第二話 ドリー(2)
その晩、居住棟内に割り当てられた客室で、シンタックはベッドに仰向けのままに組んだ両腕を枕にして寝転がっていた。
時刻は間もなく消灯時間になる。室内灯は既に消え、ベッドサイドの間接照明が就寝を妨げない程度の優しい明かりを灯していたが、なかなか寝つく気にはなれなかった。
頭上傍らのサイドテーブルを挟んだ隣のベッドでは、ヨサンが片膝を立てて壁に背を預け、こちらを見ている。
「あの女は、やめとけ」
ヨサンの言うことを、シンタックは無視できなかった。友人の言葉にはいつになく真剣味が込められており、シンタックがそのまま寝入ってしまうことを許さない響きがある。
「やめとけも何も、僕だってドリーとはさっき知り合ったばかりだ」
「あれはヤバい」
「確かに、頭のネジが跳んでるかもしれないとは思うよ。でもさ、凄く頭のいい人にはありがちだろう」
「そういうことじゃねーよ」
ヨサンは足を組み直して胡座をかいた。
「頭がいいとか熱中して周りが見えなくなるとか、その程度なら別にいいんだ。まあ、だとしてもお前とじゃ性格が似すぎて喧嘩になりそうだけどな」
自分はあれほど暴走しやすくない、と反論したかったが、ヨサンの発言の主旨はそこではないだろう。シンタックは黙ってヨサンの次の言葉を待った。
「あの女の、N2B細胞についてのご高説を聞いたろう。なんでもかんでも正体を突き止めなくちゃ気が済まないんだろうな。お前もそういうところはあるけれど、あそこまで無邪気じゃない」
医務室で興奮して喋っていたドリーを思い出す。
長年憧れ続けてきた夢について思い入れいっぱいに話す、子供そのものだった。彼女のやや幼く見える容姿と合いまって、それだけなら微笑ましいとさえ言えた。だがN2B細胞をヒトにとって異物と言い切ってしまうのは、機械と融合した化物を生理的に嫌うリュイにとって、培養家の両親への侮辱以外の何物でもない。
「あんなことを言われたら、リュイが可哀想だ」
ヨサンが一番言いたかったのは、多分そういうことだった。
あの後、ドリーが去ってから、リュイは顔を青ざめさせて、間もなく無言のまま医務室を出ていってしまった。腕利きの現像技師を失って、シンタックもヨサンも結局夕食を食べ損ねて今に至っている。ヨサンが少々苛立って見えるのは、おそらく空腹のせいもある。
シンタックはむくりと半身を起こし、ヨサンの顔を見返した。ヨサンは言いたいことを言い切ったからか、口をつぐんでいる。努めて平静を保とうとしているが、どことなく投げ遣りな内心が隠しきれていない。
ヨサンがそんな態度をとる理由を、シンタックは知っている。
青白く光る文字列に触れて気を失ってから医務室で目覚めるまでの間、シンタックは膨大な真実に接すると同時に、このスタージアという星で営まれるあらゆる出来事を見聞きしていた。
博物院という限られた範囲に限っても、展示エリアを行き交う見学者の様子や、三棟の周りに広がる公園でくつろぐ人々、道端に躓いて泣き出す子供を抱え起こす母親、生い茂る木々の緑、風に揺れて枝が擦れ合う音、一面に敷き詰められた芝の匂いまでが、シンタックの五感を通り過ぎていった。もっとも、見聞きしたと言ってもちゃんと認識できているかは別の話だ。そもそも情報量が桁外れで、シンタックひとりの脳では処理しきれない。ほとんどは脳裏に引っ掛かることなく、日常生活における背景以下の扱いで忘却の彼方に追いやられてしまう。
だがシンタックの元来の経験に由来した光景であれば、認識して、そして今も記憶に残っている。
宇宙船展示室でシンタックと別れた後のリュイとヨサンがどのように行動し、ふたりの間でどんな会話が交わされたかも、それぞれの心の内までも認識しているし、記憶している。
「そういえば」
ヨサンはふと顔を上げて呟いた。
「気になってたんだ。なんであの女は、俺とリュイのことを知っていた?」
ヨサンの問いに対して、シンタックはなんでもないような口調で答えた。
「僕が彼女に話したんだよ。そんなに詳しく話したつもりはないんだけど……」
「けど?」
「お前のことは、面白おかしく言い過ぎたかもしれない」
「なんだよ、それ」
ヨサンは鼻を鳴らすとそのまま横になってしまい、それほど間を置かずに小さな鼾をかき始めた。
ヨサンはヨサンで色々あって疲れていたのだろうが、これ以上ドリーのことを話すのは辛いと感じていたシンタックは、正直なところほっとした。何も羽織らないまま眠りに落ちたヨサンの身体にタオルケットをかけてやりながら、思わず「ごめん」と口にする。本当のことを友人に言えないままでいるのは、思った以上に精神的に堪える。
ドリーもシンタックと同じように《繋がって》いたのだ。
《繋がった》者同士は、お互いのことを知り尽くす。シンタックの友人であるリュイとヨサンのことも、ドリーは当たり前に知っている。ただ、そのせいでドリーは勘違いしてしまった。
本来のドリーは銀河系人類史の講義で出会ったときのように、どちらかといえば積極的に他人に関わろうとする性質ではない。だが医務室で再会したときは《繋がり》が解けたばかりで、目の前に彼女と同じく《繋がって》いたシンタックがいた。シンタックもそうだったが、ありえない経験から覚めたばかりの彼女は興奮していた。おそらくシンタックだけでなく全ての人々と《繋がって》いるかのように錯覚してしまったのだろう。それが錯覚に過ぎないということは、最悪の形で気づかされることとなってしまったのだが。
ヒトとヒトが《繋がる》ということについて、シンタックも完全に理解できているとは言い難い。彼もまた、ドリーのように何かしら勘違いしていることはあるだろう。ただ、一つ気にかかっていることがある。
自分が《繋がった》のは、他のヒトと直接接触したからではない。あの青白い文字が浮かび上がった壁面に触れた瞬間、体の内側から何かが作用したのをシンタックはよく覚えている。
ヒトとヒトが《繋がる》間には、ヒト以外のモノが介在しているのかもしれない。シンタックは複雑な表情で、その疑念を噛み締めていた。