まっくろな二人
それから数日後のことである。
サラが今日最後の魔力薬を成功させ、ポーション瓶に慎重につぎ分けていた時、薬師ギルドの店先が急ににぎやかになった。
「アレンかな」
それなら顔を見せるだろうと思ったが、キャーとかギャーとか言う声が気にならないでもない。それでも全部の瓶にきちんとつぎ分け終わるまで我慢した自分を褒めつつ、サラは作業場の入り口を振り返った。
「ネリー! と、え?」
ネリーはどんな姿でも見たらわかる。つまり、作業場の入口に立っているのが薄汚れた赤毛で毛先がぼさぼさで服も顔も煤まみれの人であってもだ。
だが、ネリーの隣にいる全身真っ黒の人は誰だろうか。ぽかんと口を開けたサラの目と、その人の薄水色の目が合った。
「まさか、クリス?」
「ネフの隣を許される男が、私以外にいるか」
「ああ、クリスだ」
真っ黒な顔でも心外だという表情をしているのが伝わってくるのは、さすがに付き合いが長いからに違いない。
「おかえりなさい! でも、いったい何があったの?」
サラは急いでネリーに駆け寄り抱き着こうとしたのだが、直前で壁に当たったように一歩下がってしまった。
「くっさ!」
普段のサラなら、多少悪臭がしていようがどうしようが、人に臭いなどと失礼なことは言わない。まして親しい人には決して言うはずがない。だが、失礼だと思う間もなく口からその言葉が滑り出てしまうほど、激烈な匂いがした。
狩りをして汗をかいているのに一週間以上お風呂に入っていないだろう匂いだけならともかく、強烈な花の匂いに焚火にいぶされたような匂いまで漂い、それがないまぜになって目が痛い気がするほどだ。
「そんなにか」
袖の匂いをクンクンしているネリーはとてもかわいいけれど、臭いものは臭い。
「うん。二人とも、まずはお風呂に入ったほうがいいと思う」
「しかしな」
クリスが一歩前に出てきたのでサラは思わず一歩下がった。
「忌避薬を振りかけて燃やすと、ワイバーンはその煙も嫌がることがわかってな」
「その実験のために焚火をし続けて、自らも燻製状態になったというわけですね。さすがクリス様です」
「敬称は不要だ」
「そうでした、クリス」
汚れて真っ黒なクリスにも頬を赤らめるカレンを見て、ファンってすごいとサラは思う。
「とはいえ、落ち着いて話すためにも、汗を流して着替えてはどうです? 薬師ギルドにも一応そういう設備はありますから」
忙しかったり研究が山場を迎えたりすると、泊まりこむような時もあるらしく、そのための設備だそうだ。
「ではネフから」
「そうさせてもらうか」
着替えは収納ポーチに入っているので、ネリーはそのまま浴室に案内されていった。
「その間クリスは座っていたらどうですか」
「いや、さすがにあちこち汚したくはないのでな」
自分が真っ黒だという自覚はあったようだ。
「忌避薬そのものは完成しているから、それをどう空を飛ぶ竜に使うかだが、それが難しくてな」
「そう言ってましたね」
サラが、招かれ人として魔法を存分に使えば、忌避薬を望みの方向に拡散することは可能だ。だがそれをしてしまうと、今度はネリーにではなくサラに頼り切ることになってしまう。
騎士隊だけ、あるいはそれに加えて王都にいるハンターだけで渡り竜に対処できるようになるのがクリスの目的なのだ。
「あの愚かしい騎士隊の真似をするのはどうかとは思ったが、忌避薬の瓶を投げてワイバーンの側で魔法で破裂させるという方法も取ってみた。が、ワイバーンがあまりに驚いてめちゃくちゃに暴れまわるものだから、ハンターたちが大混乱で怪我人も出るありさまでな」
その話はネリーから聞いたが、聞いたのは大混乱で面白かったということだけだ。怪我人まで出ていたとは思わなかった。
「普段空高いところを飛んでいるワイバーンが低空を飛びまわったり地面に降りたりしていたらそれは混乱もするでしょうね」
「なに、優秀なハンターならそのくらいたいしたことはなかろう」
「ネフェルタリをハンターの基準にしてはいけませんよ。そのせいで、薬師ギルドがダンジョンで実験をするときは事前に申請をと言われてしまいましたからね」
カレンが苦笑しているが、今回の実験も申請のうえで行ったものだそうだ。
「最初に石でやった原始的なやり方も同じ。要は忌避薬を作ったものの、効果が強すぎるのだ。それは精製する前のギンリュウレイソウを直接使っても同じでな」
「それで生えてる上空でさえワイバーンが飛ばないんでしょうかね」
サラの質問に真っ黒な顔が頷いた。
「人間には感じられないくらいの微量な香りでも反応するようだ。おお、ネフ。いつにもまして美しいな」
「汚れを落としたらさすがにな」
いつもの賛辞もさらりと流したネリーだが、クリスへの対応も少し優しくなっていると思うサラである。
「では私も行ってくる」
交代でクリスがシャワーを浴びに行った。
「ネリー、髪がまだ濡れてる」
サラはポーチからタオルを出すと、クリスが遠慮した椅子にどかりと座ったネリーの後ろに回って、雑に結った尻尾の部分をきゅっきゅっと拭いた。
「ありがとう、サラ。このままにしておいたらクリスが拭くと言ってうるさいからな。助かる」
「クリスがどうとかじゃなくて、風邪を引かないようにだよ、まったく」
クリスのうっとうしさにネリーが慣れてきているのが手に取るようにわかる。
「ところで、クリスはどこまで話した?」
「今までどう失敗してきたかのところまでです」
カレンがサラの代わりに答えてくれた。出会いは険悪なものだったが、シロツキヨタケの件から、カレンの態度は軟化していたし、今ではお互いに存在を認め合っているといったところだろう。
「私が代わりに話すのもなんだから一言でまとめると、煙を使うと高確率でワイバーンの方向を変えられるということがわかったぞ」
「じゃあ、実験は成功ですか」
「ああ。しかも少量の忌避薬ですむらしい」
「まあ」
今までクリスに付き合って立ったままだったカレンも椅子を引いてほっとしたように座った。
「ハイドレンジアの優秀な薬師がいてこその成功だと、クリスも喜んでいたぞ」
「それ、直接聞きたかったけれど、クリス様は言わないでしょうからね」
カレンはちょっと残念そうだが、忌避薬の制作にかかわっていた薬師たちはネリーの言葉だけでも皆嬉しそうにしていた。
「あとは、これをどう提案するかよね。ライから現騎士隊長に提案してもらうのがいいんだけれど、現騎士隊長はライには引け目があるらしくて、素直に聞いてくれるかどうか」
「引け目?」
サラは何のことだろうと首を傾げた。
「前の騎士隊長は優秀だったと言われ続けたらそうなると思うわ」
確かに、騎士隊の行動を見る限りあまり優秀そうには思えないとサラは納得した。
「王都の薬師ギルド長はクリス様の先輩にあたる方だから、薬師ギルド長経由で依頼するのがいいかもしれないわね」
「後輩じゃなくて、先輩ですか?」
「そう、先輩。クリス様はあまりに優秀で、年上の人たちをだいぶ飛び越えて長になっちゃったから」
サラはその話を聞いて逆に心配になった。
「それこそ引け目を感じてるんじゃないですか?」
カレンは首を横に振った。
「薬師は基本的には実力重視だもの。クリス様をライバル視できる人はそうはいないわ。もちろん、カメリアのギルド長のように野心的な人もいるけれど」
風の噂によると、カメリアのギルド長は一度王都に行ったことなどなかったことになっているらしい。つまり、あのままちゃっかり薬師ギルド長として働いているということだ。
「テッドは大丈夫かなあ」
あの性格とはいえ、いやあの性格だからこそ人とぶつかって苦労してはいないだろうかとサラは心配になる。
「私は直接は面識がないのだけれど、クリス様さえ困らせていたというある意味伝説の薬師ね」
カレンの声が笑いを含んでいる。
「あれだけ困らされたというのに、サラは優しいな」
ネリーの声にはあきれがあった。そこにクリスが戻ってきた。
「ネフから聞いたか」
「煙を使うと高確率でワイバーンの方向を変えられるということがわかったと、そこまでです」
「うむ。さすが私のネフ。簡にして要を得ている」
「お前のではない」
ネリーの突っ込みももはや力がない。というかネリーの性格から言ってだんだん面倒になってきているのだと思うサラである。
一つの焚火に、竜の忌避薬をどのくらい使うのか、王都の周りで使うとしたら全体でどのくらい必要かなど薬師らしい会話が繰り広げられるのを聞きながら、サラは魔力薬を作っていた道具を片付け始めた。もう一週間以上、成功を重ねていて、あと一週間成功が続いたら薬師を名乗っていいと言われている。片付けの手も軽くなるというものだ。
「もう一つ二つ実験したいことがあるから、それが終わったら今年の渡り竜討伐に参加させてもらうようにあちこちに働きかけるとするかな。面倒だがな」
クリスがはっきりと面倒だと口に出すことは珍しい。研究ややるべきことには決して不満など言わないからだ。ということは、クリスであっても人との交渉はやっぱり嫌なんだなとサラは思った。
「クリス、そういえばサラが魔力薬の作成に成功しましたよ」
カレンの言葉にクリスが慌てて椅子からがたりと立ち上がった。ネリーがつられて立ち上がるのが見える。
「やっとか!」
サラは思わず自分の頬がぴくぴくしていないか確かめそうになった。そう、クリスはこういう人なのである。
サラはハイドレンジアで修業できて本当によかったと思う。なぜなら、普通というのがどういうものかを見ることができたからだ。クリスのもとで修業していたら、魔の山の暮らしを普通と思っていた過去の自分の二の舞になってしまっていただろう。
「カレン、つまり?」
ネリーの質問にカレンは笑みで答えた。
「この調子ならあと一週間で薬師って名乗れるってことよ」
「ほんとか! サラ、すごいぞ!」
ネリーは大きな一歩で近づくとサラを子どものように抱き上げた。
「えへへ。私も頑張ったよ」
サラはなんだかくすぐったい気持ちで顔をだらしなく緩めた。
「私の弟子だからな。よくやった」
ネリーに下ろされたサラにかけられたクリスの言葉は本当にクリスらしかったが、その顔にはちゃんと喜びがあふれていたので、サラも素直に頷いた。
「はい。ありがとうございます」
「まずはお祝いだな。町に繰り出すか」
珍しくネリーが誘ってくれたのは嬉しいのだが、サラは遠慮がちにこう答えた。
「うん、でもやっぱり、一度おうちに帰ってしっかりお風呂に入り直したほうがいいと思う」
「そんなにか」
ネリーはやっぱり腕のにおいをくんくんと嗅いでいて、それはとてもかわいいが。
「少しね。ちょっとだけね」
焚火の匂いはなかなか消えないのである。
サラの14歳の秋はそんなふうに過ぎ、ついにサラが薬師の認定を受けた頃、王都から便りが届いた。
一つは薬師ギルドに、一つはクリスに、一つはネリーに、一つはライに、そしてもう一つはサラにだった。