【第一章 ジェスター院】 第三話 失われた対局(2)
翌日の小ホールは、文字通りの満席となった。席と席の間を貫く通路には立ち見客が溢れ、さらにホールの中になだれ込もうという人々を、運営の院生が押しとどめるという光景が見受けられる。
「まだ対局開始まで一時間以上あるというのに、えらいことになっているな」
ホールの中に足を踏み入れて、中を見回したジノは驚きの声を上げた。
ベスト8まで残った参加者には、関係者用の観客席が用意されている。そのためジノは余裕を持って会場にたどり着いたのだが、余りの混雑を前に入り口脇の通路で立ちすくんでいた。
「物見高い奴らが集まっただけさ」
ジノの横に並んだアッカビーが、不機嫌そうに黒い顔を歪ませた。ジノの連れという立場で、彼も関係者席で観戦出来ることになっている。
「テネヴェ人がジャランデールの外縁星系人を叩きのめすのを楽しみに、生観戦してみようって奴らが殺到してるんだろう」
場内は人いきれで熱気がこもり、ジノもアッカビーも着ていたコートを小脇に抱えている。ひしめきあう人々を一瞥して、アッカビーが鼻を鳴らした。
「俺に言わせりゃモートン・ヂョウだって、あの外縁星系人とつるんでる時点で同罪だけどな」
「同罪も何も、シャレイドはなんの罪も犯したわけじゃない」
ジノが冷静に指摘するが、アッカビーは口を閉じようとはしなかった。
「あいつの罪は外縁星系人であること、それで十分だ。あいつの故郷のジャランデールが今どんな有様か、知っているだろう?」
「ジャランデールの混乱が、シャレイドになんの関係があるんだ。あいつはその前からずっとこのジェスター院にいるんだぞ」
「関係あるさ。外縁星系人って奴らは、開拓資金の名目で俺たち第一世代から大金を引き出しておいて、いざ期限を迎えても返済を拒否するような連中ばかりだ。その血を引いているあの野郎だけが無関係な振りなんて、許されてたまるか」
口角から唾を飛び散らす勢いで、アッカビーが熱弁を振るう。友人の言葉を黙って聞いていたジノは、やがて目を逸らし、足元に視線を落とした。
「第一世代って言葉は、好きじゃない。連邦創設時からの加盟国であるということに、どれほどの価値があるっていうんだ」
「何を言ってるんだ、ジノ」
ジノの言葉に、アッカビーは悲嘆混じりの声を上げた。
「俺もお前も、創設三十八カ国の出身じゃないか。俺はそのことを誇りに思っているし、こればかりは譲れないぜ」
「お前が第一世代を誇るのを、どうこう言うつもりはないよ」
伏し目がちのジノの横顔に、ふわりとした金髪が流れかかって、アッカビーが彼の憂鬱げな表情に気がつくことはなかった。再びジノが顔を上げるとそこにはもう、整った口髭の下に唇が引き締められた、毅然とした表情があった。
「いい加減、この話はよそう。俺たちが余りここに居続けると、後の人たちの邪魔になる」
そう言うとジノはアッカビーの返事を待たずに、人混みの合間を縫って関係者席のある会場の前列へと向かった。
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小ホールの舞台裏には、準備室代わりの小部屋が設けられている。通常は視聴覚用の機材や清掃用具などが積み上がった物置と化している部屋なのだが、今日はそれらの荷物は片隅に押しやられて、立方棋大会決勝の対局者控え室とに割り当てられていた。
室内には申し訳程度の小テーブルを挟むようにして、簡素なソファがふたつ据えつけられている。向かい合うように腰掛けたシャレイドとモートンの顔に浮かぶのは、対局前の緊張でも高揚でもない。テーブル上の端末棒から引き出されたホログラム・スクリーンに見入るふたりの顔は、心なしか青ざめていた。
スクリーンに映し出されているのは、複数の報道機関が報じる様々なニュース映像、それもジャランデール関連のものばかりだった。ジャランデールの混乱は、一週間以上が経過してようやく鎮静化に向かっている。一時はジャランデール全土に戒厳令が敷かれるのではないかとも噂されていたが、抗議運動そのものは組織だったものではなかったため、やがて保安部隊の秩序だった制圧行動によって鎮圧されつつある。
眉間に皺を寄せたまま、いくつもの映像を眺めていたシャレイドは、その中のひとつを目にした途端に息を呑んだ。
慌ただしい手つきで端末棒を操作して、映像を巻き戻す。再び流れ出した映像は、保安部隊がデモ隊の参加者たちを捕縛し、連行している様子を捉えたものだった。つい三十分前に配信されたばかりという映像には、『保安部隊がデモの首謀者と想われる人物を拘束』という見出しが添えられている。
「親父……」
静止させた映像に映るのは、両目を腫らし、流血に顔半分を赤く染めた、赤銅色の肌の中年男性だった。ぼろぼろに引き裂かれた衣服をまとった男性は、後ろ手のまま保安部隊に引き連れられようとしている。父親の変わり果てた姿を映し出す静止映像を、シャレイドは唇を引き結んだまま、食い入るように見つめていた。
「間違いないのか」
モートンが深刻な顔で尋ねる。
「すっかりいい男に見違えたが、あれは間違いなく親父だ」
シャレイドは冗談めかして答えたが、その口調にはいつもの切れが無かった。モートンが無言で頷きつつ、端末棒に手を伸ばしてホログラム・スクリーン上に指を走らせる。するとそれまでの静止映像が映し出されたウィンドウとは異なる、別のウィンドウが表に現れた。そこに見えるのは、年の頃は三十代に差し掛かった頃だろうか、ちりちりの髪をバンダナで巻き上げた、褐色の肌に筋肉質を思わせる顔つきの女性だった。女性が口を開き、ハスキーな声が語り出す。
「シャレイド、時間が無いから単刀直入に言う。親父さんとアキムが捕まった」
大きなまん丸の目を無理矢理細めているかのような表情が、女性の苦しい内心を物語っていた。彼女の背景は薄暗く、どこか暗い室内で撮影しているということしかわからない。
「あんたの身も危ないだろう。早いとこ逃げるんだ、いいね」
そこで映像は終わり、スクリーン上の彼女の顔も苦悶の表情のまま動きを止めた。ふたりは揃ってしばらく彼女の顔に見入っていたが、やがてモートンが先に顔を上げた。
「彼女は?」
「……ジェネバ・ンゼマ。爺さんの教え子で、うちとは昔から家族同然の付き合いだよ」
モートンの質問に答えるシャレイドの顔が、血の気に乏しい。彼が呆然とするところをモートンは初めて見たが、残念ながら気遣っている余裕は無かった。
「この映像は連絡船通信によるメッセージだな。いつ受け取ったんだ?」
「気がついたのは今朝方だ。どうやら夜半に届いていたらしい」
「保安庁が傍受していたとしたら、もうお前のことを探り出していてもおかしくないな」
「正直なところ、半信半疑だったんだが……今のニュース映像を見たら、信じるしかない」
そう言うとシャレイドは不意に面を伏せて、堪えきれないように笑い出した。くつくつという笑い声に合わせて、角張った肩が上下する。笑うしかないという表情で、シャレイドはモートンに顔を向けた。
「まさかこんな展開が待ち構えているとは、さすがに想像つかなかったよ。喜べ、モートン。今日の対局はお前の不戦勝だ。二連覇の達成、おめでとう」
「落ち着け、シャレイド」
「俺の勘が告げるんだよ。この立方棋の決勝会場に、もう保安庁の捜査官が潜り込んでいるだろうってね。俺が保安庁でもそうするさ。確実に、しかも外縁星系人の大罪人の息子を捕らえたことを衆目にアピール出来る、絶好の機会だからな」
「だからってお前がそれに付き合うことはない!」
やけくそ気味のシャレイドの口を遮るように、モートンが一喝する。
「どんなに追い詰められようが上手に逃げ回って、最後にカウンターを決めるのが、お前のやり方だろう」
モートンの切れ長の目が、一杯に見開かれていた。髪の毛と同じダークブラウンの瞳が、シャレイドの顔を睨みつけるように射貫いている。友人の真剣な眼差しに貫かれて、徐々にシャレイドの表情に落ち着きが戻っていく。
「それもそうだな。このまま大人しく捕まるのは、俺の性に合わない」
そう言って優男風の顔に薄い笑みを浮かべる様は、もういつものシャレイドだった。
「ありがとう、モートン。さすがに動揺していた」
「こんな状況じゃ無理もない。でも、もう大丈夫みたいだな」
「ああ」
こめかみを人差し指で軽く叩きながら、シャレイドが不敵に笑う。
「保安庁を巻く算段はある。だが、それにはお前の協力が必要だ」
「なんでも協力するさ」
力強く頷くモートンに、シャレイドは唇の片端を吊り上げるいつもの笑みで答える。彼とルームメイトになってからこの三年近く、毎日のように見てきた仕草だ。安心したモートンがつられるかのように笑顔を浮かべると、不意にシャレイドがぽつりと呟いた。
「今日の対局は、お流れだな」
皮肉混じりの笑顔に変化はない。だが口調の端々から、本気で残念がっていることが窺える。
彼が周囲の声に煩わされることなく過ごしてこれたのは、モートンとの対局を心待ちにしてきたからだ。同室であり、対局相手であるモートンは、そのことをよく知っている。心なしか肩を落としているようにさえ見えるシャレイドに、モートンは宥めるかのような口振りで声を掛けた。
「今生の別れってわけじゃない。次の再会まで、この対局は持ち越しだ」