出発しているはずの私たち
クサイロトビバッタの生息地までは馬車で二日である。
それはすなわち、身体強化なら半日で行けるということでもあるが、緊急でない限りそんなことはしない。
一晩明けて、朝食の後、いつもの格好で馬車に乗ろうとしたネリーは、ラティーファに慌てて止められている。つまり同行しているサラも、ついでにハンターも騎士隊も一緒に止められているというわけである。
「ネフェル、あなたまだたった一日しか滞在していないじゃない! せっかく久しぶりに会えたというのに、もうお仕事に行ってしまうなんて、寂しすぎるわ」
確かに、依頼を受ける前は、単に姉に会いに行くという話ではあった。
「ですが、姉様。私も今や、ハイドレンジアの副ギルド長という責任ある立場にいます。これは南部の総ギルド長の兄様に頼まれた仕事でもありますから、休むというわけにはいきません」
「セディに頼まれたなら、融通が利くでしょう、あなたのために集まっている人たちが大勢いるのよ?」
「ですから姉様……」
実はネリーは、こんなふうに説得されるのには弱い。自分の意見を押し通すのが面倒になってしまうのだ。
「仕事が終わったら、帰りに少し長く滞在しますから」
「それでは来てくださった方々が帰ってしまうでしょう」
この時点でネリーは黙り込んでしまった。普段なら無視して出発するのだが、さすがにそれはできないのだろう。
サラがハラハラと見ていると、ライがため息をつきながら、一歩前に進み出た
「ネフェル。ここはラティに譲ってはどうだ。代わりに私が行こう。仮にもハイドレンジアの代表でもあるしな。私が行けば、ウルヴァリエの家の者に任せたいというセディの意も汲むことになる」
「しかし」
それでも抵抗しようとしたネリーに、近づいてきた人がいる。
「ネフェルタリ」
昨日サラも親しく話した、クリスの師匠のキーライだ。今日はきちんと薬師のローブを身に着けている。キーライは、ネリーに近づいてその腰にすっと手を回し、引き寄せた。
あまりに自然にそうしたので、ネリー自身でさえ動けないままだった。まるで恋人同士のように親しい距離に見える。
「なに、数日のことだ。私もあなたと、もう少し交友を深めたいと思っていた」
「え、は? キーライ、いったい何を」
さすがのネリーも、クリスの師匠に肘打ちをするわけにもこぶしを打ち込むわけにもいかず、手をわたわたとさせて焦っている。
クリスはといえば、珍しく目を見開いて、ネリーに向かって中途半端に片手を伸ばしたままの姿勢で固まったままだ。
そんなクリスにキーライは静かに声を掛けた。
「クリス」
「は、はい」
「ネフェルタリは私が世話をする。君は遠慮せずに行きなさい」
クリスは、ネリーとキーライを迷うように交互に見たが、伸ばした手をぐっと握り一瞬下を向く。
はい、と言うしかない状況だ。
どういうことだと戸惑いながらも、サラは納得できず一歩前に出た。
「ちょっと待ってください!」
誰かがおかしいと言わなければならない。
「私が代理で主張します!」
サラは右手の人差し指をピッと立てた。
「ネリーは南部の総ギルド長から依頼を受けた身。一方で、クリスはネリーの付き添いでやって来ただけであって、討伐への参加は見学にすぎません。ネリーが屋敷にとどまって、クリスだけが現地に行くのはおかしいです」
いつもなら冷静なクリスがそれを主張しないのはおかしいとサラは思う。その上で、家族や師匠に義理があるというなら、サラはやるべきことをやるだけである。
「クリス。私が行ってきますから。ネリーが行かないのに、ネリーの付き添いのクリスだけが現地に行くのはおかしいでしょう」
クリスがあからさまにほっとした顔を見たのは初めてかもしれない。
「お待ちになって」
次に口を挟んだのは、ラティーファである。
最初は面倒くさそうにしていたハンターや騎士たちも、だんだん面白そうな顔になってきているのがサラにはやるせない。
「サラも残るのよ。アンの話し相手になってもらわないと」
「はあ?」
そのアンは、朝早いからか、ハンターたちの出発の見送りには出てきてはいない。屋敷に泊まっている客人たちも同様だ。
「毎日きちんと体を動かせば元気になりますと、昨日お話ししましたよね。それは養育者の仕事だと思いますが」
「そんな、冷たいわ。おんなじ立場なのだから、しばらくお話し相手になってくれたら、アンがどんなに喜ぶことか」
クサイロトビバッタが変異して大発生しそうだから、わざわざハイドレンジアからハンターを呼んだのではないのですかと問い詰めようとしたとき、ネリーが大きなため息をついた。
「すまん、代表の私があいまいな態度で、出発を後らせてしまった」
そしてきっと顔を上げると、ハンターと騎士隊に向き合った。
「個人的な事情で、数日遅れる。私の代わりに、ライの指示に従ってくれ。クリス」
「ああ」
「私は大丈夫だ。行ってくれ」
「わかった。私が行く。サラは残ってくれ。頼む」
依頼がなくても、問題が起きる可能性があるのなら行く。薬師としての使命である。その覚悟があるクリスが残れと言うのなら、サラは喜んで言うことを聞こう。
「わかりました」
だが悲壮感はない。
「待ってるからな!」
と、アレンとクンツが楽しそうに手を振った。サラやネリーにとっては割と深刻なことだが、周りから見たらそうでもないと伝えてくれる人がいる。
こうしてばたばたはあったものの、クサイロトビバッタの討伐隊は無事出発していった。