屋付近からは離れられないということだな」
異世界に来たけれど、不潔な小屋に、この人とずっと二人きりということだ。
更紗は軽く絶望しかけた。
しかし立ち直った。
少なくとも、女の人だし。しかも、親切だ。不潔だが。
「私はネフェ、いや、ネリー。ネリーと呼んでくれ」
その人は、ほんのわずか口の端を上げると、更紗に右手を差し出した。
「更紗といいます。一ノ蔵更紗」
「イチノーク・ラサーラサか。珍しい名前だな。イチノークと呼べばいいか」
「いえ、サラサで」
「サラだな」
更紗のことをサラと呼んだのはこの人が初めてだ。なぜ短くする必要があるのか。友達はみんなさらさと呼んでいた。でも、それもいいかもしれない。新しい人生だし。しかし、更紗は知らない人を呼び捨てにすることには抵抗を感じた。
更紗はネリーと呼んでくれといった人を見上げた。大きい。たぶん一七〇㎝以上はある。そして地球の更紗と同じくらいの年に感じた。つまり二〇代半ばから後半だ。
「ネリー?」
頑張って呼び捨てにし、おずおずと手を差し出すと、その手はネリーにがっちりと握られた。なぜかネリーは一瞬苦しそうに目を閉じた。
「ネリー、か」
図々しかっただろうか。
「いい」
いいんだ。ネリーは目を開けると、今度こそニコっと笑った。
今まで髪と目の色にしか目が行っていなかった更紗は驚いた。
本当にきれいな人だ。
「私はハンターだ。魔の山の管理人をしている」
「はい。しばらくよろしくお願いします」
魔の山が何かは分からなかったが、こうして更紗の異世界生活は始まった。
朝6時更新です!
(追記11日9時:朝のランキングに顔を出していたので、今日はオマケにもう一話投稿しています)