心のおもむくままに
適度に休憩を入れつつも、午後を半ばを過ぎたころ、サラもさすがに疲れてきた。ネリーによると、もう少しでハイドレンジアにたどりつくらしい。
「あの山のふもとだぞ」
ネリーが指し示す方向にはずっと山々が見えていて、それがどんどんと近くなっていた。カメリアは湿地のそばにある町だったが、ハイドレンジアは湖のほとりにあるのだという。
「じゃあ、やっぱりカエルとかがいてじめじめした感じなの?」
「いや、ハイドレンジアはもともとは小さな村で、貴族の保養地として発展した町なんだ。高い山々のふもとに大きな湖があって、夏は涼しく冬は暖かい。風光明媚で、住みやすい町だぞ」
「そうなんだ」
もっと前に話を聞いておけばよかったのだが、旅の途中も充実していて一つ先の町のことを知るので精一杯だったのだ。ネリーの話しぶりだとダンジョン以外には魔物は少なそうで、久しぶりに魔物にかかわるあれこれに巻き込まれずにすむと思うとサラはさわやかな気持ちになった。
このトリルガイアという世界は、とにかく魔物が多すぎる。ダンジョンに魔物がいるのに、ダンジョンの外にも魔物がいるのはおかしいと思う。
山と湖、保養地ときてサラの頭に浮かぶのは、スイスくらいだ。出かけたら疲れて寝込んでしまうサラには、保養地など行きたくてもそもそもたどりつける気がせず、転生前はほとんど行ったこともなかった。この世界でも、旅に出る前までは風光明媚な山に住んではいたが、そこは一歩外に出れば魔物に襲われる世界だったし、そもそも魔の山のふもとには湖などなかったではないか。
そう考えると、今度の町はとても楽しみだ。しかしサラは油断などしない。いい話には裏がある。思い込みだけで判断してはいけない。ここははっきり尋ねないと。
「でも待って。その湖って、やっぱり魔物がいるんでしょ?」
「いや。珍しくその湖には魔物がいないんだよ。魔物のいない山から湧き出る水が溜まってできた湖だから、清涼で魔物が住めないと聞いたような気がするな」
「そんな素晴らしい場所があるんだね」
サラは感動して涙が出そうだ。しかしアレンはサラより現実的だった。
「そんなわけないだろ、サラ」
「なんでそんなこというの? 夢を見させてくれたっていいでしょ」
「いや、だってなんで俺がハイドレンジアに行くのを楽しみにしていると思うんだよ」
「それは」
ハイドレンジアのそばには大きなダンジョンがあるからである。しかも虫系の魔物がいるという、地獄のダンジョンだ。
「でも、私はダンジョンに入らないから、ダンジョンから魔物が出てこなければ問題ないもん」
「そうだな。ハイドレンジアのダンジョンは、最近は魔物があふれたことなどないからな。比較的よく管理されたダンジョンと言える」
ネリーに保証されてサラの顔は明るくなった。
「ほらね」
サラは湖のほとりでのんびりと薬草を採る自分を想像した。魔物が出ないなら、スカートで過ごしてもいい。薬師ギルドに薬草を納めたら、お店でお茶を飲むのもいいだろう。
「ふふっ。いい感じ」
サラはスカートをはいているつもりでくるりと回ってみた。お弁当を持っていって湖を見ながら食事をするのもいい。
「私とサラは、薬師ギルドの手伝いをしようか。薬師ギルドというのはいつでも人手不足だから、きっと歓迎されるぞ」
クリスが当然のようにサラを仲間にしようとする。サラは一応断りを入れた。
「私、薬師になるってまだ言ってませんけど」
「ならないとも言っていないな」
「むう」
それはその通りなのだが、サラはハイドレンジアに行ってから考えようと思っている。ストックの町を出るときにそう決めたのだ。薬師になりたくないわけではない。だが、まだ一三歳になろうかという年で進路を決めることに抵抗があるのだ。自立したいということはすなわちお金をきちんと稼ぎたいということで、それは薬師になることでかなえられる現実的な夢であることは確かだ。
「そうだよ!」
サラは大きな声で叫んだ。ネリーもアレンもクリスも驚いて立ち止まった。
「周りにハンターと薬師しかいないから、その二つしか進路に考えられないのが問題なんだよ!」
他にももっといろいろな職業があるはずなのに、それがさっぱりわからないのが問題なのだ。
「ギルド関係だけでも、鑑定する人がいて、売店の売り子がいて、調理師さんがいて、受付の人がいたよね。別にハンターじゃなくてもいいし、そうだ、服を売っている人もいた」
サラの狭い世界の中でも、ハンターと薬師以外にこれだけの仕事がある。そして厨房の手伝いと売り子は既に経験もしている。
「そうだなあ。私も将来について、騎士隊しか考えていなかったしな。騎士隊でなければ、ハンターになるしかなかった。サラのように考えれば、いろいろな者になれる可能性はあったんだな」
「ネリーは騎士隊希望だったんだ」
サラはそのことに驚いた。騎士隊の手伝いをしているのは知っていたがいやいやだったし、実際麻痺薬を使われるなどひどい目に遭わされているから、嫌いな職業だと思っていた。
「父も兄も騎士隊だったからな。それしかなかったが、若い頃というか最近まではどうしても魔力の圧を抑えきれなくてな。騎士にはなったが、長くは続けられなかった」
ネリーは寂しそうに笑った。騎士だったというネリーの過去を知って衝撃を受けているサラだが、ハンターという仕事はネリーにとっては望んだものではないのかもしれなかった。
「でも今なら、ネリーも騎士隊でぜんぜん問題ないのかな。だって魔力の圧を抑えられるようになったもの」
「そういえばそうだな。食堂にも平気で入れるようになった。若い頃からできていたらどうなっていたか」
「ネフなら騎士隊長も夢ではなかっただろうよ。血筋、実力、すべて揃っていたのだからな」
クリスが当然のような顔でとんでもないことを言ったが、サラも心からそう思う。この数ヶ月、魔の山を離れて共に生活をしてきて思うのは、ネリーは本当に公平で冷静で思いやりのある人だということだ。
教えるのは致命的にへたくそだが、それは別の人がやればいい。
「だが、それを妬むものが多いのもまた騎士隊だ。私はネフがハンターを選んだのは間違いではないと思っているよ。実力がそのまま評価される世界だからな」
「クリス」
ネリーが驚いたようにクリスのほうを見て、ふっと微笑んだ。
「そうだな。ここに来るまでの生き方に何の後悔もない。ハンターを選んだからこそサラにも会えたのだし」
「ネリー」
サラは嬉しくてネリーの左腕にギュッと抱き着いた。そのまま腕を組んで歩く。
「俺とも会えたんだぞ。こんな優秀な弟子はめったにいないんだからな」
「生意気な。だが、アレンと会えたことは嬉しいと思うぞ」
「だろ?」
ここで遠慮したり照れたりしないのがアレンである。ネリーはサラがしがみついていないほうの手でコホンと咳払いをした。
「あー。クリスもな」
「なんだと、ネフ。もう一度言ってくれ」
クリスが心底驚いたという顔をした。ネリーがクリスのことを気にかける発言をするのはとても珍しいのだ。
「なあ、ネフ」
「うるさい。一度でいい」
クリスの要求がかなえられる前に、ハイドレンジアが見えてきた。