一人前
活動報告に書影を上げました。
下の、作者マイページから飛んで見ることができるはずです。
「まず一歩」コミックス4巻発売中です。
そして書籍7巻は25日に発売です。
「では、まずは相の変異した黒いバッタからいく」
クリスは宣言し、草を与えて気をそらせた黒いクサイロトビバッタにポーションをかけた。
「もったいない」
見学にきたアレンから、思わずと言ったように漏れ出た声は、正直なものであった。アレンと同じように見学に来ていたハンターたちから同意の声が上がる。
ハンターになりたての若者だと、ポーションを一本買うのも大変なのだ。今は裕福になったハンターたちも、最初の頃の苦労は忘れないものなのだろう。ローザでの出来事を思い出してサラもちょっと切ない気持ちになる。
ポーションをかけられたバッタは驚いたように動きを止めたが色は変わらず、与えられた残りの草をシャクシャクと食べるだけだった。
「効果なし。次」
結果が芳しくなくても、クリスを始めとした薬師一団はたんたんと次の場所に移動する。
「これは昨日から十分食べ続けているバッタ。色は黒。それでは」
草の山に囲まれてシャクシャクと音を立てるバッタに、クリスはポーションをかけた。
バッタは戸惑ったように草を食む口を止めた。
「おお……」
「これは……」
やがて体が黒から緑のまだらに、そして完全な緑へと戻っていった。
「ふむ。色は変化したが、羽は退化しない。すなわち、飛翔能力は残っており、危険性が減じたとは限らない、か。では次」
感動している見学のハンターたちをよそに、サラたちは次の黒いバッタへと移動する。
草を与えて様子を観察しているバッタは二〇匹ほどいる。その半数にポーションを与えてみる予定なのだ。
「二匹目。変色。次」
一〇匹すべてが終わる頃には、見学のハンターも飽きていなくなってしまうほど、ポーションは効果的だった。
「現実的に見て、相が変わって変色したバッタに餌を与えたうえでポーションをかけて回るというのは狩りをするより手間がかかりますね」
ノエルの感想にキーライが返事をする。
「ああ。運用するとしたら、ハンターを集めるより人手が必要だ。ただし、その人手がハンターでなくてもいいのは大きいぞ。わざわざ他の地域から人を呼ばずに済むのは助かる。大量のポーションが必要だが、費用の面ではだいぶ安く済むかもしれない。計算してみないとわからないが」
さすがにギルド長の経験者だけあって、キーライの視点は為政者寄りである。
だが、サラには気になることがあった。
「今は隔離して実験しているからいいですが、いったん相が戻ったとして、そのバッタを他のバッタと一緒にしたら、どうなるんでしょうか。他の黒いバッタも緑に戻ったりしないでしょうか」
相の変わりはじめは、一匹が黒くなったら、オセロのようにぱたぱたと他のバッタも色が黒くなるという。それならば、逆もないだろうか。
「ふむ。色が戻ったバッタを、黒いバッタのそばに移してみようか」
「ようやっと俺の出番だな」
黙って付いてきていたアレンが嬉しそうにバッタをがっしりとつかみ、抱え込んだ。
「ひえっ!」
大きなバッタは抱えてもかわいくもなんともない。
チキチキと音を立てるバッタをまったく気にも留めず、アレンは指示通りに黒いバッタが数匹固まっている地点に移動すると、ポーションをかけたバッタをその真ん中あたりにそっと降ろした。
抱えて降ろされ、やれやれと言わんばかりの緑のバッタは、戸惑ったように触覚を動かすと、動きをピタリと止めた。
「ああ」
サラから思わず漏れ出たのは失望の声だ。
「また黒に戻っちゃった……」
一匹だけ状態異常が戻っても駄目なようだ。
「よし!」
気合を入れたのはアレンだ。
おもむろにしゃがみこむと、今度はもともと黒いバッタを一匹抱えこむ。
「今度はこれを緑のバッタのとこに持っていくんだろ。がっかりしてる場合じゃないぜ」
「さすが英雄殿。理解が早い」
キーライに褒められて照れたアレンは緑に変わったバッタの元に足を急がせた。
「残り九匹のうち、五匹の中にもともと黒いのを。四匹の中に、また黒に変わったやつを入れてみよう」
実験が複雑になって混乱しそうだが、結果も微妙なものだった。持ってきた黒いバッタはなかなか色が変わらず、その日の夕方になってやっと、ポーションをかけて緑になっていたものの、また黒に戻っていたバッタが緑に戻ったが、黒いバッタは黒いままだった。
「やはり一度危機感を覚えて相が変異する場合、多少餌が十分なくらいではなかなか元に戻らないか」
キーライの声には落胆がうかがえた。
「でも、餌を一日十分に与えたバッタなら、ポーションが効くとわかったのはものすごい成果だと思います」
この手の実験は一日で成果が出ることなどほとんどない。季節をいくつも重ね、何年も積み上げてやっと結果が出ることも多いのに、今回はたった二日で成果が出たとも言える。
「そうだな。薬師の仕事は、単調な作業の繰り返しだ。何百年も既存の薬だけで満足して、新しい薬を作りだそうともしなかった薬師ギルドに染まり切った自分が、一歩踏み出しただけでも良しとせねばなるまい。しかも、サラの言う通り、多少なりとも結果は出た」
自分に言い聞かせるようにしながら何もない宙をじっと見ているキーライは、明日からの実験の手順を考えているのだろう。
「そろそろ引退かとも思っていたが、若い薬師たちのおかげで、来年以降もクサイロトビバッタの観察と実験を継続していくという課題ができた。感謝する」
キーライはしばらくそのことを熟慮していたようで、他の人の話が弾む中黙り込んでいたが、結論が出たのか、一人静かに頷いた。
「タイリクリクガメの件にしても、今回の件にしても、常ならぬ天災が続いているが、これで終わるとも限らないしな」
そこでサラの方を見るのは止めてもらいたい。たまたまどれにもサラは関わっているが、サラのせいでこのようなことが起きたわけではない。それに、関わっているというならばネリーもクリスもアレンもである。
「各薬師ギルドにおいて原材料とポーション類の在庫をもう少し持つように提言し、そのためなら東部からの薬草をもう少し出してもいいとしてみるか。採取する人手の関係もあるし、エドと相談してからのことになるが」
そのエドモンドは、アンと一緒に騎士隊のテーブルで楽しそうに話している。
「何にでも口を出してくる領主よりよほどましだが、今回の実験の件については驚くほど興味がないな」
キーライのあきれたような口調を聞いて、そういえばアンも、今日は一緒ではなかったなと、サラは今頃気がついた。
「私もまったく興味がないぞ」
ネリーが胸を張るが、実験について語っている薬師にそう言われても困る。
「興味がなくても一緒に聞いてくれているネフが」
「そうですね、魅力的なんですよね」
傍らではクリスがノエルにあしらわれているが、ふと周りを見てみると、アレンやクンツもそばにはいない。
ネリーがやれやれというように肩をすくめた。
「そもそもクリスを見て常々思っていたが、薬師という人種は、少しばかり感覚がずれているよな」
サラは思わず噴き出しそうになった。ネリー自身も、薬師とは違うかもしれないが、感覚がずれている人の仲間だと言いたいのを我慢する。
「いいか、そもそもたいていの人はバッタそのものに興味がない。私たちは依頼を受けたハンターだから仕方なく狩りに来ているが、興味があるのは効率よく狩れる方法のみ」
清々しいまでにハンターらしい言葉である。
「一般の人であっても、よほどの虫好きでもない限りバッタには興味がない。したがってアンもエドも興味がなくて当たり前。騎士隊も考え方はハンターと似たり寄ったりだ」
ネリーの視線を追って、騎士隊やハンターのほうを見ると、楽しそうに談笑しているテーブルばかりだ。狩りの山場を過ぎたという安堵感がうかがえる。確かに、あとは残ったクサイロトビバッタをたんたんと狩り尽くせばいいだけだ。
そんななか、反省会を繰り広げ、これからの対策や実験について真剣な顔で話し合っているのは薬師のテーブルだけである。
ネリーはニコリと微笑んだ。
「私はそんな薬師の在り方を尊敬しているし、好ましいとも思う。だが、それならなおのこと、そろそろ気を抜いてもいいのではないか」
「好ましい……」
クリスについては、そこだけ切り取ってうっとりするのはやめたほうがいいと思うサラである。
「薬師の果たすべき役割は十分以上に果たしている。これ以上の責任や義務はない。やるべきことがあるなら、後悔や駆け引きなどせずに、これから楽しんでやればいいではないか」
ネリーがこれほど饒舌にしゃべるのは珍しい。だが、狩りも終わりに近づいているのに、薬師だけが視野が狭くなっていたのかもしれない。狩りを終わらせることより、実験を続けることの方を優先する気持ちが強くなっていたことにサラもようやっと気がついた。
「そうだな。バッタは数を減らしているし、ガーディニア方面に向かうことも避けられた。もう少し数を減らしたら、あとは地元のハンターで間に合うだろう。そうか」
キーライは先ほどのネリーのように、騎士もハンターもゆったりと食後の時間を楽しんでいる食堂を見渡した。
「危機は去ったんだな」
危機は去った。
キーライの言葉はすとんと胸に落ちた。
クサイロトビバッタの討伐は、クリスへの依頼でもなければサラへの依頼でもない。ノエルの記録を取りたいという希望も、現場から見てみれば、物見遊山として煙たがられかねない動機である。
つまり、ここにいる薬師はキーライ以外、自主的に参加したはずなのに、一番熱心に討伐にかかわっているという状況になる。
サラはこの世界に来て、自ら望んで薬師になったが、思い返してみると、周囲に流されるように仕事をしていたにすぎない。だが今回、地域の危機を目にして、自主的に関わり、招かれ人の力も使いはしたが、他の薬師と協力して、薬師としての力も尽くすことができた。
サラは顔を上げ、背筋をピンと伸ばし、そしてネリーの方を見た。
「もう一人前だな。立派になった」
「うん!」
一人前の薬師にしては返事が子どもっぽかったかもしれない。
だが、ネリーの隣に立てる存在になった、そんな気がしたのだった。