【第三章 開花】 第四話 クロージアン(2)【第二部最終話】
「もう、いつお迎えが来てもおかしくないね」
タンドラの口調は、ロカが想像していたよりもずっと明瞭だった。
常に冷静を保ってきたタンドラらしく、ベッドの上で身動きが取れなくとも取り乱すということはない。だが時に辛辣ですらあった不貞不貞しさは影を潜め、落ち窪んだ眼窩に痩けた頬ばかりが目立つその容貌は、分厚い疲労に覆われていた。天井から吊された大きな透過パネル型端末と、右手が届くように配されたコントロールボールが配されたベッドの上で、細く息をする度に胸を小さく上下させるタンドラの姿は、かつて惑星クロージアから帰還したばかりの彼女自身を彷彿とさせる。
今さら慰めの言葉をかけても何もならないことは、ロカもよくわかっている。彼が口にしたのはもっと直接的な質問であった。
「だからピントンと《繋がった》のか?」
タンドラの枕元に寄せたスツールに腰掛けて、ロカはそう問いかける。
詰るつもりはない。ただ、ここまで来たら真実を知らないわけにはいかなかった。
何より彼女と《繋がった》ピントンから、真実はタンドラの口から聞き出すように促されたのだ。
「あんたにはどこまで話したものか、本当に悩んだんだよ」
枕の上でロカの顔を見上げていたタンドラは、そう言って隈が目立つ目を伏せた。
「ピントンと《繋がる》まで、つまりつい最近までのことだけど。イェッタと私は《繋がって》いながら、それまで個々の人格を保つことが出来ていた。それぞれの考えが混ざり合うことはあるけれど、それはふたりの間で、思念を通じてコミュニケーションを取った結果だった」
彼女の言葉が過去形であることを、ロカは聞き逃さなかった。今、彼女たち以外の人物と新たに《繋がる》という選択をしたことで、もはやそうではなくなったのだということを、タンドラは暗に示している。
「私たちふたりがそれぞれのままでいられたのはロカ、多分あんたのお陰なのさ」
タンドラの言葉を耳にしても、ロカは意外には思わなかった。むしろそうなのかという納得の想いが、彼の胸中を占める。
「私は、お前とイェッタが《繋がって》いることも、一心同体であることも理解していたつもりだ。だが、お前たちが同一人物であると思ったことは一度もない」
かつてスタージア宇宙港でイェッタに誓って以来、彼女に仕えるようになってから以後も、ロカはそれまでの自分を貫くことに努めてきた。その結果、イェッタとタンドラはそれぞれの人格を維持出来ていたというのなら、それはおそらくロカにとっては献身が報われた結果と言って良いのだろう。
「ありがとう、ロカ。あんたのお陰で私は、タンドラ・シュレスのまま死ねる。夢に見た銀河連邦の成立を見届けることが出来たのは、望外の幸運だったよ」
「銀河連邦を成立させた立役者のひとりは、間違いなくお前だ。傍観者みたいなことを言うな」
タンドラは口角の片方だけを上げて、小さな微笑を浮かべると、やがて瞼を閉じた。少し疲れたのだろうか、二度三度とゆっくりと呼吸する。
本当に、彼女はもうすぐ死んでしまうのだ。
目の前のタンドラを見て、ロカはただ唇を噛み締める。そうしていないと、胸の奥からこみ上げてくる感情を抑え込むことが出来なかった。
「そんな顔をするんでないよ。わざわざ頭の中を覗かなくとも、思考がだだ漏れだ」
いつの間にか目を開いていたタンドラが、幼子をあやすかのような口調で言う。
「あんたにはまだ、色々と言っておかなきゃならないことがあるんだ」
「……お前の死後の、イェッタのことだな」
「そうだよ。長くなるけど、あんたには知っておいて欲しい」
そう言うとタンドラはロカから視線を逸らして、病室の天井に目を向けた。だがその目は淡い光を放つ天井に焦点を合わせているのではなく、もっと遠いところを思い浮かべているように見えた。
「あんたも察している通り、ピントンと《繋がった》一番の理由は、イェッタを道連れにしたくなかったから。確かめたくもないけれど、ふたりきりのままだったらおそらく、私と一緒に彼女も命を落とすことになったと思う」
迎賓館でテラス越しにアントネエフと言葉を交わしたあの夜以来、ずっとロカが抱き続けてきた疑念を、タンドラは簡潔に解き明かしてみせた。だが、だからといってロカの心が晴れるわけはない。むしろ納得出来ないという想いが、彼の胸中に明確な形を成して湧き上がってくる。そんな理由ならば、なぜピントンを選んだのか。疑問と言うよりも激しい、訴えに近い言葉が、喉の奥から込み上げる。
だが彼が口を開くよりも早く、タンドラが口にしたのは衝撃的な一言だった。
「今、私たちと《繋がって》いるのは、ピントンだけじゃない」
大きく目を見開いて、ロカは辛うじて尋ね返すことしか出来ない。
「……何?」
「連邦の中に、十三人。それ以外にも八人。私とイェッタを合わせれば、全部で二十三人の人間が《繋がって》いる。この数字は今後も増えこそすれ、減ることはないだろう」
「二十三人……」
タンドラの言葉を繰り返しながら、ロカはただ呆然として彼女の顔を見返した。タンドラは相変わらずロカと目を合わせようとせず、天井を見つめたまま語り続ける。
「以前ならこんなに大勢の人間と《繋がる》のは不可能だった。でも、ここ数年のテネヴェ全体の急激な情報産業の発展で、《繋がる》ための計算資源を確保出来るようになって、ようやく可能になったんだ」
「何を言っているのかわからん。お前たちが《繋がる》のに計算資源がどうのこうの、なんの関係がある」
「ロカ、私たちが《繋がる》には、計算資源としての機械と、それを動かすだけの電力が必要なんだ」
そこまで言い終えてから、タンドラは枕の上で再びロカに顔を向けた。既に生命力が失われつつあるというのに、その目には力強く訴えかけるものが込められている。ロカは自分がどのような顔をして彼女と目を合わせているのか、もはやわからなかった。ただ脳裏に一瞬、忌むべき言葉がよぎってしまったことには気がついていた。
「あんたが今、思い浮かべた通りさ。機械と共生して生き存える、まるで《オーグ》のようだろう」
タンドラの言葉に自嘲の響きはない。ただ、彼女がこれほど悲しげに口を開くのを、ロカは初めて耳にした。
「でもイェッタは責めないでおくれ。ピントンと《繋がる》ことを薦めたのは、私だ」
「……それにしても、そんな無節操に多くの人々と《繋がる》必要があったのか」
「ピントンと《繋がる》ことを選んだときから、そんな縛りは無意味になってしまったんだよ」
ふっと一息ついたタンドラの顔には、いつの間にか疲労が色濃く滲み出いている。
「イェッタは、死ぬことを恐れている。心の底からね。これは彼女の本質的なものだ」
当然のことを聞かされて、ロカが訝しげに答える。
「それは、誰だってそうだろう」
「イェッタの場合は、それが度を超している。追い詰められた彼女は、死を逃れるためにどんな手を講じることも躊躇わない。クロージアから脱出するとき、彼女が私を無理矢理に延命した理由はただひとつ。私がいなければ宇宙船の操縦が出来なかったからさ」
かつて決死の思いで帰還した状況が思い返されたのか、タンドラはそう言って瞼を伏せた。
「そして正気に返った途端、激しく後悔するんだ。私が半身不随のまま回復が絶望的と知って、彼女はとてつもない引け目を感じていた。自分が生き延びるために取った手段のせいで、私が生きながら苦しむ羽目になったってね。その引け目につけ込んで、私は彼女を銀河連邦なんていう妄想に付き合わせたんだよ」
タンドラは生気の乏しい顔の片頬だけを吊り上げて、偽悪的な笑みを浮かべようと試みる。だがロカは、彼女の言うことに頷くことは出来なかった。
「だとしても銀河連邦は実現したし、そのことを多くの人々が歓迎している。動機が何であれ、お前たちが果たした功績は計り知れない」
「ディーゴを犠牲にしていなければ、私も胸を張ってそう言えたよ」
ディーゴの名を口にされて、ロカはそれ以上反論することが出来なくなってしまった。ロカ自身、ディーゴの死を軽んじることが出来なかったからこそ、今の今まで銀河連邦の実現に向けて尽力することが出来たのだ。彼の死の当事者とも言えるイェッタやタンドラにしてみれば、なおのことだろう。
「ディーゴを死に追いやってしまったことで、私たちも後戻り出来なくなってしまったんだよ。もう途中で諦めるわけにはいかない、そう思って今までやってきた。結果はあんたもよく知る通りさ。色々あったけれど、ここまでは上手くいった。でも最後の最後、私が先に死ぬのが誤算だった」
そう言うとタンドラは苦悶して顔を歪めた。それが命の尽きつつある人に等しく訪れる表情なのか、それとも後悔の表れなのか、ロカには判然としない。
「私はイェッタより先に死んではいけなかったんだよ。イェッタが先に死んでしまうのなら、私は彼女と一緒に寿命を迎えても構わなかった。でもイェッタは違う。彼女は死にたくないんだ。そしてどうすれば生き存えるかを知っている。多くの人と次々と《繋がって》いけば、例え肉体が死んでも残った人の思念と混じり合って、永遠に生き続けられるということを知っているんだ」
「《繋がる》ことで永遠に生き続ける、だと」
名状しがたい表情を浮かべたまま、ロカはタンドラの言葉を反芻する。
「馬鹿馬鹿しい。そんなことをイェッタが望んでいるわけがない」
「イェッタの理性は望んでいない。むしろ毛嫌いしているぐらいさ。でもそれは、自分の正体を無意識に自覚して抑え込もうとする、彼女の努力の結果に過ぎない」
苦しげに眉をひそめながら、タンドラは喋ることを止めようとはしなかった。ロカに全てを伝えなければならないという意志だけが、瀕死の彼女の唇を動かしている。
「イェッタの本能は、どうしようもなく生き延びることを求めている。ふたりであり続けられたイェッタと私が、唯一完全に混じり合ってしまったのは、その強烈な生存本能だった。私もいつの間にかイェッタの本能に呑み込まれて、そしてピントンと《繋がる》ことを後押ししてしまった」
そこまで一息に喋りきったタンドラは興奮のせいか、不意に激しく咳き込みだした。ロカが可動式ベッドを操作して上体を起こし、彼女の背中を擦る内に咳は少しずつ治まっていく。息も絶え絶えに、角度のついたベッドに凭れるようにして身体を預けたタンドラは、土気色となった顔に懇願するような表情を浮かべていた。
「ロカ、《繋がる》者同士が混じり合うってのは比喩じゃない。放っておけばどんどん混ざる。私とイェッタが混ざり切らないで済んだのは、ひとえにあんたのお陰だった。でも私が死んだら、その先はどうなるのかわからないんだ。彼女のことを頼めるのは、あんたしかいない」
死を目前にしたタンドラが初めて見せる必死な表情を目の当たりにして、ロカは何度も首を縦に振る。例えどうすれば良いのか見当もつかないとしても、力強く頷くロカの気持ちに偽りはなかった。
「案ずるな。私はイェッタの秘書だ。私が彼女の面倒を見ないで、誰が見る」
「……それでこそロカ・ベンバだ。後のことは、任せたよ」
ロカの言葉を聞いて、タンドラがどれほど安心できたのかはわからない。だが疲れ切ってそのまま眠りに陥った彼女の顔に、微かな笑みが浮かんでいるように見えたのは確かだった。
タンドラ・シュレスがセランネ区中央医院の病室で眠るように息を引き取ったのは、それから一ヶ月もしない内のことであった。