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母が死んだ。
そう告げる電話が来た時は、不埒なイタズラ電話か、新手の詐欺かと思った。
しかし電話の主は警察で、近所の市立病院への呼び出しと言う要件だったので、半信半疑のままそれに応じた。
護身用のスタンガンや防犯ブザー等を装備して病院へ出掛け、警察の制服を着た人に案内されるまま母の遺体と面会した。
細いベッドの上で全身に布を掛けられていると言う、ドラマ等で見る遺体と同じ状態で娘を待っていた。
「君のお母さんで間違いは無いかい?」
心痛そうな表情をした警察の人は、白い布を半端に捲り、なぜか顔の一部だけを見せた。
顔が良く見えなくても間違いは無い。
朝、いつも通りに寝坊して朝ご飯を作ってくれなかった母本人だった。
中年のクセに小学生の自分と姉妹の様な体格をしている女性なんか滅多に居ない。
「どうだい?」
改めて訊かれたので、私は頷いた。
「私のお母さんです」
私が自分で朝ご飯を作り、小学校に向かうその時まで、母は布団の中でいびきをかいていた。
だが、今は全く呼吸をしていない。
私の唯一の家族である母は、病院の一室で確実に死んでいた。
それからは知らない大人の人達が色々と手配してくれて、何が何だか分からない内に葬儀が終わった。
葬儀と言っても派手な事は一切せず、お経をあげて火葬をしただけだった。
私は何もせず、それを近くで眺めているだけだった。
だからどこか人事みたいで、悲しみとかを感じたりはしなかった。
一人の食事、一人の就寝、一人の起床。
そんな生活が数日続いても寂しいと感じる事は無かった。
母の死に対する涙も出ない。
あの人は自分勝手で、昼まで眠って夜中まで遊び歩く様な人だったから、娘を放置するのも当たり前だった。
子供に対するしつけも、他の家の事は良く知らないが、恐らくは一般的な物ではなかった。
だから今の状態は我が家の日常の延長だと言えなくもないので、何かを感じる事が無いだろう。
最初はそうタカを括っていた。
でも騒動が一段落し、狭いアパートの部屋で一人座っていると、じわじわと母の不在を実感して来た。
小学生女子がボロアパートに一人残され、今後どうなるのかと考えたのがいけなかった。
一度不安が襲われたら、もう止まらない。
母が遺してくれたお金も、普通に飲み食いしていたら数ヵ月で無くなりそうな額だったし。
いや、家賃を払ったら二ヵ月も持たない。
だからと言ってバイトも出来ない。
私は小学生なので仕事をしてはいけないのだ。
TVに出る仕事なら子供でも出来る様だが、当然ながら私は芸能人ではないので、それも無理。
母の遺影を眺めて途方に暮れているだけで数日が過ぎた。
子供が怖がろうが焦ろうが解決出来る問題ではないので、時間とお金は無情にも消えて行くだけだった。
そんなある日、市の職員の人がアパートに来た。
母一人子一人のはずだった私に身寄りが居たので、その情報を教えに来てくれたのだ。
身寄りの無い子供が行く施設に入れる前に色々と調べたところ、血縁者の存在が判明したとの事。
父は私が産まれる前に行方不明になっていると母から聞かされていたので、その父の足取りが見付かったのかと反射的に思ったが、そうではなかった。
どうやら私には父方の祖父母が居るらしい。
父方の家の存在は母から聞いてはいたのだが、市の職員の人に聞かされるまでその存在をすっかり忘れていた。
母がする話の中にしか存在しなかった物なので、覚えていなくても仕方が無かったのだが。
その祖父母が私に会いたいと申し出て来ていると言うので、それを承諾した。
会った事も無い祖父母を頼るのも不安だったが、少なくとも今の状況よりは良くなるだろう。
数日後に、私が住むアパートにその人が来る事になった。
大人の人に言われるままに色々な手続きみたいな事をしていると、すぐに面会日となった。
私は学校を休み、一張羅を着て身寄りの人を待つ。
水場と居間しかないボロアパートにお嬢様風な白いワンピースは不釣り合いだが、初対面の人には印象を良くしなければ。
それが母のしつけだったから。
時計の針は十時ちょっと前を示している。
もうすぐ夏休みになるくらいの季節なので、こんな時間でも大分暑い。
窓の外は突き抜ける様な青空。
時間の経過と共に気温は更に上がるだろう。
我が家にはクーラーと言う高級品は無いので扇風機でも点けるかと立ち上がった時、玄関ドアがノックされた。
来た。
「はぁい!」
大声で返事をした私は、扇風機のスイッチを押すのを後回しにして玄関ドアを開けた。
私は人見知りをしない方なので怖気付いたりはしない。
そこに立っていたのは、メガネに七三分け、皺の無いスーツ姿の神経質そうな男だった。
「甘衣さん、ですね?」
スーツの男が早口で言う。
この人が私のお父さん? と思ったが、私に全然似ていないし、雰囲気が何だか気に入らないので、すぐに違うなと思い直した。
「はい。そうです」
私が頷いたのを見たスーツの男は一歩下がり、入れ替わりに身体の大きな老人が私の前に歩み出た。
長めの白髪と立派な口髭に全く合っていないアロハシャツ。
お隣の人が見ていたら、変な老人が海水浴のお誘いに来たと勘違いしていただろう。
老人はサングラスを取り、値踏みする様に私を睨め付けた。
その視線には物凄い威圧感が有り、私は思わず背筋を伸ばしてしまう。
学校の廊下で不意に校長先生と出会った様な、妙な緊張。
存在感だけで偉い人だと分かる。
「俺が多蛇宮神治朗だ」
声も渋くて格好良い。
「わ、私は、甘衣神、です。貴方が、私のお爺さん、ですか?」
名乗りを返した後、恐る恐る訊いてみた。
「そうらしいな」
溜息交じりで応えた老人の視線が私の頭を越え、部屋の奥へと向かった。
値踏みをしている様な目をしているが、私はそれに気付かないふりをして半身になる。
「あ、じゃ、どうぞ上がってください。今、麦茶をお出ししますので」
「茶はいらない。要件が済んだらすぐ帰る。俺は忙しいのでな、さっさと話を付けよう」
「は、はい……」
有無を言わさない迫力に押され、三人で狭い居間に上がる。
老人は母の遺影を一瞥した後、ちゃぶ台の前でアグラをかいた。
日本人のクセに畳が全く似合わない老人だな、と思った。
メガネの人は私達から距離を取り、部屋の入り口付近で正座した。
「早く座れ」
やっぱりお茶を出さない訳には行かないよな、と考えながらウロウロしていた私を指差した老人は、せっかちそうにちゃぶ台の対面を指差した。
厳しい声で言われては従うしかないので、扇風機のスイッチを入れて首振り設定にしてから指示された位置に座る。
「名前は、かみ、で良いのか? 当て字とかではなく」
「あ、はい。そうです。『かみ』です。変な名前で恥ずかしいんですけど、父の名前から取ったとかで」
ふむ、と短く頷く老人。
「先日、お前の母からDNA鑑定の結果報告を記した手紙が届いたんだが、お前は何か知っているか?」
扇風機の風で老人の口髭が揺れている。
「いいえ。そう言う話は一切してくれませんでしたから。父の事も、一切分かりません」
言って、上目使いで老人を見てみる。
怖い顔。
孫娘を見る目付きじゃないので、こちらとしても心が開けない。
「そうか。お前は、確かまだ小学生だったよな。なら話さないのも仕方ないか。それとも、俺の返答を聞いてから話そうとでも思っていたのか」
老人は再び母の遺影を横目で見る。
「それで酔っぱらって事故死とは、何とも――」
私は少し悲しそうな表情を作り、老人の言葉を遮る。
神妙な顔になって故人の事を語れば、老人の強面も少しは緩むと思ったから。
「あの……私は母の死因を知らないんです。あまり良い死に方じゃなかったみたいで、警察の人が聞かない方が良いって」
「そうなのか? それ程珍しい死に方ではないと思うんだが……。まぁ良い。まだ子供のお前には親の死は辛いだろうしな。それも致し方ない」
自分の言葉に自分で頷いた老人は、軽く咳払いをした。
「知りたくないのなら、俺がワザワザ言う必要は無いな」
「あの、父の事は何かご存じありませんか? 貴方は父方のお爺さんだと聞いているんですが」
老人の頬がピクリと動いたが、平然を装って応えてくれた。
「お前の父、神太も十年くらい前に死んでいる。こっちの死に方の方が話せないな」
「亡くなって……いましたか。十年前と言うと、私が一、二歳くらいの時でしょうか」
「そうだな。一人息子のあいつが早くに死んで多蛇宮の血が途絶えるかと思ったが……。まさか隠し子が居たとは、な」
老人は私の目を見る。
しかし相変わらず優しそうな色は全く無い。
「DNA鑑定の結果を信じるなら、お前は間違い無く多蛇宮家の血筋だ。だから、お前は俺の孫になる資格が有る」
「資格……?」
変に遠回しな言い方に不自然さを感じた私は、微かに首を傾げる。
「だがその前に、子供には少し不愉快な話をするが、構わないか?」
「はい。母が亡くなって一人ぼっちになった時に、私なりの覚悟はしています」
「そうか。――その母から、多蛇宮家の事をどの程度聞いている?」
「少しだけ。父の実家はお金持ちだから養育費をたんまり払わせる、みたいな事しか言ってませんでした。――本当にお金持ちなんですか?」
私は老人とスーツの男性を改めて観察する。
二人の着ている物は安物には見えないので、金持ちには違いないだろう。
あと、父は史上最低のクソみたいな男だとも言っていたが、これは伝える必要はないだろう。
変な事を言って怒らせたら怖いし。
「やはり娘を多蛇宮家に入れて美味い汁を吸おうとでも思っていたのか。なぜ十年も間を開けたのかは謎だが、今は無視しよう」
老人は語り始める。
まずは父の話。
父は、いわゆるロリコンだったらしい。
多蛇宮家は本当にお金持ちで、その財力を使って年端も行かない少女に手を出していたそうだ。
一人や二人と言うレベルではなく、最低でも十人以上はちょっかいを出していたらしい。
それで沢山の人に恨まれていて、死因もそれに関係していた様だ。
老人も息子の事を最低の人間だと思っていたらしく、早くに亡くなったのは自業自得だと吐き捨てる様に言った。
私には小学校で教わる程度の性知識が有るので、母が父を悪く言っていたのはロリコンを嫌悪した物だと思えば、それなりに理解出来る。
更に父の悪行話は続く。
手を出していたのが幼い少女のみだったせいで、今まで子供は居ないと思われていた。
しかし私の母は二十歳を過ぎても見た目だけなら中学生みたいだったので、それで手を出されたらしい。
目的は当然、私を産む事。
産まれた私をネタにし、お金を強請りたかったんだろう。
「ここまでの話に付いて来ているか?」
「はい。その、それなりに」
自分の誕生が愛の結晶ではない事には正直ショックを受けたが、私が幼児だった頃から母は養育費云々と言う話をしていた。
目的は邪までも、大切に育てられていたのは確かだから気にしない。
「うむ。お前の親を悪く言って悪いが、二人共、人間としては感心出来ない性質を持っている」
老人は白い口髭を撫でる。
「父は典型的な金持ちクズ。母はそれに集るハイエナ。それらの娘であるお前を信用出来ないのも仕方が無い。そうだろう?」
そんな事を言われても、私には返事が出来ない。
違います私は真人間です、と断言出来るほど自分に自信が有る訳じゃないし。
母は『酒が無ければ良い人』って感じの女だったので、娘としては誇れないし。
父の事は欠片も知らないし。
だから微妙な表情で黙っていると、老人は「大事な話だからお前の心情には構わんぞ」と前置きをしてから話を続けた。
「しかし、お前はそうじゃない可能性が有る。俺も孫娘を無視出来るほど冷血でもないしな。だからこうして俺が自ら出張って来た訳だ」
老人は前屈みになり、ちゃぶ台に肘を突く。
「お前一人だけなら、多蛇宮家に入れる事は問題無い。だが、多蛇宮家はお前が思っているより生易しくない」
私が顎を引いたのを見て、老人は微かに笑った。
「怖いか?」
「ええと、生易しくないとは、どう言う意味ですか? その言葉が、ちょっと怖いです」
「金持ちの家ってのは、大勢の人生に関わっている。大人の汚い物が渦巻く世界だ。そこの後継者になる人間には、お前には想像も出来ない重責が有る」
言ってから、一瞬だけ表情を強張らせる老人。
「お前の父は生涯その責任が理解出来なかったが。お前はどうだろうな?」
老人は、改めて私の目を見詰めて来た。
訊かれても応え様が無い。
何も知らない子供を相手にしている事は老人も承知しているので、返事を待たずに続ける。
「だから、お前がウチに来るつもりなら、それなりの修行をして貰う。百聞は一見に如かず。重責の一片でも見れば、お前なりに理解出来るだろう」
「修行、ですか?」
「面倒事が嫌なら断っても良い。そうなっても、お前が成人するまでの養育費は出す。それくらいなら俺のこずかいだけで何とかなる」
どうする? と訊きながら皺だらけの顔を突き出す老人。
「つまり――」
私は老人の瞳を真っ直ぐ見返した。
「お金持ちの家に入りたければ、想像も出来ない様な責任を持つ覚悟をしろ、と言う事ですか?」
その言葉を聞いた老人は、頷いてから背筋を伸ばし、ちゃぶ台に突いていた肘を下した。
瞳に籠っていた光が少しだけ優しくなった、気がする。
「理解が早くて助かる。簡単に纏めるとそう言う事だ。人生を左右する選択だから、返事は今すぐでなくても良い。そうだな……」
口髭を撫でながら少し考えた老人は、メガネの男性を顎で示す。
「一週間後、秘書をここに寄こす。その時に応えてくれ。こちら側としても、お前を迎える準備が整っていないからな」
秘書だと言うメガネの男性は、正座のまま頭を下げた。
「それくらいの時間が有れば充分だろ。場合によってはその日その時に引っ越しになるから、返事を決めたら準備もしておけ」
老人は懐からハンカチを取り出し、首筋の汗を拭いた。
「ここには思い出も有るだろうが、クーラーも無い様な部屋じゃ警備とかも面倒だしな。じゃ、考えておいてくれ」
老人は言うや否や立ち上がり、秘書と共に部屋を出て行った。
見送るヒマも無く、車に乗って去って行く。
本当に忙しいらしい。
私は別にここで応えても良いんだけどな。
母が私に施したしつけは、不自然なほどにお嬢様向けだった。
今着ているワンピースも、本来は月に一度のレストランに行く為の物だ。
ちゃんとした場に出ても恥ずかしくない様に、ホテルのレストランに行ってテーブルマナーを教わっていたのだ。
それは明らかにこの日の為だろう。
だが、父が金持ちだと言い出すのは決まって酔った時だったから、正直信じていなかった。
月に一度の美味しい物が食べられる日としか捉えていなかった。
父親が本当に金持ちだったと判明した今は、宝くじに当たったみたいな高揚感が有る。
奇声を上げながらバク転をしたいくらいだ。
運動神経は良くないから、そんな事は出来ないけど。
母が自分の子供を多蛇宮家に入れる為に私を産んだのなら、私はその為に存在していると言っても良い。
私としても、孤独な貧乏生活より、お金持ちの家に入って未知の豪遊生活をしてみたい。
だから一週間後、私の家に一人で訪ねて来た秘書さんを可愛らしい一張羅で出迎えた。
と言ってもウチは貧乏なので、とっておきのブラウスとスカートなのだが。
「いらっしゃい、お待ちしていました。どうぞ上がってください」
「失礼致します」
今日はお茶を出す余裕が有ったので、冷えた麦茶を出した。
「ありがとうございます。早速ですが、多蛇宮の家に入るかどうかの返答を伺います」
整髪料臭い秘書さんを真っ直ぐ見詰めた私は、脳内練習を繰り返していた言葉を噛み砕く様に伝える。
「私は多蛇宮家に入ります」
何も言わずに逝った母が何を考えていたのかは分からないので、言い訳を色々と考えたりもした。
邪まなのは母だけで、自分はただ単に血縁者に頼りたいだけだ、とか。
別にお金持ちがどうとかはどうでも良い、とか。
色々と考えた結果、自分を良く見せるより、用件だけを伝えた方が良いと言う結論に至った。
本当はお金持ちと言う立場にとても興味が有る。
それを隠し、ウソを伝えても良いのかどうかの判断が出来なかったから。
結果がどうなるか分からない主張をして損をするのもバカバカしい。
「分かりました」
返事を聞いた秘書さんは、無機質に頷いた。
そしてメガネを指で押し上げた。
「では、多蛇宮の家に入る為の修業の説明をします。取り敢えず、修業中は神様の存在は秘密とする事になりました」
「秘密、ですか?」
私は意味が分からずに小首を傾げた。
その反応は予想していたのか、秘書さんは冷静に続ける。
「大人の事情が複雑に絡み合い、いきなり血縁の後継者が現れると不都合が起こるんです」
説明する秘書さん。
一人息子が未婚のまま亡くなったので、現当主の多蛇宮神治朗には子供や孫が居ないと思われていた。
多蛇宮神治朗もそれなりの高齢になったので、多蛇宮が持つ会社や財産の相続をどうするのか? と言う相談が始まっていたらしい。
そんな心配を一気に解消させる存在が、私、甘衣神。
DNA鑑定に裏付けされた正真正銘の孫娘が現れたので、相続問題は全て解決! とはならなかった。
「どうして解決しないのかを学ぶ事も今後の修行に含まれます」
「難しそうですね。どう言う事なのか、さっぱり分かりません」
秘書さんは「そうですね」と頷いてから麦茶を一口飲む。
「ですが、難しくても学ばなければなりません。修業を始めたら中断は出来ません。責任を学ぶ為の修業ですから、そんな無責任は許されません」
「はぁ……」
感情の籠っていない厳しい言葉に怯む私。
こう言う感情を表に出さないタイプの人はクラスに居ないので、どう反応して良いか分からない。
「今ならまだ断れますが、如何なさいますか?」
「いえ、断るつもりはありません」
「心を決めておられる様ですが、神様の存在を秘密にする事により、半年の猶予が出来ました。ですので、ゆっくりとお考えください」
「半年?」
「――神様は、現在小学六年生で間違いはございませんか?」
「はい。六年生です」
「では、今まで通り、この家から小学校に通って貰い、普通に卒業して頂きます。我々側で各方面への調整をする時間が必要なのです」
「え? 引っ越ししないんですか? 引越しの荷造りはもうしてあるんですけど……」
私は部屋の隅に視線を送る。
三個のダンボール箱が積まれて有る。
貧乏人なので物が少ない。
「折角の準備を無駄にさせてしまい、申し訳ございません。連絡を差し上げられれば良かったのですが、のっぴきならない事情がございまして」
「いえ、着替えと小物だけですから、別に構いません」
繰り返し「申し訳ございません」と言った秘書さんは、少し間を開けてから厳しい口調に戻る。
「ただし、卒業するまでは神様が多蛇宮家の人間だとは口外しないでください。誰かに知られたら、その時点で遠くに引っ越して頂きます」
「どうしてですか?」
「神様が目障りな人間に誘拐されるかも知れない、と言うのが主な理由です。他にも様々な犯罪に巻き込まれる恐れが有りますので、お気を付けください」
マンガやドラマみたいな心配事だが、お金持ちの世界では冗談では済まないらしい。
いたいけな女子小学生である私としても犯罪は怖いので、特に考えずに承諾した。
「中学は、多蛇宮の系列で経営する学校に通って頂く予定です。そこの理事長となり、通いながら経営の勉強をして頂く予定です」
「私が学校の経営の勉強をするんですか? 中学生にそんな事が出来るんですか?」
「まだ予定の段階ですから、今は難しく考える必要はありません。教育係も手配しておりますので、詳しくはその方が教えてくれます」
「分かりました。それで、その学校とは、どこの学校ですか?」
「神様が断る可能性が有りましたので、まだ未定です。詳しくは、また後日になります」
「分かりました。でも、その、私の名前に様を付けるのは止めて貰えませんか? からかわれているみたいで嫌ですから」
「申し訳ございません。――では、甘衣様。しばらくは今まで通りの生活をお願いします」
秘書さんは、ちゃぶ台に無骨なデザインの携帯電話を置く。
折り畳めるタイプの、いわゆるガラケーだ。
「生活費は毎月一日に使いの者に届けさせます。この携帯電話には私への番号が登録されていますので、何かございましたら遠慮無くお掛けください」
「はい」
私は携帯を見詰める。
秘書さんへの連絡以外には使っちゃダメなんだろうな。
私が気軽に持ち運ばない様に、あえて可愛くない機種を選んだ風に見えるし。
「最後に。甘衣様を警護する為に、このアパートを監視する者が現れると思います。見掛けましてもお気になさらないでください」
「えっと、多蛇宮の子って事を秘密にするんですから、まだバレていないんでしょう? なのに警護なんて必要有るんですか?」
「念の為、でございます。本格的な警護ではありませんので、二十四時間見張っている訳ではありません」
多蛇宮の関係者に気付かれない様に気を使ってはいるが、当主とその秘書の動きから、私の存在がバレるかも知れない。
だから、バレているかを探る為に監視をするんだそうだ。
その監視者以外に私を監視する者が現れた場合、それなりの対策をする必要が有ると言う。
「分かりました。気にしません」
面倒臭そうな大人の事情が絡んでいるみたいなので、詳しく訊かずに頷く。
事情を知っても私に出来る事は無いだろうだし。
「今回は以上でございます。今後何か有りましたら、またお邪魔させて頂きますので、ご了承ください」
「はい」
話を終えた秘書さんは、私が出した麦茶を飲み干してから帰って行った。
一人に戻った私は自分の分の麦茶を飲み干し、流しでコップを洗う。
母が亡くなってからは怒涛の展開だったが、一応は母の望む通りに事は運んでいる様だ。
半年後に小学校を卒業したら、私はお金持ちになる。
のか?
まぁ、生活費は無条件で貰えるみたいだし、卒業までは今まで通りの暮らしが出来るだろう。
事が始まってもいない内に色々と考えるのは止めておこう。
不安になるだけで無意味だし。
コップを洗い終えた私は、夏の陽気で温くなっている水を吐き出している蛇口を締めた。