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 ようやく劉家の屋敷に戻って来たときは、安堵で逆に吐くかと思った。我慢できたから良かったものの、危うく失態を冒す所だった。

 帰って来た私の顔が蒼白すぎたのだろう。

 時間が無いのに、三人に休めと懇願されて、部屋でちょっと横になったら、すぐに意識が飛んだ。


 疲れていたみたい。


 暗い中、ふと目を覚まして思った事が、それだった。

 幸い、気絶というかお昼寝したら、だいぶ気分がマシになっていた。馬車酔いもほとんど抜けた。

  

 起き上がり、灯明皿に火をつける。

 小さな灯りだが、落ち着く。薄暗いと、考えがまとまらないからね。

 落ち着いて、今日の事を整理して、これからの事を考えなければ。

 そうは思うものの、心は既に焦っていて、なにもかも手遅れだという絶望感に苛まれる。

 少しの希望にかけて、王都に行くべき? それとも、もう諦めて環に帰るべき?

 尹と戴の戦なら、中央と二国を隔てている長永江を渡ってまでこちら側で戦をしないとは思うので、環に帰るならすんなり帰れるはずだ。春陽もいるし、その内迎えがきて強制的にでも環に連れて帰られるだろう。


 ならば。


 王都に行ってから、環に帰っても良いのではないだろうか。

 迎えに来る、という環からの使者には悪いが。さっさと結論を出さないと時間切れになってしまう。

 私は、外に出て劉家の使用人さんを探して、三人を呼んでもらう事にした。


 三人が来る前に軽く食事を取って、待つ。

 そんなに経たないうちに、


「珠香、具合は大丈夫か?」

「姉さん。うん、だいぶマシよ」


 春陽が、ホカホカしながら入ってきた。どうやら、鍛錬の後で汗を流してきたらしい。


「お嬢さん、失礼します」

「入るえ」


 慶珂と珊瑚も、少しだけ遅れて入ってきた。

 みんなが集まった所で席に座ってもらう。

 まだ迷っているし、これが正解なのか、いや、もう何が正解なのかわからない。

 そんな私の様子を察したのか、慶珂がおずおずと話しかけてきた。


「お嬢さん、会見はできたんですか?」


 労わるような、それでいて結果を悲観しているような声音。慶珂の言葉に、私は頷いた。


「うん。少しだけだけど、直接話せたわ。結局、動いてもらう事は出来なかったけど……道が、見えた。私、やっぱり王都に行くわ」


 私の宣言に、三人ともがえっ、という顔をした。春陽と慶珂は声を上げ、珊瑚は驚いたような顔で口に手を当てていた。


「もう、戴と尹は軍を出発させたみたい。だけど、もしかしたら、舜王に会って玉璽をもらえたら、綜侯が動くかもしれないの」


 その結果は激烈を極める、と宰相は言った。だけど、そうならないかもしれない。あれだけ綜を意識していた尹なら、兵を退くかもしれない。やってみないと、わからないじゃない。

 そう、やってみないとわからないのだ。

 この提案が、いくら現実離れしていて実行が絶望的だとしても。鼻の奥がつーんとする。


「どうやって舜王に、今上陛下きんじょうへいかに会うつもりなんだ」


 春陽が、あのいつでも私に優しかった姉が、怒ったような口調で詰め寄る。


「どうにかしてよっ」


 返す私も、理論的ではなく反射的に声を上げた。こんな所で春陽と争いたいわけではないのに。


「お嬢さん、もう諦めてくれよ。軍は既に出て、もう止められないんだろ」


 春陽の前だというのに、敬語を使わず私を止める慶珂。彼も必死なのだろう。


「それでもっ。まだ道があるのよ!」


 私だって必死だ。声が裏返る。泣きそうだ、と思った。


「……珠香ちゃん。残念やけど、それは道ちゃうで。崖や」


 珊瑚までが、痛ましそうな声で私に言う。珊瑚の言葉、というより珊瑚自身にカッとして、


「珊瑚さんは知ってたんでしょう! 環から、私を迎えにくる使者が来ている事をっ」


 つい、八つ当たりしてしまった。

 あの、宰相に会う前の日に、姉とコソコソ話していたのは、きっとこれだったのだ。

 しかし、これは珊瑚が責められる事では無い。ハッとして、小さくなったが、珊瑚に向けてごめんなさいと呟いた。顔が、見れない。

 少し間が空いて、


「珠香ちゃんもわかってた筈やで。うちの旦那が、任務を放棄したわけやない事」


 そう、静かに珊瑚は言った。

 珊瑚の旦那、隠密の頭の黄さんの任務は、私の護衛。

 差し迫った危機があったわけでは無く、代わりに珊瑚や春陽が居たから、一時的に指示を仰ぎに環に戻っていただけ。

 その黄さんが父に指示を仰げば、すぐに連れ戻して来いとなるのは、わかりきっていたハズだ。

 だから急いで綜まで来て、何とか宰相に会ったのに。

 ダメだった。

 時間切れだった。それだけなのだけど。

 何か珊瑚には、悪だくみを一緒にしているような共犯感というか一体感を一方的に感じていたので、勝手に裏切られた気になっているだけだ。


 大きな溜息が漏れた。自分の口からだった。

 時間切れと、環の家族、引いてはここのみんなの反対。

 どっと、身体から力が抜けたようだった。

 椅子に、深く深く沈み込むように、ずり落ちそうになった。

 春陽が慌てたように腰を浮かし、私に手を差し出してくる。それを、顔を横に振って制した。


「……姉さん」


 そんな優しい姉に向かって、縋るような目で、声で、見てしまう。姉は、困ったように眉を下げていた。

 困らせてしまっている。

 この優しい姉を。いいや、ここにいる慶珂も珊瑚も、みんなを困らせてしまっている。

 わかっている、わかってはいるのだが。


「……私はな、珠香。環国の兵として、戦えと言われれば戦うし、環姫様に死ねと言われれば死ぬよ。それを、他国の兵であっても止めさせたいという、珠香の優しい気持ちはわかる。だけど、どうにもならない事もあるよ」


 武人で、軍に入って戦うかもしれない春陽が、あなたがそれを言うのか。

 目がカッと見開かれ瞳孔が開いたのが分かった。同時に、鼻の奥がツーンとして、もう、ダメだった。


「大姉お嬢さん、それ、逆効果かも……」


 慶珂が春陽に囁く声が聞こえる。

 ブワッと出た涙を強引に拭い、私は宣言する。


「いや。絶対に、嫌! 春陽を、悠揚を、父様を……思戯を、飛燕を、絶対に戦場なんかに出させやしせない!」


 私は勢いよく立ち上がった。反動で、座っていた椅子が倒れた。

 部屋の隅には、私の少ない荷物がまとまっている。

 あの中に環木が少し残っているから、綜なら換金できるだろう。その路銀で馬車を走らせて……王都まで急いでいく。これしかない。


「いたっ」


 立ち上がった私の腕を掴む人が居た。

 春陽だった。


「春陽、離して」

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