ちょっとそこまで
「あれ。消してないはずなのに」
ドシン、ドシンと振動が足元から伝わってくるし、カメの首は目線の下に存在する。つまり、サラは今タイリクリクガメの甲羅の上にいる。そして、自分の身の周りには確かにバリアが張られているのに、足元だけバリアが消えているような気がするのだ。
サラは座ったまま、地面、いや、カメの甲羅に手を当ててみる。
「消えた……」
手にまとっていたバリアが消えた。
サラは少し考えて、バリアを大きくしてみた。
「上は大丈夫なのに、カメと接している部分だけが消えてる」
「ギエー」
大きくしたバリアに、いつの間にか近づいていたワイバーンがどんとぶつかって、そのままカメの甲羅から落ちていった。
「ああ、もったいない! あ、下のハンターが拾ってくれた。よかった」
アレンがほっとしたようにワイバーンを目で追いかけていたが、サラはそれどころではなかった。
「バリアをいくらカメの甲羅にぶつけても、なんか消えちゃう。なんで? 魔法は効かないから?」
サラは、その後も何度も甲羅にバリアをぶつけてみて、その感触を必死に確かめた。
「魔法が効かない、というか、吸われてる、気がする」
「効かないと吸われるとではどう違う?」
ネリーの疑問に、サラはすぐには答えることができなかった。
「ええとね、魔法の効果がないのではなく、魔法が崩されるというか、バリアを作っているそばから魔力がなくなっていくというか」
この違和感をどう説明したらいいのだろう。
「ふむ」
ネリーはカメの甲羅に目をやると、いきなり片膝をついて、甲羅に手を触れた。
それから触れた手を上に移動させると、こぶしを作り、一気に甲羅に打ち込んだ。
「つっ」
そして珍しく痛そうな声を上げると、呆然とした表情でこぶしを見た。サラがネリーのこぶしに目をやると、少し赤くなってすりむけている。
「ああ、ネリー。大変」
サラは慌ててネリーの手を両手で包み込むようにした。それからはっとしてポーチからポーションを出し、手に振りかけた。
「あ、ああ、サラ。ありがとう」
ネリーは手を開いたり握ったりして確かめている。
「身体強化は魔法だが、強化したい部分にかけるものだ。タイリクリクガメに魔法が効かないといっても、体内にかけた魔法を打ち消すほどではなかろうと思った。実際、甲羅の上までは身体強化で来られたのだし」
ネリーは自分に言い聞かせるように話している。
「だが、甲羅にこぶしを打ち込んだ時、こぶしの表面だけ身体強化が消された気がしたんだ。今ならわかる。サラの言うことが」
それを見ていたアレンが、こぶしをぎゅっと握ると、何かを確かめるようにカメの甲羅に何度も打ち付けた。
それからすっと立ち上がる。
「ネリー、サラ」
サラもネリーもアレンが何を言うのか固唾を呑んで待ち受けた。
「そろそろ壁にたどり着きそうだ。戻ろう。皆も呼んでる」
「そっち?」
サラの力が抜けたのは言うまでもないが、一人だけでも現実的な判断ができてよかったとも思う。カメと一緒に壁の揺らぎに巻き込まれては何が起こるかわからない。
そして情けないことに、ネリーに荷物のように連れてこられたサラは、帰りも荷物のように抱えられて地面に戻るのだった。
「これがワイバーンを二頭も倒した子だとは思えないよな」
ふらふらしてクンツに笑われたって仕方がない。サラにとって身体強化は走るものであって、断じて跳ねるものではないのだから。
「クンツも抱えられて飛んでみたら私の気持ちがわかるよ。それにワイバーン二頭ってなに?」
「さっきも一頭倒してただろう」
「俺が預かっているからな」
ハンターの一人が手を上げて教えてくれた。
「あれはバリアにぶつかって勝手に」
もごもごと言い訳するサラに、ネリーがあきれたように言い聞かせた。
「言っただろう、サラ。お前のバリアは、盾であり剣であると」
「そうだぜ。ハンターならだれもがお前の力を認めてるんだから、卑下しなさんな」
一緒にいたハンターにも言われてしまった。
「それよりほら、見ろよ」
全員が振り向くと、タイリクリクガメが何もないダンジョンの壁に迷わずに進んでいるところだった。
「ああ、ぶつか……らない?」
わかっていても身構えてしまう。タイリクリクガメが音もなく首から壁にめり込み、左足、右足、甲羅、尻尾と消えていく様はなんとも言えない不思議なものだった。
「本当に階層を越えるんだな……」
アレンのつぶやきは、声に出さずともその場にいる全員の思いだった。
「さあ、急いで次の階へ戻るぞ」
ネリーの声に、また皆走り出した。忙しい一日である。
毎日順調に前に進んでいくタイリクリクガメに、ハンターギルドはありとあらゆる攻撃を試してみていた。といっても、倒したいわけではない。魔法が効くか、物理攻撃が効くか、効くならどの部分かということである。
しかし、体のどの部分にどういう攻撃をしても何の反応もないし、傷一つ付けられない。
唯一反応があったのは目を攻撃した時だが、それでさえ、一瞬目を白いものが覆った程度だ。
「瞬膜、か。しかも硬い」
瞬膜とは鳥やトカゲが目を守る第二のまぶたのようなものである。
「瞬膜が出たということは、攻撃は認識しているということか。認識しているが、気にも留めていない、と」
総ギルド長のセディが、リクガメの反応に少し悔しそうな様子を見せる。
「手も足も出ない。こちらがカメのようだな」
サラはうまいことを言うと思ったが、そんなことを口に出す空気ではなかったのでぐっとこらえた。
「明日にはダンジョンを出てしまうが、クリスの忌避薬は間に合うかどうか……」
クリスの開発した竜の忌避薬は在庫がなく、ギンリュウセンソウの採取から始めなければならなかったので、時間がかかっている。悩んだ様子のセディが少しうつむいていた顔を上げると、ぱっと顔を輝かせた。
「いや、間に合ったか!」
階層の入口から、クリスがやってくるのが見えた。このところ夜遅く帰ってきているので、ライのお屋敷でも顔を合わせていなかったサラは、クリスと久しぶりに会ったような気がする。
だが、サラなど目にも入っていないのがクリスという人である。
忌避薬を届けに急いでいたのかと思えば、まっすぐにネリーの元に向かい、抱きしめるかのように手を伸ばした。
「ネフ! 忙しくて毎日ネフが足りなかった」
「いいから忌避薬を出せ」
その手はネリーに無情にも振り払われ、加えてまるで強盗のようなセリフを浴びているので、サラはちょっと胸がすっとする思いである。
「仕方がない。苦労したのだぞ」
ぶつぶつ言うクリスは、しぶしぶポーチから忌避薬の瓶を二つ出した。受け取ったネリーはセディにそれを見せた。
「兄様。これをどうする」
「そうだな。クリスはどう考える」
質問がクリスに戻るのであれば、ネリーを挟む必要はなかったんじゃないかなと思うサラだが、クリスはネリーにデレデレとしていた表情をすっと戻すと、きちんとセディに向き合った。
「渡り竜には、遠くから焚火の煙で匂いを送るので十分だった。だが、そんな悠長な実験をしている暇はないのではないか」
「そうだな。時間が足りない」
「では」
クリスはその場にいたハンターたちの方に振り向いた。
「王都の騎士隊の真似をしてみるのがいいと思う。あー、騎士隊の麻痺薬の検証に参加したことがあるのは……」
「私だ」
「俺もです」
クリスの問いかけに答えたのは、ネリーとクンツである。ハイドレンジアから指名依頼で呼ばれたのはネリーだけだったし、依頼に応じて自主的に参加したのは、この場ではクンツだけだったからだ。
「俺は参加はしてないけど、サラの護衛をしながら、間近で見てはいた」
これはアレンである。
「だけど、騎士隊は麻痺薬をくくりつけた弓矢を使っていた。ここに弓を使うハンターはいないと思うけど」
真似をするのは難しいだろうという、アレンの意見だ。
「確かに、弓を使うのは難しいだろうが、魔法師ならつぶてを飛ばす要領でできないか? あるいは身体強化で投げつけるのもよいと思うが」
クリスの提案に、セディはもうずいぶん先まで進んでいるリクガメの尻尾の先を睨んだ。
「ベテランのハンターならできるだろう。ただし、あれが止まっていればの話だ」
「む」
身体強化した人が走ってやっと並走できる早さである。しかも走りながら、二階の屋根ほどもある高さの頭に正確に瓶を投げつけなければならない。
「いや、クリス。すまない。薬を作るのがクリスの仕事で、その薬をどう使うかは我々ハンター側の仕事だ。責任を押し付けるようなことを言ってすまなかった」
セディがそう謝罪し、何かを払いのけるようにかすかに頭を左右に振った。払いのけようとしたのはきっと自分の甘えた気持ちに違いない。
「では私が」
「じゃあ俺が」
同時に上がった声は、ネリーとアレンのものだった。お互いに顔を見合わせている。
「弟子の分際で、でしゃばるな。ここは師匠に譲れ」
「師匠こそ、そろそろ体を大事にしたほうがいいぞ」
「ひえっ」
ひえっと声が出たのはサラである。なぜ突然、師弟対決が始まったのか理解できずにおろおろしてしまう。しかも、二人とも普段言いそうもない乱暴な物言いである。
「ネリー。その瓶を一つ俺にくれ」
「しかしな。正直、危険すぎる」
何をやろうとしているのかはわからないが、危険だから、お互い自分がやると言っているらしい。
「ネリーだってわかってるんじゃないか。だったら、二人でやろうぜ。どっちかが当たればそれでいいだろ」
「ふむ」
二人だけで通じる話にサラは付いていけない。
「よし、では行こう」
「ああ」
「ちょっと待て!」
さすがに制止したのはセディである。
「お前たち何をしようとしている」
ネリーは忌避薬の瓶を持っていないほうの手をひらひらと揺らめかせた。
「ああ、ちょっとカメの上に」
タイリクリクガメの上はちょっとお散歩にという感じで行くところではないとサラは言いたい。
「甲羅から投げれば走らなくて済むだろ」
そしてタイリクリクガメの上は走らなくて済むために登るところではない。
「な! そんな無茶を!」
とっさに二人を引き止めようと伸ばされたセディの手をひらりと交わして、師弟はタイリクリクガメのほうに風のように走り去った。
「あんの筋肉馬鹿どもめ!」