私のそばに
「まず一歩」書籍7巻は11月25日、
コミックス4巻は同じく11月14日に発売予定です。
部屋に残されたサラたちの間には微妙な空気が漂うなか、キーライがぽつりとつぶやいた。
「親切にしすぎたか?」
「たぶん、これでもわかっていないかもしれません」
サラはよいしょっと気合を入れて立ち上がった。
「二人のかわいい娘である私が、ちょっとばかりはっぱをかけてきます」
あまりにもクリスが気の毒なので、サラはクリスを追いかけて二階に向かった。ただし、ネリーの部屋はサラの部屋でもあるので、自分の部屋に向かっただけとも言える。
部屋の前ではクリスがドアに額を付けて、
「ネフ……」
と小さな声で呼びかけていた。どうやら追いかけたけれど、間に合わなかったようだ。しかも、出てくるのを拒否している気配がある。
「クリス」
「サラ」
ドアから顔を起こしたクリスは、途方に暮れたような顔をしている。いつも無表情なクリスなのに、今日はいろいろな顔を見てしまった。
「ネリー、出てきてくれないんですか?」
「ああ。困った」
ずるずるとドアに背を寄りかからせたまま、クリスは座り込んでしまった。
サラも同じようにドアに背をもたれてクリスの隣に座った。ネリーが出てきたくてもこれじゃあ出られないんじゃないかなあと思いながら。
「ねえ、クリス。ネリーが出てきたとして、何を言うつもりですか」
「何をって、それは……」
サラはバリアを張るからか、気配に敏感だ。部屋の中でネリーが同じようにドアにもたれかかったのに気がついた。
「ネフの美しさ、愛らしさ、素晴らしさ、そしてそばにいさせてほしいということ」
「うーん、それじゃあ今までと何も変わらないですよね」
クリスは何も言わず自分の膝をじっと見ている。
「クンツが言ってました」
サラは心の中でクンツに、責任を押し付けてしまってごめんなさいと謝りながら、話を続ける。
「ハイドレンジアのハンターギルドでも、ネリーのことを好きな人がいるって」
「本当か!」
正確には、きっかけがあれば好きに変わるくらい好意を持っている人がいる、ということだったと思うが、このくらい話を盛るのは許してほしい。
「ザッカリーか? いや、そんな気配はなかったと思うが。今回のハンターの一人か?」
「知ってどうします?」
サラもキーライと同じくらい意地悪かもしれない。
「今までと同じように、常にそばにいて、相手を追い払うだけでいいんですか」
「だが、ネフにも選ぶ権利はある。今回のような機会はまたいずれあるだろう。私はネフの意思を尊重したいんだ」
「そして他の人を選んでもいいということですか?」
「もちろん……」
クリスはいい、と続けるつもりだったのだろうと思う。だが、いいという言葉は喉に詰まったように出てこなかった。サラは思い切って言ってみることにした。
「ネリーに選ぶ権利を残したい、と言いながら、逃げているだけのように見えます」
「私は! 逃げたりなどしていない! 私の人生で、逃げたことなど一度もない。常に自分の意思で進む先を選び取ってきた」
それをサラは否定するつもりはない。
「告白して、断られるのが怖いだけでしょう。だって、断られたら今までのようにそばにいられなくなるから」
友人でいるほうが長くそばにいられるからという理由で、好きな人に告白しない人はたくさんいるし、それが悪いことだとはサラは思わない。
だが、そういう人に限って、ぽっと出のライバルに負けて、結局はそばにいられなくなるのが恋愛の定番ではないか。
「魔の山にいた時のネリーはローザでも孤独だったけど、今はそうじゃない。ハイドレンジアでは副ギルド長としてすっかり受け入れられているし、ガーディニアに来たら、女性としても人気だったじゃないですか。ネリーは本当に素敵な人で、それはずっと変わってないけど、ようやっと皆が、それをわかるようになってきたんです。私たちだけのネリーじゃなくなっちゃったんです」
クリスは気づいていないようだが、ドアを挟んで、背中合わせに身じろぐ気配がする。
私はいつだってサラのネリーだ。
きっとそう言いたいのだろう。
クリスは自分の膝を見つめたまま、まるで自分を守るかのように背を丸めている。
「クサイロトビバッタを」
「なんです?」
なぜここでクサイロトビバッタが出てくるのだ。
「クサイロトビバッタのことを、民に被害が出ないことを考えるべきなのに、それよりもネフのことが気になって、胸がざわざわして落ち着かない。ネフの足に縋って、そばにいさせてくれと言いたいのに、それだけではネフが去ってしまう気がして、怖くて」
クリスがはっと顔を上げた。
「私は怖いのか」
「たぶん、そうです」
今までと同じではいられない。そのことを、クリスは本当はわかっているから、どうしていいかわからなくて怖いのだろう。
「怖いから、逃げたいのか、私は」
「そうです。でも、このままでは逃げても逃げなくても、結果は同じです」
本当は同じではない。ネリーがそばにいるのを許すのは、これからもきっとサラとクリスだけだ。サラもクリスも、それだけの信頼を勝ち取ってきたと思う。
「では、クサイロトビバッタの討伐が終わってから。終わったら、私はネフに……」
「それはフラグです。絶対にダメです」
フラグとは何かをおそらくわからないながらも、不穏な雰囲気に気づいて黙り込んだクリスとサラは、急に開いたドアごと後ろに倒れ込んだ。
「うわあっ!」
と叫んで天井を見る羽目になったが、その視界には、腕を組んで仁王立ちになったネリーがいる。
「まどろっこしい」
「す、すまない」
反射的に謝るクリスを、ネリーは睨みつけている。ネリーはサラにならいくらでも時間をかけて答えを待ってくれるが、クリスには厳しい。これもいつものことだ。
「クリス、お前はずっと私のそばにいたではないか。なぜ私がこれからは拒むと思うのだ」
「だが、キーライが……」
寝転んだままうじうじしているクリスなど、二度と見られないかもしれないから、しっかり目に焼き付けておこうと思うサラである。
「キーライがなんだ。お前の恩師だから尊敬しているのであって、それ以外の感情など何もない」
「ほんとうか」
クリスがくるりと起き上がって、床に両手をついてネリーを見上げた。
まるでこれから土下座する人みたいだと思いながらも、サラも体を起こしてクリスの隣で正座した。正座したのには理由はない。なんとなくだ。
腕を組んで見下ろすネリーと、両手をついて見上げるクリス。これぞ力関係である。
いつまで沈黙が続くのかと焦れたサラの横で、クリスが口を引き結んだ。
そして、両手をついた姿勢から、片膝をついた姿勢になり、背筋を伸ばした。
「ネフ」
「なんだ」
いつものやり取りである。だが、さすがにクリスも覚悟を決めたようだ。
「私を生涯の伴侶として、そばに置いてほしい。あなたの夫に、家族になりたい」
ネリーはプイっと横を向き、途端にクリスの顔が情けないものになる。
「私のそばにいられる者など、お前の他に誰がいるというんだ」
私がいます、という言葉は、空気を読んで心の底にしまっておくサラである。
「つ、つまりそれは」
「何度も言わせるな」
横を向いたネリーの耳の先がほんのり赤く染まっている。
「ネフ!」
クリスは素早く立ち上がると、ネリーを抱きしめた。
「うっとうしい」
「ああ、そうだな」
だが、うっとうしいという割に、いつものようにクリスを追い払いはしないネリーである。
こうなると、サラの居所がない。なるべく目立たないように、正座のまま気配を消そうと努力することにする。
だが、できなかった。思わず言葉が漏れ出てしまったのだ。
「ということは、私もクリスの娘ということでいいでしょうか」
二人はぱっと離れた。どちらの耳も赤くなっている。
「もちろんだ」
「当たり前だ」
「でへへ」
クリスの恋を後押ししたのはサラだ。仲良しの二人の間に、ちょこっと入りたかっただけなのだ。
床に座ったサラの隣にネリーがどさりと腰を下ろし、クリスもサラの隣に胡坐をかくと、二人はサラの腰に手を回してぎゅっと引き寄せてくれた。三人でぎゅうぎゅうくっついていたから、頭の上で二人が何をしていたのかは、サラは知らないことにする。
翌朝、クリスがネリーと結婚することにしたとラティに話したものだから、出発が遅れるかと思うほど大騒ぎだった。ラティは涙を浮かべて喜んでくれた。
「私の後押しのおかげだな。よりいっそう尊敬するように」
クリスを煽りまくったキーライに、クリスの笑顔が引きつっていたが、実際キーライがいなかったらあと百年くらいかかっていたかもしれないから、尊敬はともかく、感謝はしてもいいかもしれない。
結局はクリスがもう少し早く決断すれば、ラティが心配することもなかったのにということは言わないでおくサラである。
「ですが、今はバッタの対策のほうが大切だと、私もわかっています。戻ってきて、すべてが落ち着いたらまたお話ししましょう」
ラティにも、領主夫人として、それを依頼のハンターが出発した時点に気づいてほしかったということは言わない。
まだ暗いうちの出発だが、アンも頑張って起きてきていた。
「頑張って馬車に乗って見に行くっていったら、サラは怒る?」
体力も実力もない招かれ人が来ても、現場の人が困るだけだ。だが、サラはアンの気持ちを否定したくない。
「ラティとエドモンドと、それにキーライを説得できたらいいんじゃないかな。あと、現場の人には嫌な目で見られるかもしれない。でも、トリルガイアにはいろいろな面があるっていうところを見るのは、招かれ人としてすごく大事なことだと思うよ」
サラはちゃんと皆に聞こえるように言った。
アンと出会ってはじめてサラは、トリルガイアが招かれ人といえど、魔物と一切かかわらなくても生きていける世界だということを知った。そしていかに自分の過ごしてきた環境が特殊であったかも。
だからこそ思うのだ。
アン自身が自分の知らないトリルガイアを知りたいと思うのなら、いくら周りの人に手間がかかろうと、かなえてやるべきだと。
それがアンを、トリルガイアで生きるということに結び付けていくと思うからだ。
「それでは、先行する」
ネリーとクリス、そしてサラ。
戦力となるのは主にネリーだが、クリスもダンジョンの最下層まで行く力がある。ワイバーンをも弾く結界を持つサラも、このような非常時にこそ力を発揮できる。
そして、前線まで身体強化を使えば半日で行ける力の持ち主でもある。
「行ってきます!」
明るい声で挨拶をし、他の二人と共に風のように走り去るサラを、アンがキラキラした目で見送っていたことには気がつきもしなかった。