【第二章 邂逅】 第三話 オーディール(1)
惑星の静止衛星軌道上に浮かぶ宇宙港に、病院施設が併設されているのには理由がある。往々にして、地上の重力から解き放たれた無重力空間の方が、治療成功率が高まるケースが多いのだ。タンドラも無重力空間での診察・治療を勧められており、彼女はスタージア宇宙港に到着するとそのまま附属病院へと入院する手筈となっている。
宇宙船は先刻無事に入港し、乗客たちは下船を前にして気もそぞろだ。イェッタはタンドラに付き添って、彼女の安静な下船を見届ける役回りである。病人連れという理由により、ほかの乗客たちに先駆けて乗降口の先頭でモトベッドに寄り添う彼女の顔は、やや気分が優れないように見えた。
(落ち着かないね)
モトベッドに身体を横たえたままの、タンドラの意識がイェッタに囁きかける。
(あんたも、さっきから感じているでしょう)
(ええ)
イェッタは辺りを伺うように、何度も周囲に目配せしていた。
(この圧迫感は、なに)
宇宙船を下りてアライバルゲートを通り過ぎる頃には、イェッタは目眩すら感じていた。
ロビーをせわしなく行き交う大勢の人々の中にあって、三人は良くも悪くも注目を集めていた。大がかりなモトベッドと、その脇に付き従うように繋がれている医療用ロボット。そしてモトベッドを挟むように立つ、均整の取れた長身の精悍な黒人男性と、丁寧にひとつ編みにされた蜂蜜色のロングヘアをうなじに垂らす、美貌の白人女性という組み合わせは、人目を引くのに十分だった。
特に特徴的な医療用ロボットと繋がった、ロボット以上に特徴的なタンドラのモトベッドは目立つ。単に奇異の目で見る者もいれば、ロカのように《オーグ》を連想して眉をひそめる者もいた。スタージアという星を訪れる人々は《原始の民》への信仰が厚いことが多いため、《原始の民》を追い出した元凶とされる《オーグ》を忌み嫌う割合も相対的に高い。
だがイェッタが感じる圧迫感は、《オーグ》嫌いがタンドラに注ぐ嫌悪感とはまた別のものだった。圧迫感という表現が、そもそも相応しくないかもしれない。ただ、彼女たちに注がれる多くの意識の中にひとつだけ、飛び抜けて巨大な意識がある。
(なんだか嫌な記憶が呼び起こされそうで、参ったね)
タンドラの呟きには、言葉ほどには余裕がない。それはイェッタも同様だった。ふたりが《繋がって》以来、思い出したくもない記憶というものがふたつある。ひとつは言うまでもなく、ディーゴと引き裂かれた瞬間であり、もうひとつは――
「どうかしたのか、顔色が悪いぞ」
気遣うようなロカの言葉が耳に飛び入り、足元から沈み込んでいきそうだったイェッタの意識が現実に引き戻された。
一行は下船するとそのまま附属病院に直行し、タンドラのモトベッドを院内に運び入れ、先ほどイェッタによる病状の説明や引き継ぎを終えたところだった。既に予約していた通りに、タンドラは早速治療に入る。再び宇宙港のロビーに戻ったイェッタとロカは、地上へと降下するシャトルに乗り込むまでの時間を宇宙港のロビーで潰すことにした。タンドラと再会するのは、地上からこの宇宙港に戻ったときだ。
スタージア宇宙港のロビーは天井一面にクリスタルガラスが張り巡らされて、その向こうに広がる惑星スタージアの姿を一望することが出来る。惑星の表面は大気の存在を匂わす白い雲と、磨き抜かれた水晶のように青い海が大半を覆い、その合間に人々の住まう緑や茶色の大地が見え隠れしている。かつて《原始の民》がそう呼ばれるようになる前の大昔に、《星の彼方》の向こうで暮らしていた惑星に似せて造られたというスタージアは、宇宙空間からの眺めの美しさもひときわだ。この眺望に魅入られて、思わず足を止める人々は多い。
ロビーの所々に設けられた待合席のひとつに腰掛けて、イェッタはやや青ざめた表情のまま口元に右手を当てた。
「昨日、草案の見直しに夢中になりすぎて、あまり寝れなかったせいかもしれません」
寝不足自体は嘘ではなかったが、宇宙港全体に蔓延する得体の知れない意識については、あえて伏せることにした。そもそもロカに対して、どうにも説明が難しい。
「シャトルの搭乗までは少し時間がある。手続きは私が済ませておくから、お前は少しここで休んでいろ」
「ありがとうございます」
ロカはイェッタの言葉に無言で頷きながら、その場を離れようとしてふと足を止めた。
「そろそろ、その畏まった口調は改めてくれ」
肩越しに振り返ってそう言うロカに対して、イェッタは小首を傾げる。
「そうは言っても、急に変えるのも不自然では」
「お前の片割れは滅法口が悪かったぞ」
そのまま身体ごと向き直って、ロカはイェッタの目を見返した。
「イェッタ」
ロカが彼女のファーストネームを口にしたのは、それが初めてのことだった。
「市長の退任後、私はお前の補佐に回る」
「伺っております」
「お前の中にディーゴが混じり、生き残っているという言葉を信じて、私はお前を支えていくつもりだ。だからお前もディーゴと同じように、私に口を利くときは対等以上であってくれ」
それがロカなりの気持ちの切り替え方なのだということが、イェッタには当然理解できた。未だ整理のつかない内心を押し殺して、彼はここまでイェッタたちのサポート役に徹している。タンドラの回復については確約できずとも、せめてその程度の要望には応えないわけにはいかなかった。
「わかったわ。じゃあ手続きはよろしくね、ロカ」
イェッタの言葉に改めて頷いてから、踵を返したロカの長身が、ロビーの人混みの中へと紛れていく。彼がしっかりとした足取りを取り戻したことを確かめて、イェッタは少なからず安堵した。
ディーゴに捧げようとした忠誠心が行き場を失って、ある意味キューサック以上に平常心を失っていたのがロカだった。目の前で苦しむディーゴに対して、何も出来ずに最後を看取ることになってしまったのだから、彼の精神にどれほど深い傷跡を残したかは想像に余りある。イェッタに対しても含むところがないわけがない。
しかしそんな内心も隠し通せないということを知ったのは、ロカにとって必ずしもマイナスではなかった。そうでなければ彼は己を面従腹背へと追い込んで、早晩胃壁に穴を空けることになっていただろう。下手に装う必要がない、思うままに口を利くしかないという状況は、彼がストレスを抱え込む可能性を軽減しているとも言えた。裏表のない態度であり続けることが、同時にイェッタに誠実に対することにもなる。ロカのそんな考え方が、ディーゴにとっては眩し過ぎて、また羨ましかったのだということを思い出す。そしてそれはイェッタにとっても好ましいものに思えた。
「気分が悪いの、治りました?」
突然傍らから声をかけられて、イェッタは思わず小さく悲鳴を上げた。
「ああ、ごめんなさい。驚かすつもりはなかったんです」
幾分幼さを感じさせる、少女の声だった。イェッタが振り返ると、隣りの席にはいつの間にか小柄な人影があった。明るい茶色の髪を頭の上で団子のように結わいた、見たところ十代半ばぐらいに思える少女が、ちょこんと腰掛けている。少女の身体を包む長衣はサイズが合わないのか、彼女の背格好にはゆったりしすぎているように見えた。白地の長衣の裾に編み込まれたライトブルーの刺繍は、彼女がスタージア博物院に入って間もない、まだ博物院生になったばかりであることを示している。
いったい、この少女はいつから隣りに座っていたのだろう。にこにこと笑いかけてくる少女を眺めている内に、やがてとてつもない違和感がイェッタを襲った。
いつの間にか――そんなことが有り得るだろうか?
惑星クロージアの調査から帰還して以来、周囲の人間の意識、感情は、耳を塞いでも目をつぶっても、否応なしに感知してきたのだ。ましてや見知らぬ他人がこんなすぐ側に近づいてきたことに、全く気がつかないことなどはなかった。
「そんなに警戒しないで。ちょっとばかりあなたの精神感応力を抑え込んだだけですから。でないと、こうして近づくことも出来ないでしょう?」
屈託のない笑顔のままに少女が口にした台詞は、イェッタの表情を凍らせるのに十分だった。半開きになった唇の間から、言葉が出てこない。意識して少女の思考を読み取ろうとしても、何も感じられないということに気づく。半ば恐慌状態に陥りかけたイェッタの顔が、少女の小さな両手にそっと挟まれた。
「驚かないで下さいね」
少女がその言葉を囁くように唱えた途端、イェッタの意識は跳躍した。