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「駄目だ。ここまで、お前の気が済むならと付き合ってきたが、もう間もなく迎えが来る。一緒に帰るぞ」
いつになく、妹に強い語気で春陽が言う。掴まれた腕も、強い力で少し痛い。でも、めげない。
「いやっ。まだ、やれる事があるの。私にできるかもしれない事が、止める事ができるかもしれないの! それを……痛いっ」
言葉の途中で、春陽に握られた腕にさらなる痛みが走った。バッと春陽を見ると、珍しく俯いていた。
「し、姉さん……」
私の声に、春陽はハッと顔を上げた。
その表情は、見た事が無いぐらい辛そうな顔……いや、違う。
この明るくて底抜けにパワフルな春陽が、辛くて、悲しそうな顔をしているのを、私は見た事がある。
……そう、母様が亡くなった時だ。
「珠香。お前が私を、私達を心配してくれている気持ちは、すごく嬉しい。戴の戦だ、いつ環が巻き込まれるかわかったものじゃない。でもな、珠香。私達もお前と同じくらい、お前の事を心配しているんだ。特にお前は、剣が持てない。みんなお前の事が心配なんだ。それだけは、忘れないでくれ。そしてどうか、安全な環都の中に居てはくれないか。そうしたら、私達も安心して戦える」
真剣な……ともすれば泣きそうな声で話す、春陽。
新しく溜まった水が、目頭から溢れて、流れ落ちていく。姉の、家族の、絶望的なまでの優しさに。
「でも、だって、だって、私が諦めたら、みんな……」
溢れ出る涙が、止まらない。ボタボタと重力に従って落ちていくだけ。
ふと、優しそうな表情をする春陽と、目が合った。
「ああ、死ぬかもしれない。だけど、死なないかもしれないじゃないか。お前が、独りで抱えむ必要は無いよ、珠香。妹妹」
久しぶりに呼ばれた、妹妹、という呼び方。
自分より小さな妹、末の女の子につけるもの。まだ玉雲が産まれる前に呼ばれていた、呼び方。
姉にとっては、今だに私は小さな女の子。
涙が、止まらない。次から次へと溢れ出してくる。
姉の優しさだとか、残酷さだとか、懐かしさとか恥ずかしさとか。色々な感情が混ざり合って、涙に混ざって流れ落ちて行く。
ギュッと、誰かに抱き締められた。
姉だった。
私も姉を抱きしめ返す。いや、縋りつくといった方が正しいかもしれなかった。
そのまま、しばらく嗚咽を漏らしながら泣いていた。
ようやくさすがに涙も、心も落ち着いてきた。
そっと、身体を離す。
「……ごめん、姉さん。心配ばっかりかけて」
心の底から出た本音。
涙と鼻水をぬぐいながら春陽を見ると、彼女は困ったように笑っていた。
「心配するのが、長子の役目だからな。と言っても、兄上は今のお前の境遇を聞いたら、卒倒するかもしれんな」
あはは、と冗談めかして笑う春陽につられて、私もちょっと笑う。
まさか、あの兄上でも卒倒はしないだろう……しないだろうと思う。母様が亡くなってから、下の子に対して過保護気味だったもんね、伯景……。
「せやねぇ、帰れる道があるうちに、帰った方がええよ」
珊瑚が、私達のやり取りを見ながらも、なんの感情も読み取れないニヤニヤ顔で気楽に言う。この人、隠密だけど何かそれ以外の物を感じる。ただの愉快犯かもしれないけど。
「……あの、珊瑚さん。お迎えっていうのは?」
慶珂が、恐る恐るという風に珊瑚に聞いているのが聞こえた。
「ああ、坊ちゃんには言うてへんかったね。環からアタシたちを迎えに、数人使者が来てるんやって。旦那もいるし、なんや、瑞の坊ちゃんも来るんやってぇ」
「「え?!」」
珊瑚の発言に反応したのは、慶珂ではなく、私達姉妹だった。
「なんで悠陽が?!」
「春陽、まだ悠陽って決まったわけじゃないと思うよ。お父様が、悠陽まで環の外に出すとは考えにくいし」
「む、確かに。だけど、だとしてもあの兄上が数日とはいえ旅に出るかなあ?」
「さあ。先生に感化されて、少しは外に出ようって思ったとか……ないかな。珊瑚さん、来ているのはどっちなんですか?」
春陽と話していてもらちが明かないので、直接珊瑚に聞く事にした。問われた珊瑚は、ニヤニヤ顔のまま。
「わからへん。瑞の坊ちゃんとしか聞いてへんし」
そう、あっけらかんと言い放ったのだった。
とりあえず。
環からの使者、迎えを綜で待とうという話で、今晩は落ち着いた。
みんな、ホッとした顔で戻っていったから、これで良かったんだと思う。
万策尽きた。
できる事は、無い。
いや、思戯の無事を願う事しかできない。
夕方に中途半端に寝てしまい、今だに眠気がこないせいで、色んな嫌な事を考えてしまう。
この先の事。今まで、どうしたらよかったのか。もし双子が揃うなら、そのまま王都に何とかしていければ、謁見できるんじゃないかなとか。……春陽や玉雲なら、もっと色々できたんじゃないかな、とか。
もう環に帰るって、諦めているのに次から次に浮かんでくる思いは、それと正反対の事。……思戯の事。
大丈夫かなとか。私を逃がすって言った事で、不利な状況になってないかなとか。私の事忘れちゃったかな、とか。
恋、と呼べるものを前世も今世もろくにしてこなかったので、この気持ちが何なのか、ハッキリとわからない。
否定したい気持ちは、恥ずかしいから? 思戯をよく知らないから? 良く知ってたら、恋になるの?
でも、慶珂の事は良く知ってるけど、恋じゃない。あるとしたら、家族愛。
恋を知らないというわりには、恋を否定するこの気持ちは、どこからくるんだろう。
もう、何もわからない。
トントン。
ビクッとした。あんまりにも深く考えこんでいたせいだろう。思わず声が裏返った。
「はいっ?」
「お嬢さん、オレだ。慶珂だ。まだ起きてるか?」
驚いた。こんな夜中に、慶珂が訪ねてくる事なんて無かったのに。
さっき何か言い忘れた事でもあったのかな。
まだ寝れる気がしなく普段着だったので、そのまま扉を開けた。
目の前には、何かを悩んでいる風な顔の、慶珂が立っていた。
「どうしたの、慶珂。珍しいね。とりあえず、中にどうぞ」
「あ、ああ……。オレだから良いけど、あんまり夜中に男を部屋の中に入れるなよ」
「わかってるわよ。慶珂だから入れるんでしょ」
自分が苦言を呈したくせに、私の言葉には一瞬微妙な顔をした。
が、慶珂は何も言わず部屋の中に入ってきた。椅子をすすめると、素直に座る。
「で、どうしたの?」
もう、お茶を出すような道具はこの部屋に無いので、自分も反対側の椅子に座りそのまま聞いてみた。
慶珂は、何やら迷っているようだったが、ようやく口を開いた。




