違和感
目的地はダンジョンの一番下なので、一五階である。途中で休憩をはさみながらも、一気に向かう。魔の山育ちのサラは体力はつけていたはずだが、町中の薬師ギルドに通う毎日ではやはり衰えているらしい。目的地に着いた時には昼もとっくに過ぎており、サラ自身は肩で大きく息をしている状況だった。
「ふう。だいぶ体力が落ちてるな、私」
ハンターと比べても仕方がないとは思うが、同じ薬師でも年上のクリスが平然としているのはやはり少し悔しかった。
「魔の山からローザに出るという目標があったころとは状況が違う。体力のある若いハンターでも、ここまで一気に降りてきたら疲れるのが当たり前だ。気にすることはない」
その若いハンター二人がクリスと同様に平然としているのだから、ネリーの言葉には説得力はない。それでも、サラのペースで考えてくれる優しさが嬉しい。
サラが大きく深呼吸して顔を上げると、目に入ってくるのは懐かしい景色だ。
二年前、行き止まりにある正面のダンジョンの壁からは、ヘルハウンドが湧き出していた。あの時、サラのバリアに行く手を阻まれもがいていた、目に見えない魔物の気配を、サラは今でも忘れられない。
「最後にはタイリクリクガメがあそこから出てきて、大変な目にあったんだよな」
騎士隊の考えなしの作戦に巻き込まれたアレンならではのボヤキである。
だが、タイリクリクガメが魔の山に去った後、ダンジョンの壁の揺らぎはおさまった。そこから何者かが出てくることはなくなり、今は何の問題もないはずだ。壁を眺めて苦い思い出を振り返っていたアレンが、急に言葉を止め、目の上に手をかざした。
「誰かが壁の前にいる。まあ、このくらい離れていれば問題ないか?」
深層部は森林と草原の混ざり合った広いフロアで、ハンター同士が出会うことはあまりない。それでもアレンはともかくとして、クンツは魔法を使うから、周りに気をつけなければならないのだそうだ。
だがサラは他のハンターには興味がない。なぜなら、これから卒業試験が始まるからだ。というより、ふと目を落とした地面に生えている紫の草にもう目が釘付けである。
「こ、これは」
思わずしゃがみこむと、這いつくばるようにして左右をうかがう。乙女にあるまじき姿かもしれないが、こうして視点を下げると、薬草が見つかりやすいのだ。
サラのいる草原から、右手の森のあたりまで、背の高い草に隠れるようにして、背の低いハート形の草がたくさん生えている。
「クリス! これですね!」
「そうだ。まだ教えていなかったはずだが」
クリスは意外そうにそう言うと、サラの隣にしゃがみこみ、紫の葉に手を添えた。
「カレンが今朝、教えてくれたんです」
「さすが薬師の長だな。ではどこから採るかもわかるな?」
「はい。上から三節分です」
「よし」
クリスはサラの答えに満足そうに立ち上がると、右手を森のほうに大きく動かす。
「貴重な薬草だが、これだけ生えていれば制限することもない。普通の薬草と同じことに気を付けて採取するように」
「はい!」
サラはさっそく薬草籠を取り出すと、一本一本丁寧に採取し始めた。
必要なのは薬師の人数の三倍に予備を足した本数だ。制限することはないといわれても、貴重な特薬草なので、取りつくすことのないよう注意しながら夢中になって採取する。
それほど時間もかからずに採取し終わると、サラは立ち上がって腰をとんとんと叩いた。
若いとはいえ、ずっとかがんでいると疲れるものだ。
「あれ?」
周りを見渡すと、誰もいない。
サラは魔の山で修業した経験から、いつでもどこでも無意識にバリアを張っている。ましてやダンジョンではそのバリアを一層強固に、そしていつもより広い範囲で展開している。サラは自分が臆病だと自覚しているので、近くで魔物を見たら冷静さを失う自信があるからだ。
つまり、誰にも守られる必要などない。
ないのだが、やはり放置されると不安に感じるし、見守ってくれているはずのアレンがいないことに、ちょっとだけ不満も感じてしまった。
「わざわざ誘いに来てくれたはずじゃなかった?」
ぶつぶつ言いながらよく見ると、皆はタイリクリクガメの出てきた壁のほうに集まっているようだ。
その皆とサラの間にクンツがいて、立ち上がったサラに気がついて大きく手を振ってくれたのが救いである。完全に放置されていたわけではなかったようだ。
「何かあったのかな」
サラは籠をポーチにしまうと、皆のほうに足を急がせた。
近づくにつれて、壁のほうを指し示しながら何か話し合っている様子が見える。
そこにはクリスとネリーの他にもう一人、先ほどアレンが見ていたハンターらしき人がいた。
「あれ、髪の色が赤い」
ハンターにしてはひょろりとしていて、クリスよりも背が高い。後ろで無造作に一つにくくった髪は、ネリーと同じ赤毛である。しかも、話している横顔が、どことなくネリーに似ているような気がする。
どこにも属さず、流れのハンターをしてトリルガイア中を旅しているというネリーの二番目の兄ではないかとサラは推測した。
「クンツ」
「サラ、ごめんな、放っておいて。珍しい人が来てたみたいでさ」
「もしかして、ネリーの?」
「そう、二番目の兄さんなんだって。結婚式に間に合わなかったとかで、仕方ないからタイリクリクガメの出てきた壁に観光に来てたんだって」
サラの推測は見事に当たっていた。
だが正解の喜びより、驚きとあきれが先に立ち、思わず大きな声を出してしまった。
「いや、それならまずライのお屋敷に来るべきでしょ!」
「だよな」
クンツも半笑いである。
アレンはと言えば、和やかに話している大人三人を、憧れのこもった目で見ていた。
クンツと合流して皆のもとに向かいながら、サラは肩をすくめる。
「久しぶりに会ったお兄さんならネリーはもちろん話したいし、さすらいの凄腕ハンターときたら、アレンだって近くで見てみたいもんね」
「アレンはネリーの弟子だからな。ネリーが尊敬する兄さんなら、そりゃ興味津々だろうさ」
セディアスにしろラティーファにしろ、ネリーの兄姉は第一印象が強烈だったので、サラはほんのりと警戒はしている。だが放っておかれた寂しい気持ちは消え去り、ワクワクとした気持ちが盛り上がってきて足を急がせた。
だが、途中で視界が揺らいだ気がして、思わず足を止めてしまった。
「サラ?」
「ごめん、ちょっと待ってね」
何が気になったのか自分でもよくわからなかったサラは、周りに注意を向けた。
「音?」
チリ、と、かすかだが何か固いものが擦れ合うような音がする。場所が特定できず、サラはあちこちに顔を向ける。
違和感を覚えたのは正面だ。
「目の前は壁、だけど……」
聞こえる音は次第に大きくなり、チリチリと空気そのものを震わせ始めた。
「なんだ? 何の音だ?」
サラの様子から周りを警戒していたクンツも、ここにきて音に気がついたようだ。
「めまい? 立ち眩み? 何がおかしいんだろう」
正面の壁の輪郭が定まらないような気がする。お酒に酔ったような気分に思わず胸を押さえたサラの動きに気が付いたのか、ネリーの兄と思われる人が、サラのほうに振り向いた。
だが、その顔がネリーに似ているだとか考える余裕はサラにはなかった。
揺れる壁を見たサラの目が恐怖で見開かれ、それを見て取ったたネリーの兄が壁に目をやる。
「下がれ!」
その人が叫ぶと同時に、小石が一つ、壁の上のほうから転がり落ちてきた。