【第一章 大途絶】 第六話 隔たりを超える者(3)
「うん、まあ。研修自体はつつがなく」
「その割にはなんだかふぬけた声してんな」
生気に欠けたウールディの声を聞いて、ユタのつむじが左右に小さく揺れる。
「ちょうどウールディが研修に行った、次の日かな。入れ違いでラセンが来たんだよ」
「うん」
「驚かすつもりで事前連絡しなかったって言ってたけど、ウールディがいなくてがっかりしてたぜ。今度はバララト方面に用事があるからって、すぐに行っちゃったけど」
「へえ」
(どうしたの、ウールディ。絶対に口惜しがると思ってたのに)
思考が感情に追いつかない状態のまま反応の鈍いウールディに、ファナの思念が訝しげに問いかける。
(そんな素っ気ないと、ラセンがますます凹んじゃうよ)
「ああ、いや、ラセンたちに会えなかったのは残念だよ。でも、ちょっと色々考えなきゃいけないことがあって……」
(そうなの? 大丈夫だって、ラセン。ウールディも会えなくって残念だってさ)
ファナが、どうやらそばにいるらしいラセンに声をかけている。
ユタを通じて彼女の思念をさらにたどると、鳥の巣のような黒髪に覆われた、馴染みのある面長の巨漢の姿が目に入った。「馬鹿なこと言ってないで席に着け。そろそろ極小質量宙域を超えるぞ」という、ラセンの叱咤が聞こえる。
ファナの目に見える範囲に、ラセンがいるということだ。ヴァネットの茶髪のソバージュヘアも、視界に映り込んでいる。ふたりともファナの近くにいるのなら、次にジャランデールに来れるのはいつ頃になるか訊いてもらおう。そう考えて――
強烈な違和感が、ウールディを襲った。
「どういうこと!」
背後から唐突に大声を張り上げられて、ユタは思わず自動一輪の操縦レバーを手放すところだった。
「おい、驚かすな――」
「ファナ、あなた今どこにいるの?」
目を見開きながら、ウールディはユタの思念の先にいるファナに向かって、声を張り上げるようにして問い質した。
(ああ、気がついた?)
きっと白い歯を覗かせて、笑顔を浮かべているのだろう。ファナの胸の奥からこみあげる抑えきれない期待と興奮が、ウールディの脳裏に流れ込んでくる。
(実は今、ラセンの宇宙船の中なんだ。本気で宇宙船乗りになるつもりなのか適性を見るって口実で、バララト方面の往復に乗せてもらっちゃった)
嬉々として語るファナの言葉に、ウールディが驚愕したまま息を呑む。
(長期休暇が明ける前には帰るから、安心し……)
「駄目よ!」
届くはずのない虚空に向かって、ウールディが必死の形相で手を伸ばす。激しく動き回るその手が前席の頭や肩にぶつかって、ユタは耐えきれずに自動一輪を道路の脇に急停車させた。
「危ねえだろ、何考えてんだよ!」
勢いのまま前席から飛び降りたユタが、後部座席に顔を向ける。すると彼が重ねて怒鳴りつけるよりも早く、既に降り立っていたウールディが両手を伸ばして、彼の両肩をしっかりと掴まえた。
「ファナ、引き返して!」
青ざめるどころではない。限界まで見開かれた両目を血走らせて、目尻には涙さえ浮かべながら、ウールディが訴えかけたのはユタの思念を通して見える、ファナに対してであった。
「それ以上遠くに行っちゃ駄目なの!」
(それは、ちょっと無理。もうすぐ恒星間航行に入るところだし)
ほとんど悲鳴のような呼び掛けに当惑しながら、ファナの声は徐々に掠れて、聞き取りにくくなっていった。
(ごめん、ウールディ。なんだかよくわかんないけど、続きは帰ってからね)
ファナの思念がウールディの知覚から、それとわかるほどの勢いで遠ざかっていく。同時にウールディの血の気も、急速に引いていく。
「落ち着け、ウールディ」
ユタもまた戸惑いながら、彼女の両手首を握り返した。彼の肩を掴んでいた両腕をゆっくりと持ち上げられて、ウールディは半開きになった唇をさらに歪めながら、今度はユタ自身の顔を見つめ返す。
「ユタ……」
「ウールディ、何がどうしたんだ」
そう言って今度はユタが、ウールディの両肩を掴み返した。力が入らなくなった両腕をだらりと垂らしたまま、ただ彼の顔を凝視ながら、ウールディはもはやそれ以上声を出すことも出来なかった。
こうしている間にも、ファナの声はもうほとんど聞こえなってしまった。
恒星間航法を用いて極小質量宙域を経由した宇宙船が、隣接星系にたどり着くのにどれほどの時間がかかるものなのか、ウールディにはわからない。
ただそれが長かろうと短かろうと、絶望へのカウントダウンであることに変わりは無かった。
ファナたちが乗る宇宙船が隣接星系に姿を現したと同時に、ファナとユタの《繋がり》は断ち切られてしまう。そしてその結果――
「お、ついに聞こえなくなった」
ユタの口から発せられた、多少なりとも感慨深げな言葉は、ウールディにはやけに間が抜けて聞こえた。
「……え?」
「どこまで《繋がりっ》ぱなしなのかと思ったけど、さすがにテネヴェの向こうまでは無理だったか」
いったい何のことを言っているのか、混乱直後の頭脳では俄に理解出来ない。ユタの思念を読むことすら失念して、ウールディはぼんやりとした口調で尋ねた。
「どこまでって、どういう――ユタ、平気なの?」
ウールディが憔悴しきった目で見つめる先で、ユタはきょとんとしたまま彼女の顔を見返している。
「平気って、何が? ああ、ファナと《繋がって》いられるのは、テネヴェまでが限界だな。そっから先になるとさすがに、あいつの声もなんも聞こえねえ」
「テネヴェまでって……ファナがさっきいたのは、テネヴェ?」
「なんだよ、そんなこともわかってなかったのか。どうしちゃったんだよ――」
ユタがなんでもないという口振りで発した、言葉の数々。
それは一字一句が、あらゆる意味で常識外の内容ばかりであった。
これまでの恒星間通信理論から、N2B細胞を介した精神感応力の在り方まで覆すであろう、今後の銀河系人類社会に多大な影響を及ぼすに違いない。誰もが夢想し、求め続けてきた超常的な《繋がり》の存在を、彼の台詞は端的に証明しているのだ。
だがウールディにとって、そんなことはどうでも良かった。
少なくとも今、彼女にとって大事なのは、もっと別のことであった。
「ユタ!」
緊張が一気に弛緩して、両目から溢れかえる涙を頬に伝わせながら、ウールディはユタに向かって両手を真っ直ぐ前に伸ばした。
「おい、なんだ、どうした」
驚くユタの首に抱きついて、歓喜を噛み締めるように嗚咽を漏らす。
ファナとユタは《繋がり》を断ち切られても、大丈夫なのだ。
そうとわかってもなおしばらくの間、ウールディは抱擁を解こうとはしなかった。
「良かった、本当に良かった……」
ユタの身体にしがみついたまま、どれほどの時間が経っただろうか。やがてようやく泣き止んだウールディは、ふとあることに気がついて顔を上げた。
「ユタ、もしかして背が伸びた?」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたウールディと、ほとんど鼻先が触れそうな距離の先にある、ユタの顔は未だ困惑したままであった。
「そうか? ついにお前の背を抜いたかな」
「それは、どうかなあ」
涙の跡を拭うこともなく、ウールディはそのまま笑いかけながら、ユタの頭を両手で抱え込んだ。それぞれの瞳に互いの顔を映し出しながら、そのまま距離を詰めて――やがて互いの額が軽く触れる。
「ほら、まだ目線の高さがおんなじ」
「……そうだな」
困惑を通り越し、顔を真っ赤にして動揺するユタが、どうしようもなく愛おしい。
この事態、現象について、疑問は山のようにある。だけどそんなものはこの一瞬だけでも、どこか片隅に放ってしまおう。
目の前のユタが無事であること。今のウールディには、それだけで十分であった。