【第一章 覚醒】 第三話 ヴューラーという女(3)
マネージャーの声が告げた名前を聞いて、ヴューラーは思わず大きく目を見開いた。同時に目の前の勾玉型のテーブルの上に、若い女性の立像を映したホログラム映像が浮かび上がる。蜂蜜色のロングヘアに、端正な容貌の若い女性。ヴューラーを除く三人も、映像を見て銘々に反応する。
「こちらの女性です。いかがしましょう?」
マネージャーの問いにしばし間を置いてから、ヴューラーは「いいわ。お通しして」と答えた。
「正気ですか? この女は、今や市長側の人間ですよ」
短髪の女が驚きと共に領袖の顔を振り返る。中年男も女の言葉に頷いてみせた。だが彼らの反応に対して、ヴューラーはベープ管の先を個室のドアに向けて見せた。
「せっかく集まってくれたところ悪いけど、今夜は皆、お引き取りちょうだい」
「一対一でお会いになるつもりですか? それはいくらなんでも不用心です。せめて私だけでも」
そう申し出た痩せぎすの青年は、冷ややかな眼光を注がれて表情を硬直させる。
「私の言うことが聞こえなかったのかしら?」
否も応もない。畏まりながら三人が個室の外へと退去すると、入れ替わるようにしてイェッタが姿を現した。
ヴューラーはソファにふんぞり返りながら、彼女をその大きな目で凝視する。
見るからに派手なヴューラーとは対照的な、地味なパンツスーツという装いにも関わらず、持ち前の美しさが損なわれていない。それ以上にヴューラーの凝視に対して一向に怯む気配がないところが、彼女の興味を誘った。
「一ヶ月以上も前の招きに、今頃応じてくるとは思わなかったわ」
ベープの煙と共に吐き出されたヴューラーの言葉に、イェッタは正面に立ったまま笑顔を返した。
「遅くなりまして申し訳ありません。色々と立て込んでいて、時間がかかってしまいました」
とってつけたような口上をぬけぬけと口にされて、ヴューラーは我知らず微笑した。そのままベープ管の先で斜向かいの席を指し示すと、イェッタは勧められるままに腰を下ろす。
「好きなものを頼みなさい。なんだったらそこの棚から選んでもいい」
ヴューラーが促すと、イェッタは「お言葉に甘えて」と答えて傍らの現像機を操作した。程なくして中からシードルの入ったグラスを取り出し、そのまま顔の前まで掲げる。
「改めて。お招きくださいまして、ありがとうございます」
ヴューラーも飲みかけのウイスキー入りグラスを掲げて、形だけの乾杯の挨拶を交わす。ふたりそろってグラスを軽く呷り、改めて目を合わせた。
「まさか声を掛けた次の日に、市長補佐官の元に転がり込むとは思わなかった」
そう言ってヴューラーはグラスを片手に揺らした。残り少ないグラスの中で、半分以上溶けきった氷たちの音が小さく響く。
「報告会のその日に補佐官からお誘いを頂きました。調査隊が解散して不安定な立場でしたから、私としても渡りに船だったんです」
「あのぼんくらがそこまで女に手が早いとは、誤算だったわ」
「ぼんくらと仰いますが、この店にヴューラー議員がいらっしゃることを知ったのは補佐官のお陰なんですよ」
「へえ、そいつは驚いた」
まるで信じてないという顔で、ヴューラーは薄い笑みを浮かべる。
「親の脛齧りの代名詞みたいな男だと思ってたから、本当なら大したもんだわ」
ヴューラーの態度に身じろぎひとつ見せず、イェッタは小さく微笑を浮かべた。シードルに口をつけて濡れた唇が、室内の抑えめの照明に照らし出されて艶やかに光る。琥珀色の瞳から放たれる躊躇のない眼差しは、ヴューラーには久しくない経験だ。数秒の間流れた沈黙の後、先に口を開いたのはイェッタだった。
「補佐官はあなたの想像以上に様々なことをご存知です。例えば……」
グラスをテーブルの上に戻しながら、イェッタは上目遣いのままいかにも思わせぶりに言った。
「このお店の本当の持ち主がどなたかということも、ご存知ですよ」
途端にふたりの間に大きな蒸気の煙の塊が割り込んだ。視界を遮るかのように生じた白煙が、やがてエアコンディショニングから吹きつける微風によって晴れ渡ると、ふてぶてしいままのヴューラーの顔が現れる。彼女は相変わらず唇の端に微かな笑みをたたえていたが、言葉を発するまでにはなお少しの時間を要した。
「……そいつは驚いた」
そう言うとヴューラーはソファから上体を起こし、ベープ管をテーブルの上に置いた。ふたりの距離がその分縮まって、改めて見返した先にある美しい女の顔が、ここに来てからまだ一度も微笑を崩していないことに気づく。
「このままあなたの実家に圧力をかけ続けようかと思っていたところだけど、それぐらいで堪えるたまじゃなさそうだ」
「父も兄もただの善良な農家に過ぎません。どうかご容赦いただけるようお願いします」
「今さらね。まどろっこしい会話は抜きにしましょう。用件はなんなの」
するとイェッタは微笑を掻き消し、両手を膝の上に乗せて畏まった態度へと改めた。
「本日はディーゴ・ソーヤ市長補佐官の代理人として伺いました。補佐官は現状を打開するためにヴューラー議員との会談を求めています」
イェッタの申し出に、ヴューラーは大きな目を細めて尋ね返した。
「補佐官と会談?」
「はい」
「市長ではなく?」
「市長補佐官と、です」
長身の女は腕を組みながら、再びソファの背に身体を凭れかけさせた。眉間にはいささかの失望が漂っている。
「補佐官ごときとの会談なんて、私にメリットがないわ。こう見えても忙しい身なの」
そう言ってヴューラーは冷ややかな視線をイェッタに放った。並みの人間なら心臓を鷲掴みにされるかのような気分になるところだが、イェッタはたじろぎもしない。
「今現在も惑星開発推進派への糾弾報道は過熱しています。このままですと推進派を束ねてきたヴューラー議員の立場も危うい。補佐官はそのことを危惧しています」
「私の身を案じてくれているっていうの、あのぼんくらが」
「補佐官は、今後のテネヴェの未来のためにはヴューラー議員のお力が必要、と考えています」
イェッタはあくまでも真摯な態度を保ち続けたまま、ヴューラーの顔を真正面から見据えている。この女の言葉を額面通りに受け取って良いものか。彼女の顔に浮かんでいるのは先ほどから取り繕われた表情ばかりで、どうにも腹の内が窺い知れない。ヴューラーは慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「わからないわね。私が補佐官と会えば、テネヴェに明るい未来が開けるとでも?」
「少なくとも、その第一歩を踏み出すことが出来ます」
そう言ってイェッタは一息区切り、心持ち身を乗り出した。一瞬伏せられた瞼が再び開かれると、彼女の琥珀色の瞳には、今までにない強い感情が込められていた。
「頓挫した惑星開発計画に代わり、ローベンダールとも対等な立場を築きうる新たな構想について、是非ともヴューラー議員と胸襟開いて話し合いたい。それが補佐官の真意です」
ぽっと出の市長補佐官の、その代理ごときが口にするにしては、大仰な話だ。
大言壮語と一笑に付しても良かった。
だが笑い飛ばしたところで、代案がないこともまた確かだ。
それ以上にイェッタが初めて見せた、剥き出しの想いを顕わにした表情が、ヴューラーの視線を釘付けにした。
相手の迫力に気圧されてしまったのだということに気がついたヴューラーは、それと悟られぬようにベープ管を探す。視線を落とさないままテーブルの上に手を這わせると、いつの間に手に取ったのか、イェッタからベープ管の吸い口をこちらに向けて差し出された。
無言で受け取ったベープ管を咥えて大きく吸い込み、斜めに顔を逸らして細く煙を吐き出してから、ヴューラーは視線だけをイェッタの顔に向けた。
「大きく出たわね」
「恐れ入ります」
そう答えるイェッタの顔には、既に冷静な表情が舞い戻っている。癪ではあるが、一瞬でもこの女の表情に呑まれてしまったのは事実だ。ヴューラーの腹は決まった。
「いいでしょう。あのぼんくらがどれほどの大法螺を吹くつもりか、確かめさせてもらうわ」
「ありがとうございます。補佐官も喜びます」
イェッタは安堵して笑顔を浮かべたが、ヴューラーの目にはあくまで意識しての振る舞いにしか映らない。テーブルからグラスを手に取ったイェッタが、残ったシードルに口をつける。その様子を複雑な表情で眺めていたヴューラーは、グラスから口を離した彼女に対しておもむろにベープ管の先を突きつけた。
「ひとつだけ訊いておきたいことがあるの」
ベープ管の先でグラスを手にしたまま、イェッタがこちらに顔を向ける。
「なんなりと」
「ここまでの話、補佐官なんて関係ない、本当は全部あなたの入れ知恵なんでしょう?」
多少なりとも虚を突かれた表情が見れるかもしれない、というヴューラーの期待は叶わなかった。その代わりに微笑未満の笑顔を浮かべながら、イェッタは小さく頭を振る。
「とんでもない」
そう言ってグラスをテーブルの上に戻すと、イェッタは身体ごとヴューラーに向き直って言い足した。
「補佐官と私は一心同体です。私の言葉は補佐官の言葉そのままと受け取っていただいて、間違いありません」
自信でも確信でもない、ただありのままの事実を告げるときの、淡々とした口調だった。