アンとツノウサギ
「あああ、峠の植生をもっとゆっくりと見たかった」
ついに山を越えたというのに、サラの心は山道に残ったままだ。
「どうせ見えるところはワタヒツジが食べつくしてたじゃないか。前を見ようぜ」
「そうだね。王都方面にも伝言を出したから、気が緩んじゃったかも」
気が緩んだせいで薬師としての好奇心が爆発してしまったと言える。
身体強化の訓練も兼ねて、山道を飛ぶように走ってきた一行は、西側の山の登り口で、どうしたらいいかと戸惑う定期便の馬車を見つけた。
無事な様子を見ると、ワタヒツジとの遭遇はさけられたらしい。
ちなみに、ワタヒツジの足跡は北の、人の少ない方向に向かっていたので一安心だ。
「徒歩では行けるが、馬車が通るのは無理だ。王都へ戻って連絡を入れてほしい」
エルムの要請に、定期便の御者は渋々と応じた。
「山を越えさえすれば、領主が人を手配しているはずだ。どうしてもガーディニアに行きたい人は、歩いていくしかないな」
山のふもとから王都まで、馬車でも一週間以上かかる距離だ。戻って、山道が整備されるのを待つか、ガーディニア行きを強行するか。
少しの話し合いの結果、馬車は王都へと戻っていった。途中で会った定期便の人たちには順次伝えてもらう予定だ。
「俺たちのほうが先に着くはずだから、タウンハウスへの連絡はその時にするとして」
少しでも早く動いたほうがいいのは確かだから、そのためにできることはする。ただし、余計なおせっかいまではしない。
「では、ここで野営をするか。野営をして、明日は一番近くの町へ報告してから王都に向かおう」
「アンにもフレイムバットを見せたかったなあ」
「いるぞ? この山脈沿いにはたいていいる」
ここにもフレイムバットはいるらしい。
「フレイムバットは初陣には向かないからな。明日は、ツノウサギを探しながら行くぞ」
「え? ツノウサギ? 初陣には全然向いてなくないですか?」
サラの驚きはさらりと流された。どうやらアンの特訓はまだまだ続きそうである。
王都は、トリルガイア西側の中央部にあり、中央部は魔物が少なく、東の山脈に近づくと魔物は増えていく。とはいえ、ローザと魔の山の間の草原ほど魔物がいるわけではなく、街道を通れば旅は安全である。
「でも、安全なはずの街道を通らない旅人もいる。それが私たち」
春先なので、草の背は低く、草原も歩きやすい。だが、農業地帯でもないそんなところを歩けば、やはりツノウサギも獲物を狙いやすいわけで、先ほどから、こちらを狙っているらしい灰色のツノウサギが目に入るようになってきた。
だが、アンはツノウサギを見たことがないので、まだ気がついていない。
教えるべきか、エルムに何か考えがあるから黙っているのか、遠くのツノウサギを眺めながら悶々としていると、ドンという衝撃が後ろから来た。
「あらー」
前ばかり気にしていたが、後ろにもツノウサギがいたようだ。
サラのバリアに当たったツノウサギはたいていお陀仏だが、今回のツノウサギはふらふらと立ち上がった。なかなか根性のあるツノウサギである。
「あっ! 大きなウサギさん!」
ふらふらしたツノウサギもびくっとするほど大きな声を上げ、走ってきたのはアンである。
「わあ、大きい! モッフモフ!」
止める間もなくツノウサギを後ろから抱き上げ、キャッキャッとサラに見せてくるその姿は、サラの古い記憶を刺激する。ハルトも同じなのか、頭を抱えてしゃがみこんでいるのが笑える。
抱き上げられて正気付いたツノウサギは、必死に暴れ、蹴りを入れようとしているが、そこはさすが招かれ人である。
「やだ! 力が強ーい。元気ねえ、いい子いい子」
全員が固まって動けない中、アンのはしゃいだ声だけが草原に響く。
「チー!」
だが、ツノウサギはついにアンの手をすり抜け、すたこらと逃げて行ってしまった。
「ツノウサギ、鳴くんだ」
「そこじゃねえよ」
サラに突っ込むハルトの声も力がない。
きっと、昔の自分を思い出しているのだろう。
アンは何が問題かわからず、きょとんとしている。
「サラ」
疲れたような声のエルムの言いたいことは、今度はよくわかった。
「はいー。向こうでおとりになってきますー」
集団から離れて、草原に一人立ち尽くすと、さっそくツノウサギが湧いて出てくる。
ダン! ダンダン!
「サラ!」
ものすごい勢いで突進し跳ね返るツノウサギに、アンの悲鳴のような声が響く。
「ツノウサギは魔物だ。しかも、初心者が狩るのは難しい、危険な魔物なんだ」
解説はハルトである。
「そんな……。あんなにかわいいのに」
「フレイムバットだってかわいいのに、魔物だっただろ」
フレイムバットがかわいいかどうかは、人によると思う。
「いいか、この世界ではどんなにかわいくても、基本的に魔物は人に害を及ぼす。いくらかわいがっても、なついたりもしない。かわいがるものじゃなくて、狩るものなんだ」
オオカミだって、いくらかわいくても、いくらなついているように見えても、サラに隙があれば食べようとしてくる。バリアがあるからこその休戦状態なのだ。
「王都のそばで、大量発生すれば、騎士だってあれを狩ることもある。中には怪我をする者もいるほどだ」
サラはアレンとそっと視線を交わした。
ローザの東の草原で、ツノウサギにやられて戻ってきた騎士たちのことを思い出したのだ。
「もちろん、アンの今の力では狩るどころか、剣もこぶしもかすることさえないだろう。ゴホン」
エルムが思わず咳払いしたのは、弱っているとはいえ、ツノウサギを後ろから抱えて平然としていたアンのことを思い出したからだろう。
またまたシュンとしているアンに、エルムはもう一度咳払いしてから、こう尋ねた。
「ところで、さっきツノウサギを抱えていたが、大丈夫だったか? 怪我などなかったか?」
サラもはっとして、慌てて腰のポーチからポーションを取り出した。
この一行は誰も怪我などしないので、うっかり忘れていたが、そもそもサラは薬師だし、ポーションを作っているのは楽しいからではなく、怪我した人を治すためである。
「魔物を触るときは、身体強化をしてからって、ネリーに教わっていたので、大丈夫でした」
二年前、ネリーが教えていたことはちゃんと身を結んでいましたよ、と、サラは空の向こうのネリーに念を送る。後で手紙にも書いてあげよう。きっと喜ぶに違いない。
「サラと同じ、招かれ人だから、魔力が不足する心配はない。できるなら、常時身体強化を意識しておくと、よい訓練になるだろうって」
「ということは今も身体強化してる?」
サラはポーションをしまい直すと、ワクワクして聞いてみた。サラは自分では、走るとき以外はほとんど身体強化を使ったことがない。
「はい。でも最近は、とっさに身体強化できるよう、オンオフを意識して、しょっちゅう切り替えるようにしてます」
「なるほど」
身体強化に関しては、バリアで身を守ることに特化したサラより、アンのほうがずっと先を進んでいたようだ。
「では、アン」
エルムまた咳払いをすると、改めてアンに何か話そうとしている。
「先ほどの、サラに攻撃してきたツノウサギの動きは見えたか」
「はい」
サラは見えなかった。なんだか灰色の大きな物体がすごい勢いでぶつかってきたなと思っただけである。
「それなら、倒せると思うか」
アンは少しうつむいてから、顔を上げた。
「はい」
「かわいくても?」
モフモフを喜んで抱きしめようとしていた子ども相手に、厳しい言葉であるが、アンはしっかりとエルムの目を見て頷いた。
「はい。割り切りました」
「では」
エルムは草原のほうを指し示した。
「やれるか」
「はい」
「剣か、こぶしか」
「剣で」
エルムに指示された場所に、剣を構えて一人立つアンに、いや待ってと、サラは心の中で盛大に突っ込んだ。剣の訓練をしているのは知っている。だが、先ほど思い出した通り、ツノウサギは騎士にでさえ怪我をさせる危険な生き物なのである。
危険だから止めたい、止めたいけどどうしたらいいのか。
サラは思わずアレンのほうを見てしまった。
アレンは少し口の端を上げると、首を横に振った。
止めないほうがいい。そういうことだ。
一緒に訓練しているアレンやクンツのほうが、アンの実力をわかっている。
サラは自分に言い聞かせる。ハンター証をもらう前のアレンだって、ツノウサギをぶっ飛ばしていたじゃないか。あの時みたいに、次々と襲い掛かるツノウサギと対峙するわけではない。
魔物の少ない草原で、たった一匹に対応するだけである。
大丈夫、大丈夫と、バリアを広げてアンを守ろうとする心を落ち着かせる。
「サラに立ってもらえれば、あいつらはすぐにやってくるんだが」
エルムの言葉にサラは思わず空を見上げてしまった。
当たり前だが、ワイバーンなどいない。普通の鳥が飛んでいるだけである。
空からアンに視線を戻すと、アンの体に緊張が走った。
ツノウサギがいる、らしい。サラにはまったくわからないが。
「ふっ」
サラにはアンが何をしたのかわからなかった。ただ、腰を落として剣を前に構えていただけのように見えた。
だが、気がつくと、アンの剣にはツノウサギが刺さっており、まさにその剣を抜こうとしているところだった。
アンは剣を振って血を落とすと、エルムのほうを振り向いた。
「解体もしますか」
「いや、解体は専門家に任せた方がいい。すぐに収納にしまわないと、血の匂いでツノウサギが集まってくる」
「はい」
アンは素直に大きなツノウサギを収納ポーチに入れた。それから急ぎ足にサラのところにやってくると、サラをぎゅっと抱きしめた。
「怖かった……。ううっ」
思わず口からもれたであろう言葉を裏付けるかのように、アンの体は細かく震えている。
サラはポンポンとアンの背中を叩いた。慰めたいのか、落ち着かせたいのかサラ自身にもわからなかったが、震えるアンに、なぜかほっとしている自分がいる。
あまりにも平然と割り切ってほしくない、命を奪うことに平気でいてほしくないと、そう思ってしまうのだ。
「魔物なんだから、魔物なんだから。ウサギじゃない、ウサギだけどウサギじゃない」
ぶつぶつと自分に言い聞かせるアンの背中を、なおもポンポンと優しく叩きながらも、サラは自分はどうだったろうかと記憶を探ってみると、アンとは少し違っていたかもしれないと思う。
まず、サラにとって、魔物とは、高山オオカミの他はネリーの狩ってくる食材だった。
自分でバリアを張れるようになってからは、たくさんの魔物が自爆してきたけれども、剣を使った時のように血が出たりはしない。
自分が魔物を殺すという体験はしたけれども、血なまぐさい物ではなく、少しずつ慣れていったのだ。そういう意味では、初めての狩った魔物が、剣で刺し殺したものだったというのは、とてもつらいかもしれない。
「アン、よくやった」
エルムの声に、アンはごしごしと目をこすってから返事をした。
「はい!」
大きいけれど、少し涙交じりの声だ。
「どう倒したか説明してみなさい」
倒して終わりではなく、振り返りもあるらしい。ハンターへの道は厳しいようだ。
「サラに向かっていくツノウサギを見た時、後ろ脚を生かして、高い位置に跳ねることに気がついたんです。足元ではなく、お腹を狙って攻撃しているように見えました」
サラはそんなこと気がつきもしなかった。
「鋭い歯も危ないのかも知れないけれど、一番はやっぱり角です。最初の一撃をどう避けて攻撃するかをまず考えましたが、高く跳ねてくれるなら、いっそツノウサギの勢いを利用したらいいのではないかと判断しました。だから、ツノウサギが飛び込んでくる低い位置に剣を構えて、ツノウサギが飛び込んできたら剣をわずかに上げる」
感心する以外に何も言えない。
「ふむ。ツノウサギの動きは見えたのか」
「はい」
サラはまったく見えなかった。そしてエルムの講義は続く。
「今、私たちを狙っているツノウサギがいるが、何匹わかる」
「三匹です。右斜め前に一匹、同じく斜め後ろに一匹、サラの後ろに一匹」
「ええっ!」
サラは後ろを振り返ったが、ツノウサギがいるかどうかさえわからない。
「正確には七匹。三匹のツノウサギの後ろにもさらに四匹いる」
「ひええ」
サラがぼーっと立っているだけで、あんなにたくさんぶつかってくるのは、ツノウサギがたくさん隠れているからなのかと理解した。
「人には向き不向きがある。サラはそれでいい」
まったく慰められた気がしないのだが。
「その素質、騎士隊にはもったいないな。アン、ハンターにならないか」
「ええと、エルム。その……」
エルムは元騎士なのだから、余計な誘惑はしないほうがいいと思うサラである。
「驚いたな! すごいよ!」
「なかなかやるな」
「いやあ、俺にはわかってたね、アンがやる奴だってことはさあ」
アンは若いハンター三人に囲まれて褒めそやされ、戸惑い気味である。
だがサラだって言いたいことはある。
「わ、私だって最初から、アンはできる子だと思ってたもの」
同じ招かれ人として、アンを大事に思う気持ちは負けないつもりだ。
「でも、心配してただろ?」
ニヤニヤ笑うアレンが意地悪だ。
「心配してくれるサラが大好き!」
結局、アンに抱き着かれるサラが大勝利である。
確かに、サラは心配しすぎだったかもしれない。
だが、アンは、本当にハルト系のたくましい招かれ人のようだ。身体能力も、志も高く、努力を惜しまない。
「よかった。なんとかやっていけそうで」
春先の草原に、サラの声が小さく落ちたが、わいわいとにぎやかな声に紛れ、さあっと吹く風に、サラの不安と一緒に消えていった。




