竜の名前の付く羽虫
「まず一歩」書籍7巻は11月25日、
コミックス4巻は同じく11月14日に発売予定です。
「いや、さすがにワイバーンはいないはずだし、渡り竜のすみかももっと南のはず。だったらこれは?」
ビィーンと弦を弾くような音を立てて弾丸のように目の前を通り過ぎていく大きな生物。衝突したら馬車に穴が空きそうだが、見上げてみると、空には何匹も飛んでいる。
「トンボ?」
「そうだ。ハイドレンジア近辺ではあまり見かけない生物だな、珍しい。魔物ではないからダンジョンでも見かけないしな。色からしてムラサキヤンマだろうか。アブやハチなど、害虫を食べてくれるよい生き物だ」
「そうですよね。ただ、ニジイロアゲハくらい大きいだけですよね。ひえっ」
まるでクリスの言葉を裏付けるかのように、一匹のトンボが大きなハチを捕まえてかじりついた。
よい生き物でも大きければ怖い。何かを捕食していたらもっと怖い。ガーディニアではバッタには本当に気を付けようと決意を新たにするサラである。
「そういえば、トンボって英語でドラゴンフライって言うんだったかな」
「竜のような羽虫と言うことか。興味深い名づけだな」
サラが何気なく漏らした言葉を、クリスが聞き取って興味を示してくれた。
「竜に似てるから、というより、不吉な空飛ぶ虫、という意味だったような? でも私の国では好きな人が多かったですよ。大きさはこのくらいでしたけど」
サラの記憶もいいかげんである。そしてサラが人差し指と親指で示した寸法に、クリスはあきれたという顔をした。
「そんなに小さい生き物ばかりでは、ろくに道も歩けまいに」
「確かに大きければよけるのは楽ですよね」
クリスの視点が逆に面白いサラである。
「竜の名前を持つ羽虫、か。サラ、トンボはサラの国では何の仲間だ? 体が三つに分かれていて、足が六本。これもニジイロアゲハの仲間ということでいいか?」
さすがクリスである。サラが少し特徴を説明しただけなのに、もう理解している。
「はい、その通りです」
「ということは、実験対象というということになるな。だが、ここはダンジョンではないし、トンボは魔物でもなく、民の役に立っている生物。どうするか」
麻痺薬と竜の忌避薬が、虫型の魔物に効くかどうか。この間まで、ハイドレンジアのダンジョンでやっていた実験だ。サラは実験のことなど頭からすっぽ抜けていたので、冷静なクリスに感心するしかない。
「ムラサキヤンマの体が気になるのなら、麻痺薬を使った後、解麻痺薬を使ってやればいいだろう」
ネリーの一言で、急きょ実験が決まった。
「クンツ、いいか。あいつらはヘタをすると魔物より動きが速い。直接当てる必要はないから、たくさん飛んでいるところの上で破裂するように撒いてくれ」
「はい。まずは忌避薬からですね」
屋台などで使われているのと同じ、すぐに壊れる素焼きの入れ物に、竜の忌避薬を移し、それをクンツが風魔法をまとわせてトンボの上で破裂させるというやり方だ。
サラは密閉された忌避薬の瓶から、一滴もこぼさないように素焼きの壺に移して蓋をすると、クンツに手渡した。それでも手のひらには花のようないい香りが残る。
この作業をするとき、サラは必ず手のひらの匂いをすんと嗅いでしまう。いい匂いだ。
「虫には効かないんだよなあ。もったいないけど、そりゃ! ああ、意外と低い!」
クンツが風の魔法をまとわせた小さな壺は高く上がったものの、思ったよりトンボが高いところを飛んでいたようで、下の方を飛んでいた一匹のトンボにしか届かなかった。
「仕方ない! 割れろ!」
魔法を攻撃に使ったことのないサラにはどういう仕組みかわからないが、瓶は空中でパンと四散した。トンボは驚いたように飛ぶ高さを変えたが、なにか影響を受けた様子はまるで見られない。
「やっぱり効きませんでしたね」
竜の忌避薬というだけあって、ダンジョンの中でも、虫ではないムカデにでさえ効かなかったし、なんならツノウサギにもヘルハウンドにも効かなかった。その代わり、忌避薬の実験をしていると、かなり遠くのワイバーンでさえ逃げていったのには驚いたものだ。
「じゃあ次は麻痺薬、ひっ」
「うわっ!」
「なんだあれは!」
ビィーンという音とが空に響き渡ると共に、忌避薬のかかったトンボに他のトンボが群がっていく。当然それを許すはずもなく、忌避薬のかかったトンボは素早く群れから抜け出し、そのトンボを追って大量のトンボが空を移動するという、見たこともない光景が目の前に繰り広げられている。
いったい何匹集まって来たのか、冬のムクドリのように真っ黒い群れが形を次々と変えては遠くへと過ぎ去っていった。
サラもぽかんと口を開けてその光景を見上げていたが、人生経験の長いライもネリーも、魔物に慣れているハンターたちでさえも同じように呆然と空を見上げていた。それだけ珍しい光景だったのだろう。
一人冷静なのはクリスだ。
「トンボは竜の忌避薬を好むのか? 竜とはまるで正反対だ。ワイバーンなど、たった一滴の忌避薬にでさえ反応して逃げ出すのに」
先ほどサラが思い出していたのと同じことをクリスも思い出していたようだ。
いや待て、たった一滴の忌避薬?
サラは思わず、自分の手のひらを眺めた。手のひらからは、花のようないい匂いがする。
「ま、まさかね」
トンボたちの饗宴にまぎれて自信はないが、先ほどから、ビィーンという音が背後から聞こえてはいないか。
「サ、サラ」
そう呼んだ声は誰のものだっただろう。
「バリア!」
後ろを振り向いている暇などない。それはただの勘だったが、サラは思い切ってバリアをパーンと広げた。ちょうどフレイムバットの狩りを眺めた夜と同じように。
ガン、ガンとまるで岩石がぶつかってくるような衝撃がなんとなく伝わってくる。
「ひいっ。この勢いなら、ツノウサギなら首が折れてる。なんならワイバーンでも首が折れてるくらいの衝撃なんだけど」
サラは恐る恐る振り返ってみた。
ガン、ガンと至近距離からぶつかっては戻ってくるのは何匹ものトンボで、衝撃をものともしない虹色に光る複眼はまっすぐにサラを見ているような気がした。そのギザギザの歯は、どう見てもサラの頭など一口でちぎり取ってしまうだろう。
「に、におい。匂いも、遮断する! バリア強化!」
ビィーン、ビィーン。トンボたちはその場で戸惑ったようにホバリングすると、やがてふいっと飛び去って行った。
「サラ、急いで手を洗え! そして薬草を手に揉み込め。匂いがまぎれるだろう」
「は、はいー」
「俺も。俺も匂うような気がします」
「もちろん、クンツもだ」
手を洗い終わった後も、しばらくはいつも通りバリアを小さくするのは怖かったし、バリアを小さくした後も、トンボが通るたびにびくびくしたのも仕方のないことだった。
「東部、魔物がいなくても怖い……」
「びっくりしたよな。トンボは俺のこぶしでどこまで通用するか。いや、魔物じゃないから狩ってはいけないんだった」
やはりトリルガイアは油断のできない国だ。だが、サラにとっての心臓が凍るような出来事も、アレンにとってはしょせんこの程度なのである。
それでやっと力が抜けたが、旅の楽しい思い出と言うには強烈すぎる出来事だったのは確かだ。
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