【最終章 星の彼方 絆の果て】 第二話 開闢
エクセランネ区には常日頃と変わらない、多くの人々で満ち溢れていた。
銀河系人類社会でも随一と称される、テネヴェの中心街区の街並みを、多くの老若男女が忙しなく、あるいはのんびりと、思い思いに行き交っている。
《スタージアン》に問答無用で覆い尽くされて、間もない内に今度は《オーグ》に呑み込まれて、そしてクロージア生態系との激しい邂逅を経た上で、人々は全員が《繋がり》から解放されていた。
およそひとりの人間が想像しうる限界を、はるかに凌駕する激動の経験が、ただの妄想だったと断じる者はひとりもいない。それは人々がこれまで培ってきた常識からかけ離れた記憶であり、だが全てを白昼夢と思い込むにはこれ以上ない現実感と説得力を伴う真実であり、だからといって理解するには余りにも遠大で途方もなさ過ぎた。人々がこの経験をそれぞれに咀嚼するまでには、さらに長い月日が必要だという、それだけは万人が抱く共通の思いだろう。
ただ一方で、はっきりとしていることがある。
銀河連邦という巨大な政体の運営を一手に担ってきた《クロージアン》は、もはや存在しないということだ。
三百年もの長きに渡って銀河系人類社会の中心たりえてきた銀河連邦は、《クロージアン》の手腕なしでは有り得なかった。それが強権的であったり非人道的な一面を見せることはままあったとしても、《クロージアン》の果たしてきた役割が巨大であることは誰も否定出来ない。
《クロージアン》という支柱を失って、銀河連邦は持続可能なのか。それどころか銀河系人類社会の今後の展望さえ、誰の目にも見通せない五里霧中の中にある。
「今後どうなることか、皆目見当がつかん」
白髪の混じった金髪の顎髭を困り顔で撫でながら、ラージ・ラハーンディの口調はどこか楽観的だった。
「皆が衝撃的な体験を持て余して、とりあえず日常生活をなぞっているだけだからな。互いに一度でも《繋がった》人々が何を考え、どう動くのか。日を追ってみないことにはわからんだろう」
ホログラム・スクリーンの中で巨体を揺すらせながら、そう言ってラージはベープ管の吸い口を咥える。
「衝撃を受けているのは僕もですよ」
執務卓に片肘を突きながら若干砕けた様子で、ルスランは画面の中、トゥーラン自治領総督府にいるはずの父の顔を見返した。
エカテ・ランプレーが心血を注ぎ、ハイザッグ・オビヴィレが強引に推し進めた銀河ネットワークは、《オーグ》消滅後も健在だった。ルスランは今度こそ何とも《繋がら》ない父と、複数の星系を挟んだ恒星間距離を隔てて、直接通話の最中にある。
「だがいつまでも呆けているわけにはいかん」
ベープの煙の固まりと共に吐き出されたラージの言葉に、ルスランも同意する。
「これから銀河系中で、大量のN2B細胞代替薬が必要になります」
「オルタネイトの生産体制については自治領に一日の長がある。当面は自治領の設備をフル稼働させて、連邦全域への供給に努めよう。だがそれも長くは保たん」
「多少無理を押してでも、生産規模拡大は急務ですね。場合によっては連邦外諸国への人道的供与も必要かもしれません。各国首脳には急ぎ確認を取ります」
息子が事態を冷静に把握していることを確かめて、ラージは安心したように頷いた。
「それにしても《オーグ》の消滅がこんな影響を残すことになろうとはな」
「だけどそのお陰で、誰ひとり命を落とさずに済みました」
そう言うとルスランは父を映し出すホログラム・スクリーンから視線を逸らし、執務卓前の応接ソファに目を向けた。
そこにはカーリーン・ファウンドルフが、脱力したかのような肢体をソファに投げ出している。呆然とした表情のファウンドルフは、ルスランの視線に気がつくと何度か瞼をしばたたかせ、やがて顔を向けた。
「ああ、ごめんなさい。なにか言ったかしら?」
その声は普段の色艶のある声音に代えて、繕う余裕もないほどに無防備であった。
「いや、なんでもない。《繋がり》のない感覚にはまだ慣れないのか」
「そうね、なんだかいきなり目と耳を塞がれた気分。まだ慣れるまでしばらくかかりそうよ」
額に流れ落ちるプラチナブロンドを掻き上げながら、ファウンドルフが軽く頭を振る。その顔には信じられないという表情と同時に、生まれて初めて精神感応的に《繋がら》ないという状況への戸惑いが、ありありと現れている。
「無理はするな。僕にはよくわからないが、生まれながらに《繋がって》いた君にとっては変化も強烈だろう」
「お言葉に甘えたいところだけど、そうも言ってられないでしょう」
背筋を伸ばしてそう答えたファウンドルフの顔は、だが未だ夢見心地から醒めないままのように見えた。
「そんなに慌てなくとも、どうせ色々と手伝ってもらうことになる」
「でも」
「今ぐらいは生き延びた実感を噛み締めていてもいいんじゃないか」
そう言ってルスランは、再びホログラム・スクリーンに目を向ける。それから父と何度か事務的な会話を交わしている彼の耳に、やがて堪えきれないかのような涙声が飛び込んできた。
「私、生きてるのね……」
ソファの背凭れに身体を預けて、焦点の定まらない視線を天井に投げかけたまま、ファウンドルフの青い瞳からとめどもなく流れ出すのは、歓喜の涙だ。
憚ることなく頬を濡らすファウンドルフから、ルスランはそっと視線を逸らした。彼女は今、生まれて初めて生の実感を全身で味わっている。そんな彼女の横顔を黙って見つめ続けるのは、とてつもなく野暮なことに思えた。
クロージア生態系の膨大な思念を受け止めきれずに《オーグ》が処理能力を破綻させたとき、それまで《繋がれ》ていた人々は強制的に《繋がり》を解かれることになる。《スタージアン》も《クロージアン》も、そうなることを想定していた。それは同時に、長年《スタージアン》であり《クロージアン》であり続けていた人々の死を意味する。
N2B細胞由来の精神感応力によって《繋がれ》た人々は、十分な処置も無しに《繋がり》を解かれれば、精神的な大ダメージを受けてやがて死に至る。それは経験に裏打ちされた、確定した未来のはずであった。クロージア生態系と《オーグ》を引き合わせるという手段は、彼らにとって文字通り最後の手段だったのである。だからファウンドルフも、最後の手段を選んだ瞬間から自身の死を覚悟していた。
だがファウンドルフは死ななかった。生まれながらに《繋がって》いた彼女は、誰よりも必然的に死に至るはずであったが、こうして生き残っている。
それはつまり彼女以外の《クロージアン》や《スタージアン》も死ぬことがなく、そして《オーグ》がこれまで《繋げて》きた第一から第六の世界の住人も生き延びたということの証明でもある。
ひとしきり涙を流し尽くしたファウンドルフは、ようやく瞳に理性を取り戻しながら、感慨深げに呟いた。
「N2B細胞が無力化して《繋がり》が解除されるなんて、そんな結果は思いもよらなかったわ」
ルスランは一瞬考え込むように間を置いてから、改めてその言葉の意味を確かめる。
「やはりその認識で間違いないんだな。《繋がり》が解けたのは、N2B細胞が死滅したためだと」
「クロージア生態系の思念が膨大すぎて、《オーグ》の処理能力だけでなくN2B細胞まで機能不全に陥ってしまったのよ。今のN2B細胞は人畜無害の、ただの蛋白質と脂質に過ぎない」
「ということはやはり、身体調節機能も無くなったというわけか」
ルスランの問いに、ファウンドルフは赤く腫らしたままの目を向けて頷いた。
「《繋がり》から突然切り離されたヒトが死に至るのは、状況の急変に際してN2B細胞の身体調節機能が暴走してしまい、脳に負荷をかけるから。そのN2B細胞が機能を失った今、《繋がり》を解かれても誰も死ぬことはないわ」
《繋がり》から切り離されたヒトが死に至る、その原因を解明したのは、銀河系人類社会――第七の世界を《繋がり》の中に収めた《オーグ》である。
そもそも《繋がり》からヒトを切り離すという経験が有り得なかった《オーグ》にとって、そのようなケースを知り得たのは第七の世界と《繋がって》からのことであった。そしてほぼ瞬時に原因を解き明かしてしまったのだから、《オーグ》が集積してきた知識と処理能力には舌を巻くしかない。
「そこまで察していた《オーグ》のことだから、たとえばN2B細胞に細工していた可能性はないか。《オーグ》が消滅した後の犠牲を最小限に食い止めるために」
「さあ、どうかしら。少なくとも私にはそんな記憶は残ってないけど。《オーグ》は私たち自身でもあったのよ、隠し事なんて出来ないわ」
「さて、そうも言い切れないだろう」
ふたりのやり取りに不意に口を挟んだのは、ホログラム・スクリーンの向こうにいるラージの声だった。
「あるいはクロージア生態系との、あの大混乱の最中に処置が施されたのかもしれん。いったい何が起こっていたのか、私には未だに理解できんぐらいだ。憶えがなかったとしても無理もない」
なるほどと頷きながら、ルスランはスクリーンに向かって身を乗り出す。
「父さんはそんな記憶が残っているんですか」
「いいや、全く。単に可能性の話だ」
ベープの煙をくゆらせながら、ラージは幅広の肩を大袈裟にすくめてみせた。
「ただ、もし《オーグ》が自らそんな対策を取ったのだとしたら、それはN2B細胞代替薬があると知ったからだろうな」
N2B細胞の機能とは、精神感応力の受発信だけではない。むしろ《繋がり》と無縁の人々にとっては、宇宙線障害や惑星ごとの風土病からヒトの身体を守る、強力な身体調節機能こそが重要であった。人々が自由に宇宙空間に出て様々な惑星を往来するためには不可欠な器官と見做されてきたのだ。
その身体調節機能が失われれば、今後ヒトが宇宙空間に進出するには幾多もの障害が予測される。下手をすれば銀河系人類社会そのものが四分五裂しかねない。
だがオルタネイトは、N2B細胞の身体調節機能をほかの身体器官で代替せしめる画期的な薬剤である。オルタネイトがあればこそ、N2B細胞を喪失したヒトは従来通り、恒星間距離に及ぶ活動範囲を保つことが可能なのだ。
オルタネイトは今後のヒトにとって、まさしく救世主たり得る存在であった。
「《繋がり》を解かざるを得ない状況になったら、N2B細胞を死滅させる――それがオルタネイトありきの《オーグ》の選択だとすれば」
「ドリー・ジェスターは《スタージアン》や《クロージアン》だけでなく、第一から第六の世界の住人二百億人まで救ったことになるわね」
その推測にはなんの根拠もない、だがルスランたちにとっては無性に説得力を持った仮説だった。だとしたらオルタネイトの産みの親であるドリー・ジェスターは、今の状況を見ていったいどんな顔を浮かべるだろうか。ルスランはふと、《オーグ》に《繋がって》いた間に垣間見た記憶の中に、少女時代のドリー・ジェスターの姿があったことを思い出す。
それはかつてのスタージア博物院長シンタック・タンパナウェイが、まだ《スタージアン》になる前のこと。若かりし頃に友人たちと共に過ごした忘れがたい思い出として、《スタージアン》の間で連綿と引き継がれてきた記憶だ。
シンタックの記憶の中で長い金髪を揺らす、そばかす顔の小柄な少女は、友人たちとの絆を疑いもしない、心からの笑顔を浮かべていた。
彼女が信じた絆は時代を超えて今、何百億人もの人々の間で紡がれつつある。
「……しばらくはオルタネイトの生産と普及が全てに優先されます。《オーグ》やクロージア生態系の《繋がり》について、頭を悩ませる暇はない」
むしろ悩む暇を与えないことこそが、現状においては最適解だろう。夢から覚めた人々には、未だ状況を把握しかねている今の内に、目の前にある大事を示す。いずれ誰もが状況を理解するだろうにしても、今しばらくは無心になる時間を与えて、無用の混乱を避けるべし。
いかにも為政者らしい彼の判断にファウンドルフも、そしてスクリーンの中のラージも首肯する。
「スタージアのフォン院長に連絡を取りましょう。彼の口からオルタネイト増産を呼び掛けてもらいます」
その提案に対しては、ファウンドルフが首を傾げながら疑問を差し挟んだ。
「今さら博物院長の言葉に、それほどの影響力があるのかしら」
「銀河系人類社会の全員に向けたメッセージだ。ほかに適任はいないだろう」
そう答えるルスランの水色の瞳には、これから取りかかるべき大事に向けて自身を奮い立たせようという、強い決意が宿っている。
「全てのヒトが《繋がり》を経験して、これが最初の共同作業になる。もしかすると、ヒトが新たな絆を育む切欠になるかもしれないと、僕はそう思うんだよ」