【第一章 ジェスター院】 第二話 雨空の予感(2)
「フランゼリカがあのタイミングで登場したのは、偶然だよ」
炭酸が泡立つエール入りのタンブラーを右手で揺らしながら、シャレイドはモートンとカナリーに薄い笑みを向けた。
「ただ、もうすぐ彼女が現れるような気がしたから、いかにも仕込みらしく見えるようにハッタリをかましてみただけなんだが、効果は覿面だったな」
そう言ってタンブラーを呷るシャレイドに、カナリーが疑り深い目を向ける。
「彼女が現れそうって、なんでわかったの」
「なんでと言われてもなあ。勘、かな」
シャレイドはおどけた顔で肩を竦めた。斜向かいの席では、早くもアルコールで顔に赤味が差すモートンが、感心した顔で頷いた。
「相変わらず、勝負所の勘は冴えてるな」
「この場合は褒めるところなのかしら?」
頭を捻るカナリーに向かってシャレイドが一言、「細かいことは気にするな。皺が増えるぞ」と余計なことを言う。すかさずカナリーが噛みつき、モートンが宥めるまでのやり取りは、ジェスター院の内でも外でも変わらない。
カナリー主催の祝勝会、といっても同じ院生同士でもてなせる程度は高が知れている。祝勝会の会場に選ばれたのは、ジェスター院から程近い繁華街の中、比較的明るい大通りに面した、院生御用達のダイニングバーだった。広めの店内には、四人掛けのテーブルを三人で囲む彼らのほかにも、若い客たちで賑わっている。メニュー自体はオーソドックスなものばかりだが、味と量が保証されているこの店は、何よりもカナリーのお気に入りだった。
「フライドボール、いただき!」
高らかな宣言と共に、カナリーは山と積み上がったフライドボールのひとつにフォークを突き立て、そのまま勢いよく齧りついた。満足そうな彼女の顔を見て、シャレイドの口から冷やかしの言葉が飛び出す。
「俺たちを祝ってくれるって話だったが、一番満喫しているのはカナリーだな」
「それはまあ、間違いない」
モートンにまで頷かれて、フライドボールを頬張ったままのカナリーが不平を口にした。
「なによ、いいじゃない。ここの料理美味しいんだから」
「ここの飯が美味いのは俺も認めるが」
シャレイドもカナリーに続いてフライドボールをフォークに突き刺し、そのまましばらくじっと眺めて後に齧りついたものの、その表情はいささか不満げだった。
「フライドボールだけはあれだな。やっぱり故郷の味が恋しくなる」
「ジャランデール風フライドボールは、どんな味つけなんだ」
「挽肉の代わりに、カリカリに焼いたベーコンの切れ端が入ってるんだ。この店の方がいい肉を使ってるのはわかるんだが、歯ごたえがなくて今ひとつ物足りない」
「何それ、美味しそう。今度作ってよ、シャレイド」
未知の料理には目がないカナリーが、好奇心に満ちた青い瞳を輝かせる。
「安物肉しか手に入らない、外縁星系風の料理だぞ」
「フライドボール自体がジャンクフードみたいなもんなんだから、安物だろうがなんだろうが、美味しければなんでもいいのよ」
興味津々のカナリーが、新たにフライドボールを突き刺しながら身を乗り出す。その背後から、いささか調子の異なる声が浴びせかけられた。
「そんなに故郷の貧乏料理が恋しければ、さっさとジャランデールに帰った方がいいんじゃねえか?」
店内の雰囲気にそぐわない言葉に、カナリーが眉根を潜めて振り返る。そこには彼らと同年配と覚しき黒い肌の青年が、背中越しに憎々しげな顔でこちらを睨みつけていた。明らかに好意的とは言い難い視線は、カナリーを通り越してシャレイドに注がれている。
「こっちは卑しい外縁星系人が側にいるだけで、飯がまずくなるんだよ」
敵意に満ちた言葉をぶつけられて、シャレイドは不思議そうに首を傾げた。
「そいつは妙だな。こっちのイシタナのお嬢様は美味い美味いって、さっきから俺たちの料理まで食い尽くす勢いだぜ」
「誰も、食べ尽くしてなんかないでしょう!」
引き合いに出されたカナリーが、顔を真っ赤にして反論した。
「あんたたちがお酒ばっかり飲んでるから、私だけ食べてるように見えるだけよ!」
「うん、まあ、そういうことにしてやってもいい」
「別に俺の分も食べていいんだぞ、カナリー」
モートンも含めた三人は、まるで青年の存在が目に入らないかのように、いつもの掛け合いを始める。すると青年は軋むほどに奥歯を噛み締めながら、おもむろに席から立ち上がった。
「無視してんじゃねえぞ、外縁星系人」
青年は既に十分に酔いが回っているらしく、見るからに目が据わっている。そのままシャレイドの前に立った青年は力任せに右手をテーブルに叩きつけると、今にも掴みかからんばかりの勢いで顔を突き出した。
「ジノに勝ちたいばかりに、えげつない手を使いやがって。俺はあんな対局、認めないからな」
「そりゃ残念だな。あの程度じゃ不足だというなら、次回はもっとえげつない手を考えておこう」
シャレイドは悄然とした表情を見せながら、口を突いて出る言葉がいちいち挑発的だ。青年の黒い肌が紅潮しているのは、酔いのせいだけではなかった。
店内の客たちもそろそろふたりの雰囲気を察して、あちこちから遠巻きにざわめきが聞こえる。しかもそのひとりが立方棋大会の決勝進出者であるシャレイドとあっては、目立つことこの上ない。
これ以上の騒ぎは好ましくないとばかりに、モートンの長身がふたりの間に割って入った。
「いい加減にしろ。お前、確かジノのルームメイトだったな。こんなことをしても、ジノが喜ぶとでも思っているのか」
「お前も気に食わないんだよ、モートン・ヂョウ。テネヴェ人のお前がどうしてこの、いけ好かない外縁星系人に尻尾を振ってやがる」
「いいから席に着けよ。なんだったら一杯奢ってやるから」
そう言ってモートンが伸ばしかけた手を、青年が力任せに振り払う。アルコールのせいで加減出来ていない力に、モートンは思わず足元をふらつかせた。彼自身、今夜は少々酔いが回っている。
「ちょっと、何すんの!」
よろめいたモートンの長身をなんとか支えながら、ついにカナリーが噛みついた。
「シャレイドが気に食わないのはわかるけど、時と場所をわきまえなさいよ!」
どちらかと言えば青年に対して同情的なカナリーの言葉に、シャレイドが不満そうに口を曲げる。
「カナリー、時と場所をわきまえればいいみたいに聞こえるぞ」
「あんたはあちこちで恨みを買ってるんだから、自業自得でしょう」
「だから俺の言った通りだろう、シャレイド。勝った後のことも考えないからこうなるんだ」
再び三人は青年を置いてけぼりにして、やいのやいのと言い合いを始める。勝手に三人で盛り上がる様子を見せつけられた青年は、「馬鹿にしてんじゃねえぞ!」と叫びながら、シャレイドの横顔目がけて拳を放った。
ちょうどシャレイドの右斜め後ろからの、彼にとっては死角からの一撃だった。青年の行動に気がついたカナリーはシャレイドの名を叫び、モートンが手を伸ばして止めに入るが間に合わない。だがシャレイドは振り返りもしないまま勢いよく上体を伏せて、青年の拳を間一髪で躱しきった。そのまま姿勢が流れた青年が千鳥足のまま身体を泳がせて、周りの客からは思わず喚声が上がる。
拳を躱されてますます頭に血を上らせる青年に向かって、シャレイドが挑発的な笑みを向ける。青年が腕を捲って一歩前に足を踏み出し、その後ろでは同席者たちがいい加減に彼を止めようと立ち上がったところで、良く通る男の声が店内に響いた。
「お前ら、何をしている?」
店内の全員が振り向いた先には、店の扉を背にして、険しい表情に仁王立ちのジノの姿があった。
「ジノ……」
「遅刻を取り戻そうと駆けつけてみたら、これは何事だ、アッカビー」
ジノに非難めいた目を向けられて、アッカビーと呼ばれた青年は途端に身体を小さくする。
「でもジノ、こいつが卑怯な手を使わなければ、あの対局はお前が……」
「いい加減にしろ。これ以上俺に恥をかかせる気か」
反論を封じられて、アッカビーが肩を落とす。ジノは振り返って、シャレイドたちに顔を向けた。
「済まない。どうやら俺の友人が迷惑をかけたようだな」
厳しい顔つきのままのジノに謝罪されて、シャレイドは無言で肩を竦める。代わりに答えたのはカナリーとモートンだった。
「あなたが謝んなくてもいいのよ、ジノ」
「そうだ。それに余計なことを言って煽ったシャレイドも悪い」
だがジノは気が済まないといった顔で、頭を振った。
「俺の友人がやらかしたんだから、そうもいかん。ただ、こいつの頭を冷やすのには少し時間が要る。ここは俺が持つから、悪いが三人とも店を変えてもらえないか」
ジノの申し出に、カナリーとモートンは顔を見合わせた。殊にカナリーは、積み残されたままのフライドボールに未練がましい視線を送る。だが躊躇するふたりをよそに、シャレイドはあっさりとジノの提案を承諾した。
「そういうことなら、ありがたく奢られておこうぜ。ご馳走さんだ、ジノ」
「ああ。シャレイドもモートンも、決勝では健闘を祈るよ」
紳士的に振る舞おうとするジノの矜恃は、カナリーとモートンにも痛いほど伝わった。結局三人揃って店を出ることになり、カナリーとモートンが先に店の扉をくぐったところで、ジノが一言声を掛けた。
「シャレイド」
足を止めて振り返ったシャレイドの目を、ジノは真っ直ぐに見返してきた。
「今日の対局中、侮辱するようなことを口走って済まない。あのときの俺はどうかしていた」
ジノの灰色の瞳からは、精一杯理性的であろうと努める意志が見て取れた。シャレイドは唇の端を少しだけ吊り上げて笑い返す。
「お前のそういうところは尊敬するよ。まあ、気にするな」
そう言い残すとシャレイドは痩身をくるりと翻して、扉の向こうのカナリーとモートンを追いかけていった。