犬怖い
次に更紗が目が覚めたのは、ひんやりした風が頬に当たったからだ。
「ん、窓が開いてる? え」
しかし目を開けると、そこはどこまでも広がる草原だった。
「私、座ってる」
そして木で作られた階段のようなところに腰かけている。慌てて振り向くと、山小屋のドアが見えた。
つまり更紗は、どこかの山小屋の階段に座っている状態で転生させられたらしい。
「知らない天井とかさ、そのくらいの夢があっていいんじゃないかと思うんだ」
更紗はぶつぶつ言ったが、だれも聞いてやしないのだった。
手元を見ると、女神の言ったとおり、小学生の頃のように小さくなっている。服装は動きやすい少年のものだ。顔の横からサラリと落ちている髪は黒色。
立ち上がってみても、めまいはしない。だるさもない。今からでも全力疾走できそうだ。
周りを見渡してみると、小屋は高い山の中腹に建てられているようだ。家の前の道は緩やかな下り坂になっており、はるか遠くに小さく町のような影が見えた。
「ハイジの山小屋みたい」
視線を手前に動かせば、何かの動物の群れが道を横切っている。
「鹿かな。大きい角があるような気がする」
そして空を見上げれば、大きな翼を広げて何羽か鳥が舞っている。
「鷲、か、鷹かなあ。初めて見た」
しかし何となく翼が小さいような気がするのだが。
「キエー」
「キエー? 変な鳴き声。さすが異世界。え」
大きな鳥は翼をたたんだかと思うと、急降下した。向かう先はさっきの動物の群れだ。
「ええ? さすがに鹿は大きすぎるでしょ!」
しかし鳥はどんどん大きくなり、逃げ始めた鹿を足でがっしり捕まえた。そしてそのまま飛び上がろうとした瞬間、何かがきらりと光った。まるで鏡が日の光を反射したかのように。
「ギエー」
「な、何?」
その声とともに、大きな鳥は鹿ごと地面に倒れた。
いつの間にかそのそばに一人の人が歩み寄り、しゃがみこんで鳥と鹿の生死を確認している。鮮やかな赤い髪を後ろで一つにまとめ、遠目からでも豊かな体つきのその人は。
「女の人、だ」
その人が手を伸ばすと、鳥と鹿はふっと消え去った。
「ど、どこに消えた?」
疑問も解決しないうちに、その女性はすたすたと山小屋に歩いてきた。剣を腰に差している他は軽装の、美しい人だ。そしてその女性の後ろには何かが見え隠れしていた。
「危ない!」
見え隠れしていた生き物は鹿ではない。たてがみのある大きな犬の群れだ。更紗の声に刺激されたかのようにその女性に飛びかかった犬は、しかし、次の瞬間には空を飛んでいた。
「キャウン」
と情けない声を上げながら。
「殴った? あんな大きな犬を?」
剣に触れもしない。女性が軽くこぶしをふるっただけで、犬は飛んで行った。
残りの犬がひるんでいる間に、その女性は山小屋までやってきた。どうやらこの山小屋の主らしい。更紗は階段から降りて、挨拶しようとした。
「あの、初めまして。私、え、ちょっと」
しかしその女性はちらりと更紗を視界に収めると、そのままふいと視線をそらし、やや更紗を避けるように大回りをして階段を昇って行った。きれいな緑の瞳が見えた。
バタン。
そしてそのまま小屋に入ってしまった。
「無視? え? 私、一番必要としてくれる人のもとに落とされたんじゃなかったの?」
「ウウー」
呆然とドアを眺めていると、背後から不穏な声が聞こえた。
そういえば確か、さっきあの女の人が犬を殴っていたなあと更紗は思い出した。そしてその犬は? 飛んで行ったが、倒されたわけじゃなくて。
「しかも、群れだったよね……」
「ウウー」
「わああ」
更紗は後ろを振り返らないまま階段を駆け上がり、ドアをバンバン叩いた。
「開けて! 犬が! 後ろに! わあ!」
「ガウ」
「ぎゃああ」
だめだ。いてくれるだけでいいとか言っておいて、転生初日にもう死んでしまうなんて。更紗はしゃがみこむと目をつぶって手を組んだ。
「短い人生でした」
せめて反撃を? 無理。何かを叩いたことなんて、枕くらいしかないのに。
「おい」
「せめて痛みがありませんように」
「おい!」
更紗は目を開けた。
目の前ではドアが開いており、さっきの女の人が困ったような顔で立っていた。
「わ、犬、そこ、ううって」
「結界があるだろ」
「け、けっかい?」
そういえばいつまでたっても犬は襲ってこない。更紗はこわごわと振り向いてみた。
「ひいっ」
階段からほんの1メートルほどのところで、大きな犬の群れがうろうろしていた。そして更紗が振り向いたのを見て歯をむき出した。
「ガウ」
「いやっ」
更紗は座り込んだまま目の前の女の人の足にしがみついた。
「お前……。苦しくないのか」
「く、苦しいです! 犬怖い!」
恐怖で呼吸が止まりそうだ。更紗は本当は犬は嫌いじゃない。むしろ好きなほうだ。でも、近くで見た犬は大人の身長をはるかに超える大きさで、それが歯をむき出してうろうろしていたら、それをかわいいねとはとても言えないのだった。
「犬じゃなくて、高山オオカミだ。いやそうじゃなくて」
その人は頭に手をやると、その手を困ったようにうろうろと動かした。
「まあいい。もともと鍵はかかっていない。入るといい」
「ありがとうごじゃいます!」
ごじゃいますってなんだ。外見はともかく、中身は二七歳なのに。助かると思ったら急に震えがきた更紗は、女の人にしがみついていた手を離し、何とか自分で起き上がると、ふらふらとドアの中に入った。
「ウウー」
「散れ」
「キャウン」
女の人の一言で犬は去っていった。いや、言葉だけじゃなく、何かが飛んで行った気がするが、とにかく、犬、いや、オオカミは去った。
「ぐえ、ぐすっ」
安心したらなんだか涙が出てきた。女神によると、今は10歳だからいいだろう、ちょっとくらい涙が出ても。
「まあ、そこらへんに座れ」
「は、はい」
更紗は涙を袖でふくと、座るところを探した。
脱ぎ散らかした服。クシャっとした何かの毛皮の塊。茶色くなったリンゴの芯。骨。ほね?
「む、むり」
きっと大切にしてもらえるからって、言ってたのに。
女神はたいてい嘘つきだ。
今日は二話投稿しています(これは二話分の二)
しばらくは金曜日を除いて毎日更新の予定です。