【第三章 開花】 第四話 クロージアン(4)【第二部最終話】
「私が医者を志望したのは、母の事故が切欠なの」
「それは初耳だな」
「母は農園の監視用ドローンの墜落事故に巻き込まれて亡くなったの。ちょうど私を連れて農園を散歩している最中よ。故障したドローンが私目がけて落っこちて来たらしいんだけど、気がつかなくてね。背中から突き飛ばされて、何がなんだかわからなくて、気がついたら後ろで母がドローンの下敷きになっていた」
微風すらそよぐことのない丘の上で、イェッタは語り続ける。
「余程勢いがあったのか、当たり所も悪かったんだと思う。母は頭から血塗れになって、それでもしばらくは息があったわ。でも、子供だった私は泣き叫ぶ以外何にも出来なくてね。異常に気がついた父が駆けつけた頃には、母はもう事切れていた」
そこでイェッタは再び振り返ると、少しだけ首を傾げつつ、ロカの顔を覗き込むようにして尋ねた。
「目の前で少しずつ死にゆく母を前にして、私が何を思ったかわかる?」
頭ひとつ分下にあるイェッタの顔を見下ろしながら、ロカはしばらく無言のままでいたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「……死ぬことを過度に恐れるようになったのは、母親の悲惨な死を目撃したからか」
「単純でしょう? いつも優しかった母が、あんなに苦しそうに悶えて息絶えるのを見て、いつか自分もあんな風に死ぬのかもしれないと思うと心底恐ろしくなったの。だから医者を目指したのよ。医療の知識があれば、少しでも自分自身が生き延びる可能性が高まると思ったから」
淡々としたイェッタの言葉を聞くロカの眉間に皺が寄る。だが彼は途中で遮ろうとはしなかった。最後まで聞き届けようというロカの態度に感謝しつつ、イェッタはさらに言葉を紡ぐ。
「銀河連邦を立ち上げようというタンドラの提案は、多分私の本性にぴったり合っていたんだと思う。クロージアでこの精神感応力に目覚めてしまった時点で、多くの人々と《繋がり》続ければ延々と生き延びられるという結論に、いつかは達するに決まっていたから」
いつの間にかふたりの背後で、木々の枝葉がざわめき出していた。丘の上を微かな風が吹き抜けて、丁寧に結い上げられたイェッタの蜂蜜色の髪が、細やかに揺れる。
「そのためには多くの計算資源と電力が不可欠だし、そのためには情報産業の発展が必要になる。既にテネヴェで機械と《繋がって》根を張っていた私は、今さらよその星で一から機械と《繋がり》直す時間も手間も掛けられない。ならばテネヴェを銀河系の中心と見做されるレベルまで押し上げるしかない。そのためにはローベンダール惑星同盟に征服されるわけにはいかない。タンドラは彼女が私を誑かしたように思っていたけれど、テネヴェを中心に銀河連邦を築こうとした本当の原動力は、私のこの生き汚さなのよ」
「たまたまだ。今ある現実から逆算すれば、なんだって意図的に解釈出来る。酔っ払いが酒の肴にしたがる陰謀論と大して変わらん」
ロカは大袈裟に頭を振って、イェッタの言葉を否定した。
「大体そんなこと、今となってはどうでも良い。銀河連邦は人類にとって大いに意義がある」
「でも銀河連邦が存在し続ける限り、私はもう人と《繋がり》続けることを止められない。あのタンドラですら、私の生き延びたいという本能に抵抗出来ず、言いなりになってしまった。銀河連邦は私の強欲の証しでもあるの」
「お前が強欲の化身だろうが、生き汚い女だろうが、そんなことは私にとって関係ない!」
イェッタの台詞を振り払うように強い言葉を吐き出したロカは、そのまま彼女の前に回り込んだ。まるで自分だけを見ろと強いるかの如く、丘の下に広がる景色を遮るようにして立ちはだかる。
「お前はどうして、私と《繋がろ》うとしなかった?」
ロカが大きな手を伸ばし、イェッタの細い肩を両手で掴んだ。イェッタは成されるがまま、それまでの饒舌が突然堰き止められたかのように言い淀む。
「それは……」
「タンドラの寿命が尽きるとして、常にお前の側にいたこの私こそ、次に《繋がる》相手としては最適だったはずだ」
イェッタは何度か唇を開きかけて、何も言わずにそのまま面を伏せた。口ごもるイェッタを見て、彼女の両肩に置かれていたロカの手がゆっくりと離れる。
「それがお前の答えだ」
そう言ってロカはため息混じりに首を振った。
「《繋がる》ことを欲するのがお前の本性なのだとしたら、《繋がら》ない相手を求めるのもまた、お前の本質だ。お前の正体を知って、その上でお前のことを一個の人間として見る存在を、お前は必要としている」
「――そうよ」
イェッタは俯いたまま、喉の奥から絞り出すようにして声を上げる。
「そんなことが出来るのはロカ、あなたしかいないのよ。もしあなたと《繋がった》りしたら、あなたは私の一部になり、それ以前のロカとは別の存在になってしまう。もう本当のイェッタ・レンテンベリと接してくれる“他人”は、この銀河系中にいなくなる。あなたの認識があったから、私は私個人を保つことが出来ていた。でもそれもなくなってしまったら、これまで保たれてきたイェッタという人格を、私は多分維持出来ない」
おそるおそる面を上げて、ロカと目を合わせた。齢を重ねてもなお、磨き抜かれた黒檀のように精悍な彼の顔は、同情と哀れみが混在した痛ましい表情でイェッタを見返している。それほど自分の顔は青ざめているのだということを、イェッタは自覚した。
「いずれ《繋がった》者同士は皆混ざり合い、融合してしまうでしょう。それはもう、従来のヒトとは異なる、ひとつの巨大な生物――《クロージアン》よ」
「クロージアン?」
「クロージアに端を発する、ヒトとではない生物の名称として、私が名づけたの。そもそも惑星CL4にその名が冠されたのは、“禁足”が由来なのは知っているでしょう? 本来なら禁足地に封じられているべき、忌むべき存在なのよ」
もうひとつの理由、《スタージアン》と対になると考えて思いついた呼び名であることは、ロカには伏せておいた。彼に《スタージアン》の存在を知らしめるつもりはなかった。ロカ個人で受け止めるには、《スタージアン》の存在は余りにも大きすぎる。
ふたりの間を吹き抜ける風は、徐々に勢いを増していた。イェッタの髪が右へ左へと靡き、ロカの黒い長衣の裾が大きくはためいている。丘の麓に広がる木々のざわめきもますます耳を騒がして、先ほどまで林を包んでいた静けさとは様相を変えていた。
風に揺れる髪を右手で押さえながら、イェッタの言葉は徐々に呟きめいていく。
「今になってわからなくなってきたのよ。《クロージアン》の一部となって生き延びるとして、それは本当に私が生き延びることになるのかしら? 私という個人の人格が《クロージアン》に呑み込まれてしまった時点で、それはもう私の死と同じなんじゃないかって。だとしたら、銀河連邦を作ったこと自体が無意味だったのかもしれない」
そう言うとイェッタはゆっくりと振り返って、その向こうに聳え立つ火葬場の煙突に目を向けた。
「今はタンドラが少し羨ましいと思う。少なくとも肉体が死を迎える瞬間までは、タンドラ・シュレスのままでいられたのだから」
「安心しろ」
背後からの即答を受けて、イェッタは肩越しにロカの顔を見返した。
「タンドラがタンドラのままで最期を迎えられたのは、私が居たからだというのなら、お前もお前のまま、《クロージアン》などという得体の知れないものに呑み込まれる前に死を迎えられることを、約束しよう」
ロカの言葉を聞いて、イェッタの唇から零れ出た声には、縋るような響きが伴っていた。
「……もっと、はっきり言って」
半身を向けて、ロカを見つめるイェッタの顔には、抑えきれない感情が今にも溢れんばかりに滲み出ていた。彼女の、半ば潤んだ琥珀色の瞳に映るロカの姿は、握り締めた拳を胸に当てて力強く断言する。
「何度でも言ってやる。私はお前の死の瞬間を、必ず看取る」
「……必ず? 私より、十歳以上も年上なのに」
「そんなことは関係ない。私は絶対にお前より先に死なない。お前より一分一秒でも必ず長生きすることを、約束する」
ロカの宣言に耳を傾けるイェッタは、右手で口元を覆っていたが、細い指の隙間から漏れ聞こえる途切れ途切れの嗚咽までは抑え切れなかった。
「ありがとう、ロカ」
目尻から溢れ出す涙が彼女の右手に当たって、その甲を伝う。
「その言葉だけで、私は、もう」
それ以上、イェッタは言葉を口にすることは出来なかった。口元を押さえたままに、両腕で自らの華奢な身体を抱きすくめるようにしながら、イェッタはひたすらその場で肩を震わせ続けていた。やがてロカの手に頭を抱き寄せられて、彼の胸元に額を押しつけられても、イェッタの嗚咽はしばらくの間止むことはなかった。
「風が強くなってきた。そろそろ戻ろう」
そう言って肩を抱えるロカに身を委ねながら、イェッタは祭会堂の本殿に続く小径へと足を向ける。
背後に広がるセランネ区の街並みを、イェッタは一顧だにしようとは思わなかった。振り返らずとも、この丘から望むことの出来る景色にある全てを、彼女は隅々まで知覚しているのだ。
今もまた、林の小径へと向かうふたりを、上空にたたずむ警備用ドローンが監視している。イェッタの思念は、自らの後ろ姿が木々の陰に隠れていく様子を、ドローンのカメラを通してはっきりと認識していた。
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ロカ・ベンバは晩年、銀河連邦の成立について回顧録を残した。一連の経緯に関わり続けた者が著した貴重な記録であり、後の研究者からも一級の史料として数えられている。
彼の回顧録で特徴的なのは人物ごとに章立てされている点だが、その章題を飾った人物は以下の七名。
タンドラ・シュレス
ディーゴ・ソーヤ
キューサック・ソーヤ
グレートルーデ・ヴューラー
バジミール・アントネエフ
ローザン・ピントン
イェッタ・レンテンベリ
回顧録の冒頭文は「今は亡き友、イェッタ・レンテンベリに捧げる」であった。
(第二部 了)