【第三章 濁流】 第二話 ヴァネットの記憶(2)
「腹が減ったろう」
部屋に踏み込んできたラセンが真っ先に足を向けたのは、リビングの壁際のカウンター席だった。カウンターテーブルの奥に大きな身体を潜り込ませたラセンは、おもむろに現像機を操作して、やがてサンドイッチやらフライドボールやらの軽食一式が乗ったトレイを取り出した。
「栄養状態には問題ないはずだが、何も口に入れないままというのも精神衛生的に良くない」
そう言ってラセンは両手で掴んだトレイを、そっとローテーブルの上に置く。
目の前で繰り広げられた彼の一連の振る舞いは、ファナに違和感を抱かせるのに十分だった。
「本当に、変わっちゃったんだ」
諦念のこもったため息を肺の底から吐き出しながら、ファナはのろのろと籐製のソファに腰を下ろした。彼女の向かいに巨体を下ろしたラセンが、不審げに口を開く。
「そんなに、目に見えるほどの変化を感じるか」
「当たり前でしょう」
そう答えるとファナはサンドイッチの一切れに手を伸ばした。さして空腹は感じていないが、ユタの言う通りであれば十日以上も食事を取っていないことになる。別の形で栄養は補給されていたのだろうが、なんらかの料理を口にしたいという欲求はあった。
「ラセンが私のために料理を差し出すなんて、この十年見たことないよ」
サンドイッチを一口頬張りながら、ファナは半ば腹を立てたような口調で言い放った。
「自分のことは自分でやれって、ずっと突っぱねられ続けてきたんだから。それにさっきのトレイを置く仕草だって、本当のラセンなら乱暴に放り投げて、フライドボールがそこら辺に転がってないとおかしいわ」
悪いものどころではない。それ以上にはるかに性質の悪いものを、ラセンは身体の内に取り込んでしまったのだ。
「なるほど」
両膝の間に指を組んだ両手を垂らしながら、ラセンはファナの言葉に素直に頷いた。
「そういったずれを相手が感じても、通常ならすぐ気づいて修正するし、同時に相手の精神に干渉してずれを忘れさせることも出来るんだが」
「いいよ。だいたいあなたの中身が別人だってことは、とっくにわかってたことだし」
今さら確かめることでもない。ヴァネットの死を目にしてあんなに冷静に突き放すことの出来る男が、彼女の知るラセン・カザールであるわけがない。
ファナの突き放したような物言いに対して、目の前の別人に成り代わったラセンは軽く面を上げて口を開いた。
「ファナ、それは違う」
「違うって、何が」
「お前にとっては不本意だろうが、俺はラセン・カザールにほかならない」
組んだ指を解いて右手を胸元に当てながら、ラセンは淡々とそう告げた。
「ただラセン・カザール個人の人格のままではお前に混乱を与えるだろうと考えて、今は我々の平均的な人格が代役を務めているに過ぎない。後ほど彼の人格が再びこの身体に復帰することは約束しよう」
目元まで前髪に覆い隠れたラセンの厳つい顔が、その風貌にそぐわない堅苦しい言葉を吐き続けて、ファナは徐々に眉間に皺を寄せていった。
彼女にとってラセン・カザールとは、その威圧的な容姿から大雑把な中身まで、どちらも彼を構成する切り離せない要素なのだ。だというのに目の前のラセンの身体を乗っ取った何者かは、ヒトの身体をまるで気軽に乗り降り出来るオートライドだとでも思っているのだろうか。
「だったらなんでラセンの姿で現れたのよ。いっそ初対面の誰かでも寄越してくれた方が、よほどましだったのに」
「お前にとって馴染みのある人物の方が、安心出来ると思ったんだが。言われてみれば無神経だったかな」
そう言ってラセンは無精髭の生えた顎先に大きな右手を当てた。
「なにしろ精神感応力が通じないヒトとの交信は、何百年ぶりかのことなんだ。失礼があったら謝ろう」
何百年ぶりなどという表現が当たり前に口を突いて出る辺り、もはや相手はラセン個人を装うつもりはなさそうだった。
「いい加減、正体を明かしてくれてもいいんじゃない」
ソファの背凭れに上半身を預けたまま両腕を組んで、ファナはラセンに冷ややかな視線を向ける。彼の顔を敵意を込めて見つめ返すには、まだ少なからぬ努力が必要だった。
彼女の問いに、ラセンは太い首をかすかに傾げてみせる。
「既に承知しているだろうに、改めて確認する必要もないだろう」
「ご託はいいから、さっさと名乗りなさいよ」
胸を反らせて虚勢を張るファナに対して、ラセンは改めて畏まるわけでもなく、さりげない口調で答えた。
「長い時を経てかなり誤解や曲解されてしまっているが、根本的な認識は間違っていない。お前たちの察する通り、我々は《オーグ》。千年前に《原始の民》を送り出した者だ」