行きたい
サラ、とかけられた声に、急ぎ足が駆け足に変わる。
「ネリー! どうしたの?」
連絡もなしに現れたネリーに驚いて声を掛けつつも、すぐに飛びついてぎゅっと抱きしめた。背中に回されたネリーの手の温かさが心地いい。
「ちょっとクリスの都合でな」
「クリスの?」
ネリーに抱き着いたまま首を横に回すと、クリスは当たり前のような顔で隣に立っていた。
「この間以来だな。三人とも元気そうだ」
振り返ると、アレンとクンツがここにいるよと言うように右手を挙げる。
「クリスの都合ってなんですか? ネリーはギルドはいいの?」
矢継ぎ早に尋ねるサラに、ネリーとクリスは顔を見合せた。どちらが話すか迷っているようだったが、結局クリスが口を開いた。
「ちょっと込み入った話になるから、夕食後に落ち着いて話そうか」
少し困ったような顔でクリスがそう言うのなら、本当に込み入った話なのだろう。
それでも皆そろった夕食時には、アンやエルムも一緒にネリーとクリスの近況を聞き、楽しいひと時を過ごすことができた。
ハルトは今日も来なかったということは、やはりブラッドリーと過ごしているのだろう。
「私も参加していいんでしょうか」
夕食後のお茶の時間に、遠慮するアンに、全員の視線が集まった。
「アンは家族みたいなものだろ。俺は家族じゃないけど、遠慮なく参加するぜ」
「俺もでーす」
アレンだけでなく、クンツも最近は遠慮をしなくなった。
「じゃあここに」
アンは嬉しそうな顔でサラの隣に椅子を寄せて座る。
「それで、連絡もなしに、いったいどうしたんだ?」
エルムが椅子の背もたれにゆったりと寄りかかりながら問いかけた。
「ああ。まずはこれを見てほしい」
クリスが収納ポーチから取り出した厚みのある封筒を見て、サラはドキッとした。サラももらったことがある、断れない感じの指名依頼の時の紙だ。
「ふむ」
エルムが受け取って、開いた手紙に目を通した途端、眉間にしわが寄る。
「これは……。いったいどういうことだろう」
エルムから回された手紙に、サラもアンと一緒に急いで目を通す。
クリスへの賞賛ばかりで、とても読みにくいが、要するにこれだ。
「ローザから。クリスを薬師ギルドのギルド長に。でも、なんでいまさら?」
驚きながらも、今度はアレンに手紙を回すサラである。
「クリスは、ローザのギルド長を辞めてきたんだよな?」
アレンもクンツと頭を並べて手紙に目を通した後、クリスに確認している。
「その通りだ。だから私も困惑しているのだが……」
手紙を返されたクリスは、珍しく戸惑ったように手紙をトントンと指で叩いた。
「テッドがローザの町長になったことは知っていたし、サインがローザの町長のもので、テッドの名前になっているから、出してきたのはテッドだろうとはわかるが」
テッドの名前が三回も出てきたところからも、クリスの困惑具合がわかるというものだ。
「副ギルド長が、いや、現ギルド長が都合により退職したとかなら、一時的に私に戻ってほしいということなのだと納得もするのだが、そんな話はどこにも書いていないし。個人的にでも事情を説明してあればいいのだが、書いてあるのは私に対する賞賛ばかりで、何の役にもたたん」
手紙を叩く指の動きが次第にイライラしたものになってくる。
「基本的には断るつもりなのだが、ハイドレンジアはローザからあまりにも遠すぎる。せめて情報なりともと思い、とりあえず王都までやってきたのだ」
「それはまた、ご苦労なことだな」
エルムの一言には、いろいろな思いが詰まっているように聞こえた。
でも、サラも同じように感じる。
そもそも、クリスなら、断りたいと思えば即座に断るはずだ。
わざわざ王都にまで情報を集めに来たということは、少なからぬ興味があるということだろう。
だが、いろいろなもやもやは、アレンの一言でまとめられてしまった。
「クリス、そんなにテッドのことが心配か?」
「やはり、わかるか」
トントンと手紙を叩く手が止まった。
「ローザは私にとっても思い出深い土地だが、その思い出は必ずしもよいものではない」
珍しく始まったクリスの自分語りに、サラはえっと思い顔を上げた。
テッド本人が弟子として面倒くさかったという話は聞いたことがあったが、そういえばクリスがギルド長をやっていた時の思いは一度も聞いたことがなかったことに気づいたのだ。
「サラもアレンもわかっているだろうが、ローザは町長をはじめ、昔から住んでいた者たちの力が強く、新参者は敵視されがちな町だ。ネフを追って半ば強引に押しかけた私が、いくら元王都のギルド長だったとしても、歓迎されなかったのはわかるだろう」
「ええと、わからないかも。だって、どの薬師もクリスのことを尊敬してましたよね」
思わずそんな言葉が口をついて出たのは、サラとクリスでは立場が違いすぎると思ったからだ。
サラがローザの町で過ごしていた時、クリスのことを悪く言っている人を見たことがない。誰もが敬意を払い、誰もが慕っている、そして熱狂的な信者さえいる、それがクリスだった。
「町の人が排他的だと言われれば、はい、その通りだと思いますが、クリスは私とは立場が違いすぎるから。まさかクリスにも苦しい時代があったとは思わなくて」
サラは誤解されないように言い直した。
「そう見えていたか。だが、薬師ギルドがしたことを考えれば、サラにとって私はローザの町そのものだったかもしれないな」
確かにその通りで、ローザの件では、サラはクリスに優しい気持ちになれそうもない。
「別に私がギルド長の座を奪うつもりだったわけではないが、結果的に私の力量に負けた形で、前のギルド長は引退してしまった」
「実際、かなりのお年で、引退してもおかしくはなかったことは確かだ」
前薬師ギルド長のことを知っているらしいネリーが一言説明を添えてくれた。
「薬師として、またギルド長として、やるべきことはやっていたはずだが、自由な気質であることは自分でも理解している。おそらくだいぶ迷惑をかけていたし、嫌われていた面もあったと思う。だからこそ、そんな状況の中で、テッドの盲信は面倒だが救われた時もあるのだ」
説明が少し遠回りになったが、要するに、決して楽ではなかったローザ時代に、クリスを慕うテッドの存在が救いになっていた面もあるということだ。
「本当にテッドが困っているのなら、ローザのために協力することはやぶさかではない。だが、あのテッドのことだ。自分がやりたいと思うことを周りの迷惑を顧みずに突っ走り、敵を作っているのではないかと気になってな」
それはクリスのことではないですかと突っ込みそうになって初めて、テッドとクリスがどこか似ているのだということに気がついたサラである。
「断るにしても、王都で情報を集め、実際にローザに行ってから決めてもいいのではないかという結論に達した」
それを聞いたサラは、ネリーのほうに心配そうに目線を移した。
ネリーはかすかに笑みを浮かべた。
「私か?」
「うん。ネリーはハイドレンジアのハンターギルドの副ギルド長でしょ? クリスの気持ちは分かったけど、ネリーはどうするの?」
いつも一緒だったネリーは、サラが王都に来るときに付いてきてはくれなかった。それは、ネリーが副ギルド長という仕事に責任を感じていたからだ。
「副ギルド長は、辞めてきた」
あっさりと出た言葉に、部屋がしん、と静まり返った。
「ええー!」
叫んだのはサラだが、他の面々も同じ気持ちだったことだろう。
「副ギルド長になってもう四年だ。タイリクリクガメが出てきたり、ダンジョンに新しい層が現れたりと、平穏ではなかったが、そんな大変な時期にザッカリーの助けになれたことは、我ながらよかったと思うよ」
最近のネリーが忙しかったのは、深層階が新しく増えたせいであるのは確かだ。
「だが、父様と兄様の頑張りもあって、ハイドレンジアの町も、ハンター向けに整備されてきたし、若いハンターもだいぶ育ってきた。私の後に副ギルド長になれそうな奴も何人もいる」
そうかもしれないけれど、でも突然だ。
「なにより、人の上に立つことには私は向いていなかったよ」
クスッと笑うネリーに、違うとは言えないサラである。
「クリスはね、私とサラの旅にずっと付き添ってくれただろう。もちろんアレンもだし、途中からはクンツもだな」
「俺はクリスよりもずっと前からだ」
「そうだな。弟子だしな」
自己主張するアレンにも、ネリーは優しい目を向けた。
「だから今度は、私がクリスの旅に付き添う番だ」
「すまないな、ネフ」
「それは違うと何度も言っているだろう」
「そうだな。ありがとう」
そんな言葉をやり取りする二人に、サラは目頭が熱くなる。
ネリーを追いかけ続けていたクリスがやっと報われた、そんな気がしたからだ。
「つまり、クリスとネリーは結局のところ、ローザに行くってことなんだよな?」
二人の話をアレンが一言でまとめてしまった。
「そうだ」
「その通りだ」
クリスとネリーは重々しく頷く。
ネリーがローザに行く。
クリスもだが。
その事実がサラの頭に、ゆっくりと浸み込んできた。
見上げれば高い空に、横切るのはワイバーンの影、視線を下げれば緩やかな丘に、高山オオカミが寝転び、スライムがうごめき、薬草があちこちに生えている。
「私も」
思わずこぼれ出た言葉は、自分でも止められない。
「私も行きたい。魔の山に」