【第一章 覚醒】 第四話 三位一体(2)
今まさにモトチェアに揺られながら、キューサックは市長公邸の執務室を出たところだった。斜め後ろに控えながらキューサックの後を追うロカの目に、公邸の玄関ホール中央に立つひとりの人物の姿が映る。中肉中背に黒髪をなでつけたやや面長の顔は、よく見慣れたディーゴ・ソーヤの顔であった。
「ご機嫌麗しゅう、市長閣下。少しばかりお時間をいただきたい」
ディーゴは芝居がかった言い回しと共に、仰々しい仕草で頭を下げた。モトチェアを止めたキューサックが眉をひそめる。無言の市長に代わって、ロカが尋ね返した。
「市長はこれから貿易商人組合との会合が入ってる。別の機会にしてもらえないか」
「組合のお歴々との会食ね。あれはもうキャンセルしといた」
なんでもないような口調で、ディーゴはさらりと言い放った。今度はロカの右眉がぴくりと跳ねる。相手はテネヴェの経済界を代表する有力団体だ。軽々しく扱って良い相手ではない。
「お前にそこまでの裁量を与えたつもりはないぞ。どういうつもりだ」
明らかに不機嫌な声音で、キューサックが問い質す。するとディーゴはおもむろに腰を屈めてモトチェアに座るキューサックと視線を合わせると、ずいと顔を突き出した。
「大事な話があるんだ。顔を貸してくれ」
それまでの軽薄な調子が一変して、父に向けられたディーゴの眼差しは真剣だった。
「引き合わせたい相手でも居るのか、誰だ」
「市民議会最大会派の領袖、グレートルーデ・ヴューラー」
予想だにしない人物の名前を耳にして、キューサックはさすがに目を丸くした。
「……お前、あの女と面識があるのか」
「俺も先週、初めて顔を合わせたばかりだ。だがそんなことはどうでもいい。親父と非公式に会うことについては、ヴューラーにも承諾を得ている」
目を見開いていたのは、キューサックの後ろで控えるロカも同様だった。唐突な振る舞いといい、口にする内容といい、目の前のディーゴはこの十年間で初めて見る姿だ。だがディーゴはロカの驚愕などまるで無視し、畳みかけるように父の説得を続ける。
「先ほど向こうから、今から三十分後に一時間だけなら時間が取れる、と連絡があった。親父もいい加減、ヴューラーと膝つき合わせて話すしかないとわかっているだろう。組合の皆様には申し訳ないが、この機を逃すわけにはいかない」
「……あの魔女以外に同席する者はいるのか」
「いない。親父とヴューラー、それに俺の三人だけだ」
父子がほとんど睨み合うようにして向き合う間に、張り詰めた空気が流れる。だがそれもほんの一瞬のことだった。モトチェアの背凭れに寄りかかりながら、キューサックは溜息交じりに口を開いた。
「よかろう、ヴューラーと会う。案内しろ」
「市長、よろしいのですか。いくら補佐官の口添えがあるとはいえ、相手はあのヴューラーです。なんの準備もなしに会談に臨むのは、いささか性急では」
当然の懸念を口にするロカに対して、キューサックが振り返って見せた目には、それ以上の諫言を許さない光が宿っていた。ロカもそれ以上口を開くような真似はせず、キューサックと共に黙ってディーゴの後に付き従っていった。
三人が乗る市長専用のオートライドが向かった先は、セランネ区の郊外に広がる森林地帯の、ところどころに点在して盛り上がって見える小高い丘の上に立つ一軒家だった。広大な敷地を囲う外壁の唯一の入り口である門を通過して、なお数分後にたどり着いたのは、広さはあるが意外なほど質素な外観の平屋建ての屋敷である。その玄関前にたたずんでいた人影は、オートライドの光を見つけてこちらに顔を向けた。
「お待ち申し上げておりました、市長閣下。ヴューラー議員はこの中でお待ちです」
モトチェアの自動姿勢制御によって着地音もなしにオートライドから降りたキューサックを見て、イェッタ・レンテンベリが深々と頭を下げた。キューサックは彼女の顔を一瞥しただけで何も言わず、その前を通り過ぎていく。ディーゴとロカがその後を追うと、イェッタも三人に続いた。
玄関をくぐると外見同様に質素、というよりは重厚な内装が施された小ホールが広がっていた。奥の応接間に至る前室なのだろうが、それにしてはゆったりとくつろげるだけのスペースがある。そこで三人を待ち構えていたのは、褐色の肌を真っ赤なドレスに包んで見事なコントラストを身にまとった、この家の女主人だった。
「ようこそ、我が別宅へ。歓迎するわ」
長身を誇るように背筋を伸ばしたグレートルーデ・ヴューラーが、両腕を広げて客人を出迎える。そこで初めて市長は口角を上げた。
「お招きに預かり光栄だ。こんな素敵な別宅を所有されているとは、議員もなかなか趣味が良い」
市長の言葉に続いて、ディーゴが頭を掻きながら口を開く。
「遅くなって申し訳ないね、グレーテ。これでもパイプ・ウェイをかっ飛ばしてきたんだが」
「いいのよ、ディーゴ。急に呼び出したのはこちらなのだから、気にしないで」
ファースト・ネームを呼び合うふたりを見て、ロカは驚きを隠すのに苦労した。モトチェアの上でわずかに頬を動かしたキューサックを見て、ヴューラーが微笑を向ける。
「あなたの息子は大した大法螺吹きね。あんまりにも法螺が過ぎて、気に入ったわ」
キューサックは不審げに首を傾げた。
「はて、こいつは脛齧りではあっても、そんな風呂敷を広げるような気宇があったとは思えないが。何か失礼でも働いてしまったのなら、お詫びしよう」
「失礼なんてとんでもない。今日はその大法螺について話し合うために呼んだのよ」
ヴューラーが両手を広げて市長の発言を打ち消す素振りを見せる。そんなふたりのやりとりに、ディーゴが割って入った。
「ここで突っ立ったまま話し込むのもなんだ。続きは腰を落ち着かせてからにしないか」
「あら、失礼。せっかくお越し頂いたんだから、どうぞ奥へ入って。少しだけどアルコールも用意してあるわ」
ヴューラーに導かれてキューサックとディーゴが応接間へと姿を消す。その後ろ姿を見送ってから、ロカはようやく一息をつくことが出来た。ここから先はあの三人だけの時間だ。秘書である自分はしばらくこの前室で待機することになる。