さあ、出発だ
この状況におろおろしていても、サラは筋肉馬鹿という言葉に思わず噴き出してしまった。だがそのサラにクリスが声をかけた。
「笑っている場合ではないぞ、サラ。ネフが忌避薬を投げる前に追いつかねば。何が起こるか見当もつかないのだからな」
「そうでした。あと、アレンも忘れないでください」
クリスはネリー以外のことがすぐに頭から抜けてしまうから困ったものだ。
そうしてサラたちも急いでリクガメの首が見えるところまで走る。
並走しながら見上げると、リクガメの上には小さな人影が二つ見えた。
二人は顔を見合わせて頷くと、大きく手を振りかぶった。
ドシンというリクガメの足音にまぎれて聞こえないが、確かにリクガメの頭に瓶がぶつかり、かすかにしずくがきらめいたような気がした。
ドシン、ドシンと二歩進んで、リクガメは止まった。
「おお、初めて止まったぞ!」
リクガメと同時に距離をとって止まったセディは喜びの声を上げる。
だが、クリスは違った。
「ネフ! アレン! 降りてこい!」
リクガメの上で、止まった首をじっと観察している二人に大声で呼びかける。
その声にハッとした二人が、顔を見合わせて頷いた瞬間だった。
「フシュー」
と、何かから空気が抜けるような音が響いたかと思うと、リクガメは思い切り首をそらし、ありえない角度で頭を甲羅に打ち付けた。
ちょうど飛び降りようとしていた二人は直撃は避けられたがバランスを崩し、そのまま甲羅から落下した。
「ネフ!」
大きな声をあげるクリスと対照的に、ネリーとアレンが落下していくのを黙って見ているサラは、驚きで何もできなかったように見えただろう。だが、サラの頭の中は大忙しだった。こんなふうに危機に巻き込まれたことは、悲しいことだが何度もある。
「立ちすくむな。自分にできることを考えるの」
サラは自分に言い聞かせた。バランスを崩して落下したとしても、あの二人なら空中で体勢を立て直すくらいのことはやる。だが、地面に下りた瞬間にリクガメが動き出したら?
二人が落ちるのは前足のすぐそばだ。もし暴れる足に巻き込まれたら、身体強化していてもひとたまりもない。サラのバリアで守っても、リクガメが触れた瞬間にバリアは消えてしまう。
ならば、やるべきことは、可及的速やかに、ネリーとアレンをリクガメから引き離すこと。
「前にニジイロアゲハでやったはず。投網のように、二人を捕まえる!」
そこまで考え決断するのに、一秒もかからなかっただろう。
もつれあうようにカメの甲羅から落下する二人に、サラは投網のようにバリアを伸ばし、巻き込んだ。と同時にリクガメは甲羅に打ち付けた頭を元に戻し、左足を持ち上げる。
「バリアがカメに触れないように。よし! こい!」
サラを支点にして、ネリーとアレンに伸ばしたバリアをきゅっと縮め引き寄せると、地面にふわっと降ろした。
すっとバリアをとくと、ふらつきながらもネリーもアレンも心得たように立ちあがり、すぐに警戒態勢をとってリクガメのほうに体を向けた。
「サラ、助かった」
「ありがとな!」
その言葉も聞こえないほどに、リクガメは首を振り回しては地面や甲羅に頭を擦り付け、苦しそうにドシンドシンと足踏みを繰り返している。
「距離をとれ!」
セディの声と共に全員走り始め、いつでも逃げ出せる距離をとってから止まった。
同時に、リクガメは手足、そして首をきゅっと縮めると、その場から動かなくなってしまった。
「あのままだと踏みつぶされるか、甲羅の下でぺしゃんこだったな」
そんなことを言いながらネリーが額の汗をぬぐっている。サラが手を出さなくても、二人の身体能力ならおそらく無事だっただろうと思いながらも、とっさに自分が行動できてよかったと胸を撫でおろす。
「サラ、改めて礼を言う」
「ありがとうな。空を引っ張られる感覚は不思議だったけど、ニジイロアゲハの気持ちがよく分かったよ」
こんな時でも通常通りの二人に脱力するが、安心もしたサラである。
「だが、状況は芳しくない」
クリスが腕を組んで、動かなくなったリクガメを観察している。
「なぜだ。タイリクリクガメに、竜の忌避剤が効くとわかったではないか。それも激烈に」
たった二瓶の忌避薬のみで動きが止まったのだ。魔法も攻撃もサラのバリアも効かなかった相手に初めて有効な手段ができたことをなぜ喜ばないのか。セディの疑問はその場の全員が思っていたことだっただろう。
「確かに効果はあった。タイリクリクガメを止めることに成功した。だが見てみろ。奴はその場に座り込んだだけで、進路はほとんどずれていない」
「確かにな。その場でばたばたと暴れて、その場で座り込んだだけだな」
「ハンターギルドがタイリクリクガメ相手に何が効くか実験を繰り返していたのはなんのためだ」
クリスの言葉にはサラでさえハッとした。
傷つけるためでも、討伐するためでもない。
「王都に直撃しないよう、進路をずらすため、か」
タイリクリクガメがハイドレンジアから出現したことで、魔の山に北上する際、王都をかする可能性が出てきたためだ。カメに嫌がらせをして、なんとかして進路を少しずらせないかを試していたはずなのだ。
そのまま誰も何も言えずリクガメを観察すること数十分。
ぐっという音が聞こえそうな動きと共に、リクガメが手足を踏ん張り、体を起こし始めた。
「頭を甲羅にぶつけたのは、我らを攻撃するためではなく、刺激物を拭い去ろうとしたためか」
ネリーがそう言う通り、タイリクリクガメは忌避薬をぶつけたネリーとアレン、そしてサラたちには目も向けることもなく、本来進むはずだった進路へと足を進め始めた。
「忌避薬を直接ぶつけても、時間稼ぎにしかならないのでは意味がないかもしれない。ただし、よほどのことがない限りこちらに反撃はなさそうだということがわかったのは朗報だろう」
ネリーの言葉にセディは大きく頷いた。
「事前に住民を避難させるしかないだろう。だが、王都の東部の街並みには相当の被害が出そうだな」
セディは大きく息を吐いた。
「これでハイドレンジアのダンジョン内で試せることはすべて試した。結果をまとめてすぐに王都に報告に出したら、タイリクリクガメを王都まで護送してそれで終わりだ」
王都のことは王都が対処するべし。タイリクリクガメが行ってしまえば、ある意味ハイドレンジアには何の関係もない。忌避薬の実験は成功した。成功したとしても大きな意味はなかったかもしれないが、その場の皆には、できることはすべてやったという満足感が残った。
次の日には、タイリクリクガメはダンジョンの外に出る。ワイバーンやヘルハウンドの出た地上部の揺らぎの場所には、一目タイリクリクガメを見ようとたくさんの人が集まっていた。
「もっと離れてくださーい。離れていても十分見える大きさですからねー」
その人々に声をかけて距離をとらせているのは南方騎士隊の人たちである。
領主であるライオットは最初、タイリクリクガメがダンジョンから出て、確実に魔の山へと進路を取るまでの間、万が一のことがないように、ハイドレンジアの町の住人すべてを避難させるつもりでいた。
だがダンジョン内での観察の結果、万が一のことはあり得ないだろうということになり、適切な距離なら見学も許すという方針に変わった。現代の日本なら、まずありえない判断だなとサラは思ったが、そもそも日本には魔物がいないということを思い出して苦笑する。
「まるで映画みたいな出来事に、主役の一人としてかかわってるなんて不思議だな」
魔物になんてかかわりたくないとずっと思って来たのに、大きな魔物の護送部隊の一員としてこれから王都に向かうのだ。
「映画とは何です? それに、サラは怖くないんですか?」
サラのつぶやきに反応したのは隣にいるノエルである。まだ十三歳のノエルがなぜ護送部隊にいるかというと、「経験を積ませるため」に尽きるらしい。
身体強化が得意なわけでもないので、道中は馬車に乗りっぱなしという厳しい条件だが、それでもタイリクリクガメを観察する機会を逃したくないというノエルの主張に、ライが折れた形だ。宰相家から経験を積ませてくれと頼まれたというクリスも、反対はしなかった。
後輩として親切にしているサラが言うことではないが、みんなこのノエルという少年にはちょっと甘いと思う。
サラは映画についてひととおり説明した後で、怖くないということについてこう説明した。
「ダンジョンの中でずっと観察してきたけれど、タイリクリクガメはただ北に進みたいだけで、私たちのことなんてなんの興味もないみたいなの」
「興味がない? こんなにたくさんの人がいるのにですか?」
「ノエルは、足元にアリがたくさんいたらどう思う?」
「アリですか? え、います?」
ノエルは足元をきょろきょろしてから、はっと気が付いた。
「タイリクリクガメにとって、私たちはアリのようなものということですか」
「そう思うの。私たちだって、目的地に向かって歩くのに、足元のアリなんて気にしないでしょ」
「そんな。私たち人間がこの世界を支配しているというのに」
サラは思わず苦笑してしまった。そして初めて、リアムの弟なんだなあと思った。サラにとっては、自分たちがすべてを管理してあげないといけないという、押しつけがましい考え方をしているのがリアムという認識である。
人間が世界の支配者であるというという考え方は、地球にもあった。その考えのもとに地球の資源を使いつくし、環境を思いのままに変えようとすることを、やっと問題視する世界になりかけていたというのが正しい。
「支配はしていないよ。ダンジョンにしても、そこから得られる恵みを分けてもらってるだけのことだと思うけど」
「でも!」
納得できないという顔のノエルに、サラはもう少し説明を試みてみた。
「支配していたら、渡り竜に困らせられることもないし、そもそも魔物から身を守るための結界箱も必要ないでしょ。一緒に世界に暮らしていてお互いに迷惑な部分は譲り合っているってだけじゃない?」
「魔物と世界を譲り合うなんてとんでもありません」
サラも自分の考え方を押し付けるつもりはないので、手を振ってこの話は終わりと合図した。
「それより、そろそろ出てくるんじゃないかな。ほら、振動が大きくなってきた」
階を渡る時もそうだった。多くの群衆が固唾を呑んで見守る中、ダンジョンで最初にタイリクリクガメを見た時のように、何もないところからにゅっとヘビのようなカメの頭が出てきた。離れていてもその巨大さは想像がつく。ネリーたちハンターが出現地域に控えているから、なおさらである。
そしてあの時のサラのように、群衆からは声ひとつ漏れなかった。驚きすぎて、悲鳴すら出ないのだろう。そして左前足、甲羅、右前足と、タイリクリクガメはその姿を現していく。
そして、その小さな山のような全容が目に入ったと思ったら、あっという間に尾を見送ることになった。そのくらいタイリクリクガメの歩みは速い。出現地帯に控えていたハンターと騎士隊は既にリクガメを追って出発した。
「さ、私たちも付いていくよ」
「はい!」
サラはノエルや他の参加者と一緒に馬車に乗り込んだ。
王都まで二週間の旅の始まりである。