【第二章 銀河ネットワーク】 第六話 脅威の兆候(1)
一見すると巨大な倉庫かと見紛う広々とした一室が、代々のエルトランザ領デスタンザ市政長官が居室としてきた歴とした執務室であった。
巨大な塔の最高層部に設けられたその部屋は、壁一面の窓を背にした執務卓と、その前の応接セット以外にはこれといって見るべきものはない。床も壁も表面を金属質の鈍色に覆われて、入室した者は等しく落ち着かない孤独感に襲われる。
来訪者に対して心理的優位に立つよう、ガーク家の初代当主が注文したというデザインは、デヤンの代になっても連綿と受け継がれていた。
「僕の代になったら、この殺風景な部屋はさすがに改装しますよ」
ジョンセンは室内をぐるりと見回しながら、何度口にしたかわからない台詞を嘆じた。
応接セットのソファに深々と腰掛けた長身は、黒地に金糸の刺繍が彩られた詰め襟の、エルトランザ軍高級士官用の軍服に包まれている。ジェスター院を卒業してからの彼は、ガーク家の人間らしいエリートコースをなぞって、エルトランザ軍デスタンザ守備隊を指揮する身だ。
「いざ長官の座に就いてみると、意外とこの部屋も悪くない」
執務卓に着席するデヤンが、そう言って恰幅の良い身体を揺する。
「逆に言えばこの部屋に慣れない限り、まだまだお前も修行が足りないということだ」
「この監獄みたいな部屋に慣れろというんですか。参ったな」
丁寧に撫でつけられた黒髪を掻き上げながら、ジョンセンが天を仰いだ。視界に入る天井もまた、一部の照明パネルを除けば鈍色一色で統一されている。
やがてジョンセンは父の無表情にゆっくりと、探るような視線を向けた。
「そんな話のために呼び出したわけではないでしょう」
息子に質されてデヤンは、いかにも何気ない口調で口を開いた。
「サカ方面を警戒中のパトロール艦隊より、亡命者を確保したという連絡が入った」
「亡命者?」
ジョンセンは首を傾げながら、父の言葉を繰り返す。
「サカ領に至る極小質量宙域は、向こうの管制ステーションが音信不通になってから事実上封鎖されているはずですが」
「亡命者を保護したのは極小質量宙域近辺からは程遠い、サカ領との最短ルートに当たる宙域だ」
デヤンのもったいぶった物言いに、ジョンセンは心持ち眉をひそめてみせた。
「どういう意味です。まさか恒星間航行ではなく、亜光速巡航で直接サカ領からやってきたとでも?」
「そのまさかだ」
さりげない口調はそのままに、デヤンの重たげな瞼の下から放たれる眼光は鋭かった。父の眼力には慣れているジョンセンも、その言葉には驚かざるを得ない。
「直接サカから? どんな高速艇でも十年はかかりますよ。そんな馬鹿げたことが……」
「亡命者の証言によれば、サカを脱出したのは十三年前だそうだ。計算上は合うということだな」
淡々と語るデヤンを見て、父はその亡命者の言葉に一片の真実を見出していることを、ジョンセンは確信する。同時に父の無表情の裏から透ける、危うさも見て取っていた。
「いくらなんでも信じられない。父さん、焦ってはいませんか」
「……お前にはそう見えるか」
「失礼を承知で言いますが、連邦編入構想の頓挫をまだ気に病まれていませんか」
サカと正統バララトの音信不通という非常事態を迎えて、エルトランザをまるごと銀河連邦に加入させようというデヤンの目論見は、唐突に破綻した。彼が秘かに接触していた連邦側の窓口であるランプレーが、突然手を引いたためである。エルトランザの中央政界で秘密裏に賛同者を募っていたデヤンは、完全に梯子を外された格好になった。
エルトランザの国益になると信じ、同時にこれを機に中央での権勢を築こうとしていたデヤンは、逆に中央での足掛かりを失った。ジョンセンにとっても口惜しいことに変わりはない。だがそれ以上にすっかり口数の減った父が、内心鬱々としたものを抱えていることは明らかであった。
「そんな亡命者の言うことなど、今までなら戯れ言と一蹴されていたでしょう。いったい何が父さんの関心をそれほど引いたのです」
「私が気になったのは、サカの沈黙の理由だ」
息子の懸念を気にかける風もなく、デヤンの口振りは変わらずに淡々としている。
「亡命者が脱出する数年前から、サカは国全体が変わっていったそうだ。最初はサカ領奥深く、無人星系を背にする主星から始まって、その変化は徐々に全体に広がっていったという」
「変化といっても、どう変わっていったのですか」
「そこが今ひとつ要領を得ないが、どうやら亡命者は身の危険を感じて、命からがらサカ領を飛び出した。だが極小質量宙域周りの管制ステーションにも手が回っており、やむなく亜光速巡航で直接我々の元まで逃れてきたというわけだ」
デヤンの言うことを、ジョンセンは頭から信じる気にはなれなかった。サカ領から恒星間航行に頼らず直接デスタンザ星系までたどり着く可能性は、なくはない。だが漂流は単なる犯罪者の脱走の結果かもしれず、亡命を名乗るのは単に保護を求めての狂言の可能性も有り得るのだ。
露骨に眉をしかめる息子に、執務卓のデヤンはそれまで無表情だった口元の端を軽く吊り上げてみせた。
「私も、その言葉を全て信じ込んでいるわけではない」
ようやく父の顔に余裕が生じたのを認めて、ジョンセンは小さく息を吐き出した。
「あまり驚かせないでください。父さんの気の迷いを疑うところでした」
「ただひとつだけ、その亡命者は気にかかる情報を口にしている」
デヤンはそう言って微笑を収めると、執務卓の上にわずかに身を乗り出した。
「サカは既に、あらゆる星系が“機械”に占領されている、と」
「“機械”……」
「そしてデスタンザに至る宙域でも、その“機械”を見たとも」
父の話の核心がようやく見えてきたように思えて、ジョンセンは組んでいた脚を解き、執務卓に身体全体を向け直した。
「なるほど。その“機械”とやらが本当に存在するのか調査せよ。もし存在するなら、可能であれば鹵獲せよ。そんなところですか」
「さすがに話が早いな」
今度こそ顔全体に笑みを浮かべて、デヤンは頷いた。
「亡命者の確保を、中央はまだ知らない。この件は今のところデスタンザだけにとどめている。サカ沈黙の原因を我々の手で先に解明出来るなら、中央に対する発言力を回復する足掛かりにもなるというものだ」
父の顔が見慣れたふてぶてしさを取り戻したのを確かめて、ジョンセンの口角も思わず上向く。
「結構ですね。ところでその亡命者は今、どこに居るのですか? できれば直接聞き取りしたいのですが」
「残念ながらそれは不可能だ。亡命者は既に死亡している」
微塵も残念さを感じさせない口調で、デヤンは頭を振った。
「先天性N2B細胞欠損だったらしい。備蓄していたオルタネイトも尽きて、確保したときは既に宇宙線障害で瀕死の状態だったそうだ」
「それはまた。そんな体質で十年以上の逃避行に挑むとは、なんらかの切迫した理由があった裏付けにはなりますか」
「そういうことだ。よろしく頼むぞ」
するとジョンセンは唇の右端だけを吊り上げながら、すっくとソファから立ち上がる。
「ことの性質上、私が直接出向くしかなさそうですね。先週戻ったばかりだというのに、ベルタが臍を曲げないか心配ですよ」
「彼女は賢い、よく出来た嫁だ。逃げられたりしないよう、しっかりと機嫌を取っておくんだな」
苦笑混じりに頷いて、ジョンセンはそのまま踵を返した。この無機質なだだっ広い執務室には、やはり慣れることがない。父には悪いが代替わりの際には、せめて人間らしい内装に衣替えしよう。
何よりこの部屋で対面する父は、常に増して人間味が削ぎ落とされているように見えてならない。それは市政長官に必要な冷徹さなのかもしれないが、同時に余裕までもが一緒に失われているように思える。
ジョンセンは彼なりに父を尊敬しているつもりだが、執務室にいる父の姿だけは未だに馴染めないのだ。