卒業試験
当分、月水土更新の予定ですが、忘れて抜けてしまったらごめんなさいです。
「前も聞いたけれど、新婚旅行にはいかないの?」
その話をしたときには、トリルガイアには新婚旅行などというものはないと聞いて驚いた記憶がある。結婚したばかりだったら、新しい家と暮らしに慣れるのが一番大事ではないかと言われて、考え方の違いに感心したものだ。もっとも、貴族でさえ気軽に旅行できる世界ではないから、当たり前なのかもしれない。
ただ、サラの話に、ネリーよりもクリスのほうが興味を持っていたから、もしかして予定が変わったかもと気になったのだ。
「確かに、行ったことのないダンジョンには興味はある」
「ネリー、それ、ただの仕事だから」
サラは突っ込まずにはいられない。
「私もまだ見ぬダンジョンには興味がある。正確には植生だが」
「似たもの夫婦か」
クリスでさえこうである。だが、夫婦と言われたからかほんのりと顔を赤くして顔を背けあっている二人を見ると、確かに今日は結婚式だったのだと生ぬるい気持ちにはなる。
だが、クリスはコホンと咳払いをすると、サラに真面目な顔を向けた。
「結婚をしようがしまいが、旅行に行こうが行くまいが、私とネフが常に共にあることには変わりはない」
「真面目な顔で言うことですかね」
だが言う。それがクリスであるとサラは知っている。
「それに、私たちのことを心配している場合ではない。サラこそ、準備はできているのか」
「はい? 準備?」
サラは、クリスの言葉に首を傾げた。
なぜ、今、サラが準備について聞かれているのだろうか。そもそも何の準備なのか。
まったくわからない。
「カレンから聞いていないのか? でなければネフからは?」
「何も聞いていませんが」
思い返してみると、確かにこの数日、薬師ギルド内には、ぴりついた雰囲気があった。だが、それもベテランの薬師ばかりで、サラのような若い薬師は皆いつも通りに仕事をしていて、特にカレンになにか言われた記憶はない。
はあと大きなため息をつかれても困るのだが。
「ダンジョンの最下層で特薬草の群生が見つかった」
「とくやくそう」
サラの持っている薬草図鑑にそんなものは載っていない。薬草図鑑以外の薬草は、時折クリスが教えてくれるが、その中にも特薬草などというものはなかった。
サラが思わずネリーのほうを見ると、しまったという顔をしている。
うっかり伝言し忘れたに違いない。ネリーらしくてちょっと力が抜ける。
しかし、毎日のように顔を合わせているのだから、同じ薬師として直接サラに伝えるべきなのはクリスではないのか。サラがネリーから視線をずらすと、やれやれというように首を横に振っているクリスが見えてイラっとする。
「それで、特薬草と、私の準備がどう関係しているんですか?」
肝心なのはそれである。
「うむ。特薬草とは、めったに採取されることのない幻の薬草でな」
「おお……」
薬草採取が好きなサラとしては、その情報にはとても惹かれる。だが、今は大切なのはそこではない。サラはそれ以上口を挟まずに続きを待った。
「特薬草からは、特級ポーションが作られる」
「特級ポーション」
薬師なのに、まったく聞いたことがない薬だ。
「特級ポーションは、上級ポーションでも治せない怪我まで、治すことができる」
上級ポーションでも、狼に噛み千切られたくらいの怪我なら治せるのに、それ以上の効力がある薬があることにサラは驚きを隠せなかった。
「ただし、必ず治るわけではない。成功するかどうかは怪我人の生命力による」
心なしか、危険な香りがする。
「ええと、それはつまり……?」
「生命力が弱い場合、強すぎてとどめを刺す場合もある薬だ」
「ひええ。それじゃ使えないじゃないですか」
「そもそも特薬草が珍しくて安定供給できない。高価で、使いどころが難しい。ダンジョンの深層に潜るハンターが、どうせ死ぬくらいなら使ってみるかとお守りに持っているくらいの薬だから、たいていの薬師はその存在は知っていても、調薬はしたことはないはずだ。ハイドレンジアでもカレンくらいだな」
身もふたもないクリスの言葉である。
「私が持っているぞ。これだ」
ネリーがいつも身につけているポーチからポーションの瓶を一つ取り出して、ことんとテーブルの上に置いてくれた。
「わ、濃い赤だ」
サラはありがたく手に取ると、あちこちの角度から眺めてみる。ポーションと同じ小瓶だが、中身は毒々しい赤である。色以外は特に変わったところはない。
「ネフにだけは、いつも私が持たせているからな」
ちょいちょい入るクリスのネフ愛は、普段は許せても、今はちょっとうっとうしいからさらりと無視をする。
「使うほどの無茶をしたことはないので、使用感はわからない」
一方、ネリーの言葉はベテランのハンターらしく説得力がある。
「なるほど。貴重なものをありがとうございます」
サラは、手に持っていた特級ポーションをネリーの前に置いた。
「で、これが私とどう関係あるんです?」
そして会話は振り出しに戻る。クリスの言葉は省略が多く、しかも唐突すぎて、言いたいことがとてもわかりにくいのだ。
「先ほども言った通り、これを調薬したことのある薬師はめったにいない。だが、せっかく特薬草の群生地を見つけたのだ。ハイドレンジアの薬師全員に、経験を積ませることにした」
ハイドレンジアの薬師全員にということは、もしかして。
「私も調薬に参加してもいいということですか!」
サラはガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。サラはまだ薬師になってから三年だ。ハイドレンジアではカレンしか作ったことのないという特級ポーションを作らせてもらえるなんて、そんな幸運があるだろうか。
「もちろんだ。そしてそれをもって、サラの卒業試験とする」
クリスが重々しく宣言した。だが、卒業試験も何も、サラは既に薬師だし、そもそも薬師に卒業試験などない。そう突っ込みたいのを我慢して、素直に礼を言うことにした。
「ありがとうございます。でもできるかな」
サラは感謝と不安とで、おもわず胸の前で両手を握り合わせた。
「ハハハ、心配することはない」
クリスは上機嫌である。
「サラ、上級ポーションの作り方は?」
「薬草の代わりに、上薬草を使います」
ポーションの作り方に、難しいところはない。もっとも、薬草の丁寧な下準備と安定した魔力の出力は、だれにでもできることではなく、それゆえそもそも薬師の数は少ない。
「その通り。材料だけが違う。では、特級ポーションの作り方は?」
「ええと、特薬草を使って、ポーションと同じように作る?」
クリスは満足そうにうなずいた。
「正解だ」
そんなに簡単でいいのだろうかと、サラはほっとすると同時に疑問にも思う。
サラの頭に警戒音が響く。クリスがそんな簡単なことを卒業試験にするだろうか。
いや、そもそも卒業試験なんてないはずなんだけれど。
そしてその不安は的中する。
「だが、サラは私の弟子だからな。特薬草さえあれば薬師ならだれでもできるような調薬を卒業試験にするわけにはいかない。そこでだ」
普段表情がないのに、にっこりするクリスに背筋が凍るサラである。
「ダンジョンで特薬草を採取し、それを特級ポーションにするまでを卒業試験とする」
「はああ?」
もういいから、新婚さんは素直に新婚旅行に行ってしまえとやさぐれるサラである。