骨付き肉
「まず一歩」書籍7巻は11月25日、
コミックス4巻は同じく11月14日に発売予定です。
「あれ、クリスだ!」
サラが15歳ということは、ネリーとクリスは42歳ということになる。去年など、二人ともハイドレンジアからローザまで走り通したようなものだし、体力があるのも知っているが、王都の薬師ギルド長まで務めた人がそんなに気軽に伝令のような役目を果たしていいのかとも思ってしまう。
「クリス!」
「サラ!」
クリスはサラを横目で見て返事はしたが、そのまま屋敷の方に走って行ってしまう。
「今の、人のように見えた気がしたけど、気のせいだったかも?」
アンの言葉で、サラは身体強化に慣れていない人が見ると、目が追い付かないのだと知った。
「ハハハ。今のが身体強化だよ。身体強化を使いこなせれば、オリンピックの選手より早く走れるよ、たぶん」
「ひええ」
「そんな場合じゃなかった。あんなに急いでいるってことは、何かあったんだと思う。急がないと!」
はやる気持ちを抑えながら、サラはアンを連れて屋敷へと戻る。
「門まで来たことさえなかったから、往復して倒れないなんて、私、進歩した。たった四日なのに」
アンが息切れしながらもふんふん元気なのがかわいらしい。
だが、サラの目はクリスを探していた。クリスを探すならネリーを探すとよい。ネリーは今の時間、お茶を飲みながら優雅に茶話会みたいなことを、いやいやながらもしているはずだと応接室に急ぐ。
そこには椅子から立ち上がったネリーと、膝に手をついて大きく息をするクリスの姿があった。
「クリス、何があった!」
「はあ、はあ」
身体強化しても無茶をすれば息が切れる。それほどまで急いだ理由は何だろうか。
「クリス、落ち着いてまず茶を飲むんだ」
冷静なのはキーライである。
クリスは冷めたお茶の入ったカップを受け取ると、一息に飲んだ。おそらく、ほとんど休まずに来たのだろう。
「今は流れの薬師と言っていたが、ギルド長まで務めたものが情けない姿をさらすな」
「すみません」
キーライの叱責に、クリスは素直に謝罪した。
「早くネフに会いたくて」
「そういうところだぞ、私が注意してきたのは」
なにか問題が起きたのかと焦っていたサラは、いつも通りのクリスにがくっと力が抜けた。
そしてキーライがそれを理解していることに、さすが師匠だなと思う。
落ち着いたクリスは、優雅に椅子に腰を下ろした。
だが、クリスはネリーの隣に当然のように陣取っているキーライのほうが気になっている様子で、視線が落ち着かない。
「キーライ。ネフに近すぎるのでは?」
「適切な距離を保っているが?」
そんな二人に苛立ったのか、ネリーが会話に割り込む。
「そんなことよりクリス、用件を話せ。いったい何があった」
「ああ。クサイロトビバッタだが、思ったより厳しい状態でな。今は狩りができるものを一人でも減らしたくないということで、私が伝令として戻ってきた」
「厳しい、とはどういうことだ」
「地元のハンターによると、想定していたより数が多いらしい。どうやら、第二世代が卵からかえってしまったようでな」
クリスの言葉の途中で、部屋の入口に人の気配がした。そちらを向いたクリスはいったん立ち上がって軽く頭を下げた。
「ちょうど呼んでもらおうとしていたところでした。エドモンド、クサイロトビバッタが危険な相に達しているとのことです。狩りのできる者をできるだけたくさん、現地に派遣するとともに、前線を突破された時の備えをしてください」
「なんということだ」
皆が行ったクサイロトビバッタのいる前線には、毎年クサイロトビバッタの様子を観察する役割のハンターがいる。例年と違うと感じたら、すぐに王都に援助の要請を出すことになっている。ローザへの要請は、王都が必要と判断すれば行われる。
今回は領主夫人の人脈により、たまたまハイドレンジアにも要請が来たのだが、その要請を出す役割のハンターが真っ青になっているという。
「クサイロトビバッタは既に攻撃色の黒に変わり、周囲の植物を食べつくす勢いで、移動するための羽も成長し始めている。依頼のハンターも騎士も、全力で数を減らしてくれているが、間に合わないかもしれないと」
クリスは狩りができないから、そしてネリーに会いたいから伝令として選ばれたと言ったが、それは違う。事態が切迫していることを証明するために地位がある人として選ばれ、本当に時間がないから息が切れるほど急いで戻ってきたのだ。
「承知した。急いで戻ってきてくれてありがとう。さっそく手配する」
「クリス、部屋で休め。私も出発を延ばす。明日、共に向かおう。さあ」
ネリーはクリスの手を引いて立ち上がらせると、部屋の入口で様子をうかがっていたメイドに、
「部屋に食事と飲み物を。多めにな」
と言って、クリスを引きずるように連れて行った。
「つまり、私も明日の朝出発というわけです」
取り残されたサラは、一人つぶやくしかない。
「私も行きたい」
小さな声が隣から聞こえた。少なくとも一人はサラの言葉を聞いていてくれた。そのアンに、サラは真面目に返事をした。
「私たちは身体強化で半日あれば着くけど、馬車だと二日かかるって言ってた。しかも、車ほど乗り心地が良くないから、今の体力のないアンには無理だと思う」
アンが物見遊山でこんなことを言ったとは思わないからだ。
「魔法を使うようになってから、特に力が湧いてくるの」
「魔力を循環させると健康になるとか? そうだといいね。私たち、魔力はいくらでも使えるから」
おしゃべりしながら、サラの部屋に戻る。まだネリーは戻ってきてはいないようだ。
「収納ポーチにはね、ワイバーン一頭分が入るんだよ」
「ワイバーンの想像がまずできないよ」
「そりゃそうだ」
アンと話していると、この世界を初心者からやり直している気持ちになって楽しい。
「机でしょ、椅子でしょ」
「そんなものまで入ってるの?」
「うん。草原でも調薬することがあるからね。それからこれがギルドのお弁当で」
サラは出した長机の上に、ギルドのお弁当を載せる。
「わあ、かわいいしおいしそう」
「中身はコカトリスだよ」
「うん、想像できない」
「尻尾がヘビなんだよ、あ」
その時、サラの手に一番最近手に入れたものが当たった。
「これ」
「ギャーッ!」
「ワー!」
アンが叫ぶものだからサラも驚いて思わず叫び、手に持ったフレイムバットを落としてしまった。
「ギャーッ! 動いた!」
「動いてない! 落ちただけだから!」
バンとドアが開く。
「どうした!」
あたりを警戒するネリーに、サラはあわあわして床に落ちたフレイムバットを指さした。
「うっかりこれを出しちゃって」
「なんだ、フレイムバットか」
アンはいつの間にかベッドの上に飛び上がって、今にも叫びだしそうな口元を両手で押さえている。ネリーは気の毒そうにアンを見ると、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だ、アン。こいつは既に死んでいる」
「いやーっ!」
結果大騒ぎになってしまって、クサイロトビバッタで大変なご領主夫妻を煩わせてしまったサラはいたく反省したのだった。
「ごめんね、アン」
「こっちこそごめんなさい。黒かったからつい、あれを連想してしまって。よく考えると、初めて魔物を見せてもらえて、とても嬉しかった。確かにあんな大きなコウモリはいなかったもの」
「はあ、せめて見せ方を考えるべきだったよ」
夕食の席で改めて謝罪したサラである。
倒れるように休んでいたクリスも、夕食の頃にはいったん起き出し、風呂にも入ってすっきりとした顔で夕食に参加している。
もっとも、いつもと違ってネリーの隣ではなく、ラティの隣の席である。
ネリーの隣はここのところずっとキーライで、今日の夕食の席でもクリスに譲る様子はまったくなく、クリスは不満そうにしながらも恩師に失礼な態度はとれないといった様子だった。そんな大人の駆け引きは、サラとしては、いたたまれないようなむず痒いような微妙な空気である。
会話には参加せず静かにカトラリーを使っているクリスの表情は変わらないが、サラにはわかる。
「すごい動揺してる」
思わず口に出してしまい、アンと小さな声でやり取りすることになる。
「サラ?」
「なんでもない」
サラ的には微妙な雰囲気の夕食は終わり、明日の打ち合わせをして部屋に戻ることになった。
「ネフェルタリ。部屋まで送ろう」
この数日のように、キーライがネリーをエスコトートしようと腕を差し出した。
「待ってください。その役割は私がします」
テーブルの向かい側で、クリスががたりと音を立てて椅子から立ち上がった。
腕を差し出したまま、キーライが片方の眉を大きく上げた。
「必要ない。ここはパートナーの私が」
「ネフのパートナーは私です!」
クリスが人の話をさえぎってまで大きな声を出す瞬間を初めて見たサラは、目を丸くした。
「いや、ちょくちょくさえぎられてはいるな。まったく人の話を聞かない時も多いからな」
サラのぼやきは、緊迫したこの状況では誰の耳にも入らないようだった。
「どういう権利があってだ?」
「権利、とは……」
キーライとクリスの間に挟まって、ネリーがうんざりした顔を隠していない。
それにもかかわらず、キーライとクリスの言い合いは止まらない。
「ネフェルタリは独立した一人の女性であり、婚約者も夫もいない。君に何の権利がある」
「それは……」
「現にこの数日間、君がいなくても彼女は社交面でも何も困っていなかった。騒ぎ立てるのはやめなさい」
何も言えなくなったクリスを見て、サラはクリスを黙らせることができる人がいることに心底驚いた。
「はあ」
間にいたネリーが、大きなため息をつく。
「やっと姉様に、私はもう世話をする必要のない大人だと認めてもらったというのに。お前たちはいったい何なんだ。私は骨付き肉か?」
サラの頭に、サラがあげた骨付き肉に飛びついて奪い合う高山オオカミの姿が浮かび、笑い出しそうになったが我慢する。
「私は誰の世話もいらぬ」
ネリーはキーライの手を取らずにすっと立ち上がった。
「キーライ。この数日間、盾となってくれたことには感謝する。だが、婚約者候補は去った。もう結構だ」
ぴしゃりと言い捨てると、一人すたすたと二階に向かった。
キーライは肩をすくめると、何事もなかったかのようにゆったりと椅子に座り直す。
そして、ネリーを追って駆けだそうとしたクリスに、追い打ちのように声を掛けた。
「クリス。同じことを繰り返すつもりか?」
「くっ」
クリスは悔しそうに唇を噛むと、ネリーの後を追って部屋を出て行ってしまった。




