【第三章 開花】 第三話 アントネエフ卿の困惑(4)
「そこに隠れているのは誰だ」
武人らしい野生の勘は、常任委員長に就いても衰えていないようだ。ここで下手に立ち去ってもかえって立場を悪くすることを悟って、ロカはおとなしくアントネエフの前に姿を現した。
「……ベンバか。レンテンベリの秘書が、こんなところで隠密気取りか」
アントネエフは当然ながら何度もロカと顔を合わせている。だが直接口を利いた回数は数えるほどしかない。彼がロカの名前を呼んだのは、もしかしたら初めてのことかもしれなかった。
「夜風に触れようと庭を散策していたところに、おふたりがテラスにいらっしゃるのを見かけました。邪魔をするのも憚れてつい身を隠してしまいましたが、お気に障りましたら申し訳ありません」
「主人に似て、よく回る舌だな。滑らかに言い訳出来るところまでそっくりだ」
恐縮して頭を下げるロカに向かって、アントネエフが辛らつな言葉を投げかける。しかし常任委員長はそれ以上ロカを責めようともせず、黙ってテラスの手摺りに片手をついていた。このまま立ち去るわけにもいかず、ロカは頭を下げたままの姿勢で彼の声を待つ。だが次の叱責が降りかかる気配は訪れず、いい加減に痺れを切らし一礼して踵を返そうとしたその矢先に、常任委員長の呟くような声が耳に届いた。
「陛下とどんな話をしていたのか、聞きたいのだろう。教えてやるから近くに寄れ」
ロカが顔を上げると、アントネエフは片頬に笑みを浮かべてこちらに目を向けている。
「いえ、そのようなつもりでは……」
「いいから、聞け。陛下は仰っていたよ。アントネエフは変わった、とな」
否定しようとするロカをまるで意に介さず、アントネエフは語り始めた。
「私が陛下とお会いしたのはもう十年以上も前のこと、陛下の即位式で謁見したときだ。その頃の私は野心に燃え、自信に満ち溢れていた。この手で惑星同盟を牛耳り、やがては銀河系を手中にするつもりでいた」
事実、手中にしたではないかと、ロカは声には出さないままその言葉を口にした。銀河系の全てをというには語弊があるが、銀河連邦常任委員長という地位には銀河系最高の権力者に匹敵する響きがある。それとも複星系国家三強を従えなければ、まだ満足出来ないのか。
「銀河連邦常任委員長に就いた今、その野望は達成されたものとお前などは思うだろう」
ロカの内心を見透かすように唇を皮肉めいた形に歪ませて、アントネエフは言う。
「私もそう思っていたよ。常任委員長に就任したことで、私は銀河系の頂点に立ったのだと。ローベンダールも、イシタナも、そして私の目の前をあれだけうろちょろと邪魔し続けてきたテネヴェも、ついに屈服させたのだと」
多少挑発的な口調も、不思議に嫌みには聞こえない。同じ銀河連邦内に属する者として、苦笑しつつ聞き流すことが出来た。アントネエフの語りを遮らないように注意しながら、ロカは彼の言葉に耳を傾ける。
「だが今、私が感じているこのもどかしさまではわかるまい」
そう言って金髪の偉丈夫の視線は庭園よりもさらに高い、曇天の夜空に向かって注がれた。
「全てを支配しているという感覚はないのだ。むしろ逆、全てに支配されていると言っても良い。常任委員長の就任式で宣誓した、銀河連邦に属するあらゆるものにこの身を捧げるというあの言葉ほど、常任委員長という立場を的確に表した表現はない」
滔々と語るアントネエフの横顔は、ロカを意識しているようには見えなかった。たまたま居合わせたロカを掴まえて、ただ己の胸中を吐露したいだけ――少なくともロカの目にはそう映った。
「『銀河連邦市民を代表して』という私の言葉を聞いて、陛下はたいそう驚かれたそうだ。かつての私からは想像もつかない、銀河連邦という“国”に仕えているのだという印象を受けた、と。もはやスレヴィア第一だった頃のアントネエフではないのだ、と」
そこまで吐き出してから、アントネエフは大きな口を真一文字に引き締めた。視線を夜空からロカに向けたその顔には、思いがけず穏やかな表情が浮かんでいた。
「今ならわかるぞ。お前たちが推し進めてきたこの銀河連邦とは、惑星同盟も独立惑星国家たちも、テネヴェすらも分け隔てなく巨大な存在に巻き込むことで、テネヴェを支配されることから守ろうとした、壮大な策だったのだと。喜べ、ベンバ。お前たちの策はこれ以上ないほどの成功を収めた。私もまた、言い訳出来ないほどに巻き込まれていることを認めよう」
アントネエフの言葉から滲み出るのは、敗北感とも諦観ともつかない、ひょっとしたら銀河系の頂点に立った男にしか醸し出すことの出来ない余裕なのかもしれない。ロカは一歩前に踏み出して、テラスの手摺り越しに立つ金髪の偉丈夫を仰ぎ見た。
「恐れながら申し上げます。これまで私はテネヴェが何者にも、いえ惑星同盟に屈することがなきよう、微力を尽くして参りました」
聞きようによっては無礼と罵られてもおかしくない台詞を口にするロカを、アントネエフはただ黙って見下ろしている。
「ですが我が主人レンテンベリは、閣下が常任委員長に就任される際にこう申しました。アントネエフ卿はもはや敵ではない。そろそろ仲間と呼んでも良い頃だと」
アントネエフの眉がわずかに跳ね上がったが、それも一瞬のことであった。テラスの上から睥睨する偉丈夫の姿からは、かつての獰猛な気配に代わって王者の風格すら漂っていることを、ロカも認めざるを得ない。今のアントネエフなら、どのような諫言でも耳を傾けることだろう。
「閣下は銀河連邦に巻き込まれていると仰いましたが、それは我々も同じことでしょう。連邦に属する者の中で、もはやこの巨大な渦から逃れられる者はおりません」
ロカの言葉を聞き終えたアントネエフは、唇の片端を微かに吊り上げながら、一度だけ頷いてみせた。
「渦とは言い得て妙だな。それも渦を引き起こした張本人のひとりに言われるとは、なんとも皮肉だ」
「恐縮です」
「まあ良い。ところで、同じく渦に巻き込まれた者同士として、ひとつお前に頼みがある」
ふたりの間に張り詰めていた緊張感は、既に弛緩していた。アントネエフは、それまで片手を乗せるだけだった手摺りに片肘をついて、おもむろに大きな身体を乗り出してくる。わざわざ自分に頼み込まなければならないようなことなのだろうか。ロカは当惑しながら尋ね返した。
「私の手に負えるようなことであれば良いのですが、どのような用件でしょう?」
「この連邦区に通うに適した、手頃な邸宅を探して欲しい」
予想外の依頼を受けて、ロカは思わず首を傾げた。アントネエフを始めとする銀河連邦の要職者用には、連邦区の敷地内にあるホテルの一室がテネヴェでの住居として割り当てられているはずだ。
「不動産ですか。ホテルを出てお住まいになられるのですか?」
「ホテルを出るのは私ではない。ピントンだ」
アントネエフの口から出たのは、彼の腹心の部下の名前であった。
「ピントンはスレヴィアの家を引き払って、テネヴェに骨を埋めるつもりだそうだ。既に家人も呼び寄せている」
「ピントン事務局長が? テネヴェに永住されると?」
驚きのあまり、ロカの声がやや大きくなってしまった。その反応にアントネエフが苦笑する。
「これもまた、お前たちが引き起こした渦がもたらした結果だ。ピントンも巨大な渦に巻き込まれて、ついにテネヴェへの移住を決意した。銀河連邦に死ぬまで尽くすことが、私への忠義を果たすことになると言ってな」
「それは……いや、任期を終えましたら、てっきりスレヴィアに戻られるものとばかり」
「驚いたのは私も同じだ。まさか奴がそんなことを言い出そうとは、思いもよらなかった」
そう言うアントネエフの顔からは、一抹の寂寥感が窺える。イェッタとロカに比べるべくもない、長年の主従であることは周知の事実だから、彼がそんな表情を見せるのも無理もないことであった。
「お前も知っているだろうが、あれは長いこと私に良く尽くしてくれた。せめて最後に相応しい住まいでも用意して報いてやりたい。お前ならテネヴェのそういった方面にも顔が利くだろう」
「……畏まりました。そういうことであれば伝手をたどって、当たってみましょう」
ロカの承諾を確認して満足そうに頷いたアントネエフは、そのまま迎賓館の建物の中へと戻っていった。後に取り残されたロカも、アントネエフとの遣り取りに随分と時間を取られてしまったことに気がついて、慌てて来た道を引き返す。
建物沿いの小径を早足で歩く間、ロカは今し方アントネエフと交わした会話を反芻していた。
“渦”という比喩は深く考えて口にしたわけではなかったが、アントネエフの言う通り的確な表現だったかもしれない。イェッタとタンドラのふたりから発した銀河連邦という渦は、ディーゴもキューサックもヴューラーも巻き込んで、渦そのものを打ち消そうとしていたアントネエフすら逃れることは出来なかった。ロカ自身、その渦の流れに身を委ねている。この巨大な渦は今や銀河系人類社会を巻き込んで、今後の歴史に大きな影響を及ぼしていくだろう。
それにしても、とロカは迎賓館のロビーにたどり着いたところで足を止めて、記憶を振り返る。
まさかピントンがテネヴェに移住することになろうとは。しかも、あのアントネエフの言い様から推し量ると、ピントン自身の強い意志によるものなのだろう。もしかしなくとも、主人の反対を押し切った結果だということは想像がつく。少なくともアントネエフは、ピントンがテネヴェに残ることを望んでいるようには見えなかった。
いったい何がピントンをそこまで突き動かしたのか。優秀な実務家として銀河連邦に携わっている内に、その巨大な渦に巻き込まれて、中心にまで達してしまったのだろうか。彼がテネヴェに残って銀河連邦に関わり続けるのであれば、連邦にとってプラスであることは疑いようもない。連邦に貢献することが引いてはスレヴィアへの貢献に繋がり、主人アントネエフへの忠義を果たすことになるという理屈も、わからないでもない。
だが渦の中心にいるのは、イェッタであり、タンドラだ。ふたりとピントンが例え敵同士ではなくなったのだとしても、長年忠義を尽くしてきた主人との距離を置いてまで、テネヴェに止まり続ける理由があるのだろうか。
そう、渦の中心はあくまで、あのふたりなのだ。
手に届くあらゆるものを巻き込んで、中心にたどり着いたものはきっと呑み込んでしまう。
呑み込まれたヒトがどうなってしまうのか、ロカはよく知っている。まだ渦が生まれたばかりの頃に呑み込まれて、見違えてしまった人物の記憶を、忘れるはずがない。
ロビーで立ち尽くしたまま、前室の向こうに見える大広間の扉に視線を向ける。重厚な装いが施された大きな扉の向こうでは、間もなく宴が終わりを告げる頃合いだった。やがて扉が開いて、出会ってから十年以上を経てもなお美しさを保つロカの主人が顔を見せるだろう。彼女は美しいだけでなく、彼が胸中に思い描いたことなどなど全てを見通してしまう、異能力の持ち主だ。今、ロカがひとつの結論にたどり着いてしまったことも、きっと彼女はもうとっくにわかっている。
だとしたら彼は、どんな顔をして彼女を出迎えれば良いのだろう。