【第二章 邂逅】 第三話 オーディール(2)
跳躍した、としか言いようがない。
イェッタの身体は、この宇宙港ロビーの待合席にある。だが彼女の意識は彼女の身体を置いてけぼりにして、宙に飛び出してしまった。
それとも、身体が動きを止めたまま、意識だけが先走っているとでも言えば良いのだろうか。自分自身の身体も含めて世界中が時を止めたのに、その様子を眺めうる状態という方が正確かもしれない。
(その表現は、なかなか的確です)
イェッタの意識の頭上から、まるで降り注いでくるかのように声がした。声の主を求めて天頂方向に意識を向けると、そこには果たして先ほどの少女の姿があった。ロビーが無重力状態になってしまったわけではない。だとすれば少女は宙に浮かび上がっているということになるのだが、不思議なことにイェッタにはそれが当然のことに思えた。なぜなら彼女自身がロビーの床から自然に離れて、少女の目線と同じ高さにたどり着いてしまったのだから。
(私たちは今、思念のみで意思の疎通を果たしています。この姿も、元の身体的特徴を思念が象っているに過ぎません。肉体的・物理的な媒介を経ないため、意思の交換速度はあなたが想像する何百倍も速い。必然的に周りが時を止めているように見えることになります)
目の前で軽やかに浮かぶ少女――彼女の言う通りなのであれば少女の思念からは、少なくとも敵意は感じられない。少女が何者なのかは想像もつかないが、会話が通じない相手ではなさそうだ。そうは言っても警戒まで緩めることは出来ず、イェッタは肩に力が入ったままに少女に対して身構える。少女はそんなイェッタの態度を気にする風もなく、宙に浮かんだ状態で長衣の裾を摘まみ上げ、器用にお辞儀してみせた。
(初めまして、イェッタ・レンテンベリ。タンドラ・シュレスは先ほど治療が始まって麻酔状態に入りましたから、ちゃんとお話しできるのはあなただけということになりますね。私の個人名はオーディールです。私たちにとって個々の名前はあまり重要ではないんですけれど、なければないであなたが困りますからね)
少女がイェッタやタンドラの名前を知っていることなど、今さら驚くほどのことではない。おそらくタンドラが意識を失い、ロカが席を外したこのタイミングを狙って接触してきたのだろう、ということも推察できる。
そんなことよりもイェッタが引っかかったのは、「私たち」という少女の一人称複数形だった。それはつまり、宇宙港を訪れて以来押し潰されそうにすら感じる巨大な意識、思念は大勢の思念が集まって形を成したものであり、この少女はその集合の一部であるということを示唆している。全く根拠のない、一足飛びに導き出された結論だったが、イェッタは直感的に自分の憶測が正しいと確信していた。
(私たちというのは、この宇宙港にいるあなたのお仲間たちのこと?)
(宇宙港だけではありませんよ)
オーディールと名乗った少女はそう言うと、右手を伸ばして宇宙港ロビーの天井一面に広がる窓ガラスを指し示した。ガラス越しに見えるのは宇宙空間に浮かぶ、白雲と海面と大地に彩られた惑星だ。今は大気の流れも動きを止めて、白と青と緑と茶色がマゼンダ状の紋様となって見える――いや、それだけではなかった。
直接目に見えるはずがない、だがイェッタには間違いなく感じ取ることの出来る、思念の動きがある。それもひとつだけではない。何百何千どころではない、俄には数え切れないほどの動きを、イェッタは感知した。
そもそも静止衛星軌道上にある宇宙港から惑星を眺めて、生物の活動などわかるはずがない。仮に認識できたとしても、ただの人間であれば、この宇宙港のロビーで彫像のように固まって見える多くの人々たちと同様に、ほとんど動きを止めて見えるはずだ。にも関わらずイェッタの意識野は、スタージアの地表上で多くの思念たちが蠢いている様子を認めることが出来た。ほとんど時が止まったに近いこの状況の下、あの惑星上で確実に動きを見せている思念の数は、果たしてどれほどに上るのだろう。
(スタージアの人口はおよそ二千三百万人になりますが、その大半は互いに《繋がって》います)
唖然として半開きになった唇をそのまま、スタージアの地表に見入るイェッタを尻目に、オーディールが淡々と説明する。
(これほどのヒト同士の《繋がり》は、ヒトだけでは維持することは出来ません。そこで我々はヒト以外に機械とも《繋がり》、計算資源として活用しています)
(機械とも《繋がって》いる、ですって)
(ええ。ちょうどタンドラとあなたが《繋がり》を保つために、医療用機器を利用しているいるように、です)
オーディールの何気ない指摘に、イェッタの切れ長の目が見開かれた。
(私たちも、機械と《繋がって》いると。そう言うのね)
(今さら初めて知ったような素振りを見せても、私たちには意味がないですよ)
まるで不出来な生徒を諭すような口調で、オーディールは人差し指を立てながらそう言った。
(惑星クロージアで重傷を負ったタンドラを治療するために、生命維持装置を彼女の身体に直結することを厭わなかったのはイェッタ、あなたではないですか)
少女の声が、冷静に指摘を続ける。大人というにはまだまだ足りない幼い顔立ちには、さながら年季の入った老婆のような、落ち着き払っている上に少々意地の悪い笑みが浮かんでいた。
(命を保つためには《オーグ》になることも躊躇わないという資質は、タンドラ・シュレスではなくあなた、イェッタ・レンテンベリのものです)
少女の眼差しを受けて、イェッタは何か落ち着かない、後ろめたい感情を掻き立てられた。つい口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど言い訳がましかった。
(……あの状況では《オーグ》が嫌だとか言ってられる場合じゃなかったわ。タンドラが死んでしまったら、宇宙船を飛ばすことも出来なかった。彼女が私の身体を使って宇宙船を操縦して、ようやくクロージアから脱出することが出来た。生き残るためにはほかに方法がなかったのよ)
(別にあなたの判断を責めているわけではありません。私たちもこうして機械と《繋がって》いるわけですから。ただ私たちとあなたたちは、規模こそ違えどよく似ているということをわかって欲しかったんです)
オーディールの顔は微笑を保ったまま、いつの間にか老婆の意地の悪さは掻き消えて、見かけ相応の少女らしい好奇心を覗かせていた。
(クロージアという星の生態系は、そんなに私たちに似ていますか。さすがに興味をそそられますね)
宇宙港に降り立った瞬間から感じていた圧迫感が、忌々しい記憶を連想させていたことを思い出して、イェッタの形の良い眉がひそめられる。
(お陰で私が受けたショックは、並大抵じゃないわ)
(あなた方の記憶を覗かせてもらうことでしか知ることは出来ませんが、クロージアの天然の精神感応力に刺激を受けて、調査隊員たちのN2B細胞が精神感応的機能を復活させたということでしょう。クロージアの生態系と精神が完全に癒着する前に離脱できたのは、僥倖でした。しかし帰還後もあなた方ふたりの間ではN2B細胞を介した精神感応的な《繋がり》が強まり、性交によってディーゴ・ソーヤとも《繋がり》を持つことになった。まさか今頃になってN2B細胞の精神感応的機能、その伝播能力まで復活させるヒトが現れるとは、驚きです)
(……なんですって?)
(自由に操ることが出来たのは唯一、読心能力だけだったようですね。でもあなた方は、その読心能力をフルに活用している。報道機関首脳陣の弱みやグレートルーデ・ヴューラーの店の秘密を読み取るなどして、上手に周囲をコントロールしてきたところはお見事です。読心だけでも、使い方次第でここまで有用な活用が可能だという、お手本のようです)
(ちょっと、待ってちょうだい!)
止めどなく語り続けられるオーディールの言葉を、イェッタは強引に遮った。少女が語る内容は、聞き捨てならないことだらけであった。
(N2B細胞の、精神感応的機能って何? そんなの初耳だわ。生命維持を目的とした身体の調節以外に、そんな機能があるっていうの? クロージアの精神感応力が天然というなら、私たちのそれは人工的なものだと?)
(医者のあなたには、かえって信じられないのも仕方ないことです)
くるりと向きを変えたオーディールの、長衣の袖口から伸びた細い手の先にある人差し指が、ロビーの奥に見える宇宙港附属病院の受付口を指し示した。
(あなたが今思い浮かべている通りで、概ね間違いはありません。ただ詳細となると膨大な情報量になるので、そこら辺は治療のついでに、タンドラの脳に刷り込んでおきましょう。後でたっぷりと彼女の記憶をなぞって下さい)
宇宙港附属病院も、当然ながらオーディールの手が及んでいる。というよりも完全に支配下に置いているのだろう。まるでメモリーチップにデータを書き加えるかのような安易さで語る少女の口調に、イェッタはただ呆然とするばかりだった
この少女と対等に向き合えるという認識を、イェッタはとっくに改めていた。同じように《繋がり》合うヒト同士なのだとしても、スケールの差がありすぎて比較にならない。こちらはディーゴを失ってたったふたりしかいないというのに、少女が《繋がる》相手は何千万人という規模なのだ。この星の住人は、その有り様がイェッタの想像を絶している。彼女が多少足掻いてみせたところで、とてもどうにか出来る相手ではない。
もはや観念するしかなかった。
ディーゴの遺志を継いで、銀河連邦構想を実現するためにわざわざ訪ねてきたというのに。
スタージアに対する畏れと、己の無力さを噛み締めて、イェッタを象る思念が無念の余り瞼をつぶる。