【第二章 銀河ネットワーク】 第五話 近しい関係(1)
頭のてっぺんから足先まで液体に全身を浸かりながら、呼吸に支障がないという状態は、何度体験しても不思議な気分だ。
鼻や耳、口から喉の奥、肺の隅々まで浸した特殊な溶液は、液中に満たされたナノマシンが酸素呼吸を助ているのだというが、詳しい仕組みまでは理解していない。はっきりしているのはそのナノマシンとやらは、酸素呼吸の補助のためだけにあるのではないということだ。
身体中の隅々まで染み渡った溶液に乗って、ユタの身体を余すことなく調べ尽くすこと。それがナノマシンの本来の目的である。
(何度やってもわからないんだから、いい加減に諦めればいいのに)
遠く離れたトゥーランから届くファナの思念が、呆れた口調でそう呟いた。
(これでもう何度目よ。あんたがそのタンクに沈められるのって)
(人聞きの悪いことを言うな)
ユタが浸かる溶液に満たされたカプセルのことをファナが“タンク”と呼ぶのは、もちろん皮肉が込められている。
(溺れさせられてるわけじゃないんだ。妙な気分なのは慣れないけど)
(そりゃ、あんたが溺れてたら私だって今頃窒息してるだろうからね)
ファナは今、自治領総督室にこもるラセンを待って、ヴァネットと共に総督府ビルのロビーで待機中だ。トゥーランは既に真夜中近く、ロビーの窓ガラス越しに覗く街並みも暗がりに覆われている。
(お腹が減ったわ)
ラセンが彼の父ラージとの面会に入ってから、既に三時間以上が経過している。面会後に共に夕食を取るつもりのファナだったが、目当ての店はとっくに終業時刻を過ぎて、人気のないロビーでひたすら空腹を抱えていた。
(ラセンの言う通り、先に飯を食ってりゃ良かったのに)
(新しいお店がオープンしたって聞いたから、一緒に食べに行きたかったの)
どこから照らし出されているのかもわからない淡い光と、溶液に包まれた浮遊感の中にあって、ユタは軽く眉をひそめた。
(ファナ、お前さ)
彼が思念を言語化するより前に、感情の方が一足先に相手に伝わる。だからファナはにべもなくユタの言葉を遮った。
(いいよ、別に余計なこと言わなくて)
(いや、聞けって。お前、ラセンにいつまで執着するつもりなんだよ)
(ウールディ追っかけてスタージアまでついてった癖に、未だに手も出せないへたれには言われたくないなあ)
お互いに痛いところを突き刺し合って、双子の間に漂ったのはただ漫然とした、整理のつかない感情のうねりであった。だが同時に、お互いの感情を理解するまでのタイムラグが、明確に生まれつつあるということを実感する。その原因は《繋がり》が途絶えている間に、それぞれの精神が異なる成長を遂げているためであろうことは、ふたりの間では共通の認識だった。
生まれたときから隠し事ということをしたことがない、そもそも不可能だったふたりが、片や宇宙船に乗って銀河系を飛び回るようになり、片や銀河系の最果ての星に居を移した。そのおかげでふたりは頻繁に途絶えては《繋がる》ことを繰り返し、ここ数年は《繋がって》いる時間の方が少なくなっている。
ユタが今“タンク”の中にいるのも、ファナがトゥーランを訪れたことによって久しぶりに《繋がり》が回復した機会を、《スタージアン》たちが見逃さなかったためだ。『レイハネ号』の航宙シミュレーターに取りかかっていたユタは、急遽彼らに連れ出されて“タンク”に放り込まれたのだ。沈められる、というファナの言い回しは、実のところかなり正確な表現だった。
(ウールディは俺の気持ちなんてとっくにわかってんだぞ。わかってて、俺たちはこういう関係でいるんだ。ほっとけよ)
ようやく言語化したユタの思念に対して、ファナの反応は極めて冷ややかだった。
(そうやってウールディのせいにするなんて、最低だよね)
(最低ってこたないだろ)
(あのねえ、どんな想いも言葉や行動に出すまでは、定まらないんだから)
その台詞は、ユタもどこかで聞いたことのある言葉であった。
(当たり前でしょう。昔、シャーラに言われたのよ)
ファナに言われてようやく思い出す。確か、ファイハ家に引き取られて間もない頃、シャーラが双子に向かってかけた言葉だっただろうか。
(ユタはウールディがなんでもかんでもわかってくれてるってことに甘えすぎなの。あんたから聞き出さなきゃ、あの子だって自分の気持ちを口に出来ないでしょう)
至極真っ当な指摘にユタはぐうの音も出ない。反論にまごつく弟に向かって、ファナは立て板に水とばかりに捲し立てた。
(びびってんじゃないわよ。あんたはウールディの心を読み取れないんだから、知りたいって言わないことにはどうしようもないじゃない)
“タンク”の中で浮遊しながら手厳しい叱咤を受けているとは、彼を観測中の《スタージアン》も思うまい。
(ウールディもね、最初に会った頃はもっと素直だったのに。あんたたちはふたり揃ってウールディの読心術に頼りすぎ。言葉足らずもいいとこよ)
嘆息混じりの呟きは、ユタに聞かせるためではない。《スタージアン》の観測に立ち会って、ふたりの思念の交換を読み取っているはずのウールディにも向けられたものなのだろう。
(言っとくけど私は、ラセンに何度もアピールしてるから。ちゃんと気持ちは伝えてあるからね)
目の前にファナがいれば、きっと誇らしげに胸を張りさえするのだろう。だが彼女の堂々とした態度はユタにとって、むしろ痛々しくすらあった。
(それで何度もフラれてるんだから、いい加減にしとけって言ってるんだろ)
(それこそ私の勝手でしょう。宇宙船を降りろって言われるまでは、私は諦めないから)
(これでも俺なりに、お前の普通の幸せを願ってるだけなんだぜ)
(その言葉はそっくりそのままお返しするわ)
ファナの痛烈な返答にユタが口ごもっていると、不意に溶液全体の明かりが淡い明滅を始めた。観測が終了し、間もなく“タンク”が開く合図だ。
(そっちはそろそろ終わりね? こっちもラセンの用事がもうすぐ終わるらしいから、じゃあ“閉じる”よ)
“閉じる”とは、言語化された思念のやり取りの中断を意味する、双子の間だけで通じる隠語である。意味合いとしては会話を打ち切るという状態に近い。だが《繋がって》いる間は感情も意識も共有する彼らにとっては、それぞれを意識的に区別しての思念の交換を、無意識に委ねると言った方が正しい。
(あんまりラセンを困らせるなよ。ヴァネットにもよろしく言っておいてくれ)
ユタの呼び掛けに対して、言語化された思念の回答はなかった。代わりに返ってきたのは曖昧な了解と、同時に彼の言葉を鬱陶しがる想いが入り混じった、漠然とした感情だった。
やがて“タンク”内の照明が暗転したかと思うと、横たわっていたユタの身体と同じ高さから蓋が開き出した。下に配されたプールに向かって溶液が流れ出す中、“タンク”の底に腰を下ろしたユタがゆっくりと上体を起こす。溶液に濡れそぼった短髪を右手で掻き上げながら、周囲を見回した視線の先――プールの向こうに隔てられたガラス窓越しに認めたのは、困ったように苦笑するウールディの姿であった。