再び黒いもの
黒いオオカミの首と前足だけが暴れているのは見た目にも気持ち悪いし、なにより暴れる感触がぞっとする。
すかさずネリーが左側を確保すると、サラに合図した。
「こちらに解放してくれ」
「うう、はい」
バリアを右側に寄せ、左側を開けると、数頭のヘルハウンドが飛び出し、ネリーに瞬殺された。
ネリーはそのままオオカミが出てきた穴のある壁にすたすたと歩み寄ると、いきなりそこを殴りつけた。
「いっ!」
さっきから自分がちゃんと言葉を発せていない気がするサラである。そして穴を確かめてみたいなら、殴らずにそっと手を差し込めばいいのにと思うのだった。見た目通り壁だったら怪我をしてしまうではないか。
ネリーの手は、そのまま壁に突き刺さっているように見えた。
「ふむ。なにもない。空間だけがある」
「ネフ、入ってはならぬぞ」
気が付くといつの間にかクリスがネリーの隣にいた。その左手はネリーのお腹の前に伸ばされ進路をふさいでいる。
「なぜだ」
「魔物が通れたからと言って、人が通れるとは限らない。そもそもこの穴が第二層からつながっているかどうかもわからないのだぞ」
「む」
さすがクリスである。ネリーが無茶をせずにすんでサラはほっとした。
「とりあえず、この場所には結界箱を設置しつつ、ベテランのハンターを見張りに置くとして、それがいつまで続くか。それに穴がこの一か所だけとは限らないし、かえって問題が大きくなってしまったぞ」
頭を抱えるザッカリーを気の毒だとは思うが、サラとしては、自分の仕事は果たしたことになりほっとする気持ちでいっぱいだった。ザッカリーがサラのことを意味ありげに見るまでは。
「じゃあサラ、すまないが」
「はい?」
とても嫌な予感がする。
「今日はこれから、一層の残りの部分を。明日からは二階層から順に、壁の確認をよろしく頼む」
「は、はい」
できるのがサラしかいないのだから、仕方がない。シロツキヨタケの抽出をしたかったなあと思いつつ、それからしばらくはネリーと共にダンジョン通いの日々が始まったのだった。
そうしてサラは結局、ニジイロアゲハの時でさえ行ったことのなかった深層階まで行くはめになった。真っ白なギンリュウセンソウの群生地を見られたことだけはよかったが、ヘルハウンドの群れに囲まれたり、懐かしのワイバーンに襲われたりと散々だった。もちろん、すべてサラの鉄壁のバリアに阻まれたのだが、壁の感触を確かめるために感覚を付けているサラにとっては衝撃の出来事ではあった。
しかし、サラが自分の仕事で悩んでいる横で、ザッカリーやネリーなどハンターギルドの面々がもっと深刻な悩みを抱えていては、やりたくないなどとわがままを言うわけにもいかない。
「深層階の壁にまで穴が開いているとはどういうことだ。深層階の下に何かあるとでもいうのか」
「セディ兄様によると、近隣のダンジョンはいつも通りだというしな」
「引き続き王都に報告だな」
ダンジョンの問題について真剣に話す二人は、まるでローザハンターギルドのジェイとヴィンスのようで、サラは懐かしくも楽しい気持ちになった。
ローザは、王都は王都、ローザはローザとしてあまり王都とはかかわりがなかったように思うが、ハイドレンジアはどうなのかと、その日帰ってからサラはネリーに聞いてみた。
「ローザはハイドレンジアのように、貴族が治めているわけではないからな。中央に対する忠誠心はあまりない」
思い出してみると、ハンターギルドの出来事ではあるが、騎士隊への扱いも散々だったような気がする。
「ハンターギルドもここに比べると格段に実力のある者が多い。たいていのことは王都の助けがなくてもなんとかなるし、自分たちは強いという誇りもある」
「ハイドレンジアには王都の助けが必要ってこと?」
「そういうわけではないが」
ネリーは楽しそうに口の端を上げた。
「ザッカリーも私も面倒ごとは好かん。誇りなど、腹の足しにもならない。つまり、責任は王都に押し付けるに限るということさ」
「なるほど」
二人とも不器用で真面目に見えるが、本当は狩りだけしていたいハンターなのだ。なぜ王都に報告と言ったのか、サラはやっと納得したのだった。
ダンジョン深層階まで確認して、お役目が一区切りついたサラは、次の日には薬師の仕事に戻っていた。さっそくモナが話しかけてくれる。
「せっかくハイドレンジアにきたのに、サラと一緒に仕事をしないまま帰る羽目になるかと思ったわ」
「あれ、そんなに短期間の予定だった?」
「そういうわけじゃないけど、サラの方がいつまでかかるかわからなかったんだもの。ちょっと寂しかったわ」
「ほんと?」
会いたがってくれる友だちとはいいものである。サラは胸がじんとした。
「僕も寂しかったです」
「ハハハ。ノエルもありがとうね」
素直なノエルの肩をパンパンと叩いて、サラは満面の笑顔である。会いたがってくれる後輩もいいものである。そんなサラたちにヘザーが冷静に指摘した。
「さあ、サラ。仕事を始めるよ。サラが休んでいる間にシロツキヨタケの研修、始めちゃってるんだから」
「ヘザーのほうがハイドレンジアの薬師みたい」
サラは口を尖らせながら、わいわいと研修に参加した。ダンジョンの異変は気になったが、サラは薬師である。ダンジョンのことはハンターギルドに任せるしかない。
そんなふうに薬師修行に励んでいるある日のこと。
向かいで作業をしていたノエルがふと顔を上げた。
同じように、薬師が何人も店の方に顔を向けている。そこでようやっとサラも、外の通りが騒がしいのに気が付いた。
「なにかしら」
薬師ギルド長のカレンが眉を顰めると、店から慌てて売り子の薬師が飛び込んできた。
「大変です!」
「いったい何ごと?」
冷静なカレンに対し、薬師は顔が真っ青である。
「魔物が、魔物が外に」
魔物が、外に。
サラは首を傾げた。ローザでは草原にツノウサギがたくさんいたので、魔物はそんなに珍しいものではなかったからだ。ここら辺ではめったに見ないが、ツノウサギも草原オオカミもいることはいる。何をそんなに騒いでいるのだろうか。
「ま、真っ黒で大きいオオカミが、町の通りにいるんです!」
真っ黒なオオカミ。
ヘルハウンド。
すなわち、ダンジョンがあふれたかもしれない。
一瞬でいろいろなことがつながったサラは、持っていた調薬のスプーンをそっとテーブルに置いた。
「行ってきます!」
「サラ!」
ノエルの引き留めるような声にもためらわずに外に飛び出すと、信じられない光景が広がっていた。人が逃げまどうハイドレンジアの町を楽しむかのように、真っ黒なオオカミがうろうろしている。
サラは一瞬で状況を見て取った。信じられない光景と言っても、それはハイドレンジアだからだ。もしここが魔の山だったら? サラは目をつむり、魔の山の管理小屋のドアを開けたところを思い出してみた。
高山オオカミが寝そべり、オオツノジカの群れが遠くを横切り、空を見上げればワイバーンが飛んでいたではないか。
サラは目を開けて空を仰ぐとパチパチと瞬きした。
「空にワイバーンがいるのは同じだよ……」
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